国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

はじめに

私(Yasuhiro)とボリビア人のLinda(通称)は2015年9月29日にニューヨークで結婚しましたが、翌2016年の1月3日にも妻の実家があるコチャバンバで式を挙げました。3ヶ月以上もの日を措いて2度結婚することになった訳ですが、その「たいへんだった」経緯については「結婚@NYまで」のカテゴリーにまとめています。

最後は嫌味

2019-12-07 | 日記
またしてもYWBGの話で恐縮ですが、新潮社「波」の12月号に掲載された「24. 君たちは社会を信じられるか」について書いてみます。(その直前に収められた著者と漫画家さん2名による鼎談もたいへん面白く、それらだけで定価100円を払って読む価値はあります。PR誌なので私は毎月職場の生協でもらってますけど。)

10月の台風19号襲来時に東京都(台東区)の避難所がホームレスの受け入れを拒否したことを筆者の息子さんがスピーチのテーマにしました。もっともテーマ自体はホームレスの問題ではなく「社会を信じること」であると聞いて、合点がいかなかった筆者は説明を求めます。(連続長文の引用になりそうなので、以下適当に縮め、端折るつもりですが・・・・)

避難所にいないと危険なぐらいの嵐の時に追い返したら命に関わることは職員にも分かっていたはず。何かあったら自分のせいになることも。にもかかわらず、その職員はなぜダメと言えたのか?(息子さんは職員の振る舞いに共感はできないものの、自分をその立場に置いて考えようとしています。これこそが前回投稿のコメント欄にチラッとだけ書いた「エンパシー」です。)

「避難所にいるほかの人たちとか、そこで働いている人たちは、みんなホームレスの人を受け入れたくないはずだと考えたから追い返したんじゃないかな。(中略)だとしたら、ホームレスを追い返した人は、避難所という社会を信じていない」
「・・・・・・・・・」

「社会を信じる(ビリーヴ)」ということは「社会に対する信頼(トラスト)」と言い換えることができ、これはより大きなスケールにも拡大できると思った筆者は考察を続けます。(以下、途中から。)

ホームレスを受け入れなかった避難所は、メディアや一般の人々からも激しく非難されることになった。そうなることを予見できなかった避難所の職員は、社会を見誤っていた、というか、見くびっていたのだ。
 逆に、社会の人々も自分と同じように感じるはずだと信じることができれば、社会には必ず自分の決断を後押しする人々もいると信じることさえできれば、たとえ規則や慣習がどうなっていようとも、現場や個人の判断で誰かの命を守ることはできるはずなのである。

もう十分長いので(←やっぱり)今回はこのくらいにしときます。それにしても、このエッセイには毎回毎回ハッとさせられ、ウーンと考えさせられますわ。これほど期待を裏切らない連載も珍しい。(なお、今回の中心テーマは閉鎖された図書館の建物をホームレスのシェルターとして使うことを快く思わない一部住民による「反社会的行動」でした。これ以上のネタバレは控えますが、冒頭でその伏線を張った後、ここで採り上げた「元・底辺中学校」のエピソードへ移り、最後に両者を関連づけてストンと落とすのが見事! 毎度のことながら、さすがプロの仕事と感心しました。)

ところで、そのスピーチというのは義務教育終了時に行われる全国統一試験のための訓練として授業中に行われるとありました。あちらでは国語の試験にスピーチも課せられるんですね。少し前から「主体的学び」が重要とか何とか言われていますが、その点ではもう霞んで見えないほど置いていかれているという印象を受けます。この際ついでながら、およそ見当外れとしか思えない入試改革で時間とエネルギーを浪費している場合じゃないでしょうに、と言いたくもなりました。
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