2015年の夏、長野県安曇野にある「天蚕センター」に出かけて、「天蚕」すなわち「ヤママユ」の飼育の様子を見学したことがあった。
この天蚕センターについては、ウェブサイト(http://azumino.tensan.jp/yamako/yamako.html)に詳しいことが出ているが、我々になじみの「カイコ=家蚕」に対して、この地方では「ヤママユ=野蚕または天蚕」を天明年間(1781~1788)から飼育し始めたとされる。
繰糸の方法を取得し、機械化も進めて、最盛期の明治30年(1897年)には、年間800万粒の繭を生産し、天蚕飼育の黄金時代を迎えていた。
しかし、第二次世界大戦により生産が中止され、1943年頃には製繭は途絶えてしまっていた。戦後、長野県蚕業試験場松本支場有明天柞蚕試験地が設置され、ここで天蚕種の保存が続けