軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

青天を衝け(2/2)

2021-04-02 00:00:00 | 日記
 佐久市内山地区にある渋沢栄一の詩碑を見学したのち、その足で青木村に向かった。当地には、故小川原辰雄氏が作られ、現在は青木村の管理になっている「信州昆虫資料館」( http://www.vill.aoki.nagano.jp/koncyuu.html )があり、時々でかけて昆虫標本を見たり、関連の資料を閲覧したりしている。

 その行き帰りにはいつも青木村の道の駅にも立ち寄っているが、ここでの情報で五島慶太氏がこの村の出身であることを知っていた。

 先週、新聞の地域面に「青木村で企画展」「渋沢と五島慶太 関係を探る」という見出しの記事を見て、当地に新しく建設された「五島慶太未来創造館」で「『近代日本経済の父』などと呼ばれる渋沢栄一(1840~1931年)と東急グループ創始者、五島慶太(1882~1959年)のつながりを探る企画展『渋沢栄一と五島慶太』が始まった。」ことを知った。

 この企画展では、「70歳を迎えた渋沢が東京の過密問題を解消するために構想した『田園都市構想』に、五島が参加していくプロセスを資料とともに紹介。2人の出会いに阪急電鉄の創始者、小林一三(1873~1957年)が関わっていたことも明らかにされた。渋沢が事業を進め、五島の出身地である青木村に残る米国からの贈り物『青い目の人形シンシア・ウェーン』も展示した。」とされている。

 NHKの大河ドラマ放送開始に合わせて、渋沢の生誕地である埼玉県と深谷市では特別展などが開かれているが、関係する地方でもこうした展示が行われていた。

五島慶太未来創造館で配布されていた埼玉県での特別展のパンフレット

五島慶太未来創造館で配布されていた深谷市の大河ドラマ館のパンフレット

五島慶太未来創造館の特別展のパンフレット

 五島慶太氏本人に関する展示内容については今回は割愛するとして、渋沢と五島の交流について見ていくと、先ず五島の交友の広さが紹介されている。

渋沢栄一をはじめとする人々と五島慶太のつながり(2021.3.10 撮影)

 五島から見ると、渋沢は実業界の大先輩と位置付けられる。実際、ここに挙げられている他の7人の生没年を比較してみても、渋沢との年齢差の大きさが際立っていることが実感できる。上の写真に紹介されている方々の生没年を比較すると次のようである。


五島慶太が出会った渋沢栄一をはじめとした人々とその生没年(筆者作成)

 新聞記事でも紹介されているように、二人の出会いは70歳を迎えた栄一が、東京のまちが抱える問題を解決するための「理想の住宅地」を実現したいと考えたことに始まる。

 明治に入った東京のまちは、近代化とともに人口が集中し、工場や家が密集していった。栄一は、都市部での人口過密状態での生活は、人々の精神や健康、さらには社会に様々な害をもたらすと考え、自然を多く取り入れた住宅地が必要であると考えた。

 この構想のベースにはイギリスのハワード(エべネザー・ハワード;1850.1.29-1928.5.1)が提唱した、職場と住宅が一体となった緑豊かな街を理想とする田園都市論があったとされる。これに対して栄一は、都心から少し離れた郊外に自然豊かで便利な住宅地を作る日本式の田園都市計画を考えた。

 着想から8年後の1918(大正7)年、栄一が78歳の時に、賛同した仲間とともに田園都市株式会社を設立、自身は相談役として会社を支援することとなった。

 「農村と都会を折衷したような」理想のまちづくりの舞台として選ばれたのは、多摩川沿いに豊かな自然が残りつつも、東京都心まで1時間以内の距離にある現在の目黒区洗足や大田区田園調布周辺であった。

 この郊外の住宅地には、都心まで行き来できる交通機関が不可欠であることから、1920(大正20)年に、田園都市株式会社の鉄道部門が、大井町・調布村(現田園調布)間の鉄道敷設免許を獲得した。

 しかし、会社に鉄道の専門家がいなかったため、鉄道の工事は思うように進まなかった。困った栄一は、株主であった矢野に相談し、矢野の紹介で関西で住宅地開発と鉄道経営に成功していた小林一三を頼ったところ、小林は「鉄道院にいた五島慶太に任せてみたらどうか」と提案した。

 当時、五島慶太は、38歳で鉄道院の役人を辞め、私鉄の武蔵電気鉄道を経営していたが、資金不足のため線路の建設は進んでいなかった。

 悩んでいた慶太に、小林一三が「君の武蔵電気鉄道は規模も大きく進めるのは大変だ。まずは渋沢さんの鉄道を引き受け、線路を作り、住宅地を作りなさい。そこで得たお金で、武蔵電気鉄道をやればよい。」と助言した。

 この言葉に背中を押され、慶太は田園都市株式会社の鉄道の経営に参加することになった。1922(大正11)年には鉄道部門を分離し、目黒蒲田鉄道を設立し、鉄道会社として独立させ、自身は専務取締役に就任した。この会社が現在の東急株式会社の礎となる。 


渋沢栄一と五島慶太の略年表(展示資料を参考に筆者作成)


東京横浜鉄道開通時の写真(青木村資料から)

 今回の展示では五島慶太との出会いの他、渋沢栄一と上田市、青木村とのつながりについての展示も行われていた。

 その一つは上田市に1877(明治10)年に設立された第十九国立銀行である。栄一は明治政府で国立銀行条例の制定など日本の金融制度の基礎を築いた後、1873(明治6)年に政府を退き、第一国立銀行を開業した。そして、上田市の第十九国立銀行(後に第十九銀行)の設立計画で栄一が指導、援助したとされる。
 
 江戸末期、明治、大正と上田地域は製糸、養蚕が盛んで長野県の経済をけん引するが第十九銀行は製糸業振興に金融として大きな役割を果たした。1931(昭和6)年、第十九銀行は第六十三銀行と合併し(19+63=82)、八十二銀行となる。


上田市に残る1917(大正6)年5月15日撮影、上田市での渋沢翁講演会 記念写真 成沢別邸にて(現笠原康平様宅)。この写真に写る人物の情報を探していると、書かれている。

 この写真の下には次の説明文が記されている。

「青年時代に藍商として上田地区を訪れていた渋沢栄一。若き日の縁もあり、大正6年(1917)には、上田商工会議所が中心となり、上田劇場で『商業道徳』と題した講演会を開催しました。この写真は、講演会を記念して、上田町の成沢邸にて撮影されたものです。今でも上田地域には、渋沢の自筆の書、書簡、写真など、ゆかりの資料が数多く残されています。」

展示品の藍玉(2021.3.10 撮影)

 青木村には渋沢栄一とのつながりを示すもう一つの品があった。新聞にも紹介されていた米国からの贈り物『青い目の人形シンシア・ウェーン』と付属の『パスポート』である。

 日露戦争が終わった明治末期、日本人移民や満州の問題で日本とアメリカの関係は急速に悪化していた。この状況を心配したアメリカ人の宣教師シドニー・ギュ―リックは、両国の友情のしるしとしてアメリカ人の子供たちから日本の子供たちへ人形を贈ることを思い立ち、渋沢栄一に手紙を送った。

 日米の親善と平和を強く願っていた栄一は、ギュ―リックからの手紙に共感し、日本側の代表としてこの事業を進めていった。

 そして1927(昭和2)年3月、アメリカから約12,000体の「友情人形」(フレンドシップ・ドール)が日本に届けられた。この人形は日本各地に贈られたが、その内の1体が青木村の中学校に残されていた。

 1941(昭和16)年の太平洋戦争により日米関係はさらに悪化、友情人形の多くは敵国のものとして処分されてしまい、現在約300体が確認されるのみという。

 近隣では青木村のほか佐久市・泉小学校に1体と小諸市・東小学校に1体の「青い目の人形」が大切に保管されている。また「埼玉県立歴史と民族の博物館」で行われている展示会においても、埼玉県内に残され、小学校等で大切に保管されている12体の青い目の人形が集合、展示されているという。

アメリカから贈られた青い目の人形「シンシア・ウェーン」(2021.3.10 撮影)


青い目の人形「シンシア・ウェーン」付属のパスポート(2021.3.10 撮影)


渋沢栄一と「青い目の人形」・渋沢が願った日米親善と友情人形(2021.3.10 撮影)

 今回の企画展の会場となった「五島慶太未来創造館」は、2018(平成30)年8月14日、慶太の59回忌の命日に落雷により火災が発生し、建物が全焼したその生家のイメージを再現したものという。

 幸いなことに、生家は2014(平成26)年8月、東京都市大学工学部建築学科勝又研究室によって実測・調査・研究が行われていて、慶太が住んでいた当時の推測復元図と50分の1スケールの模型も製作されていた。     (完)

五島慶太未来創造館の外観(2021.3.10  撮影)




コメント (2)
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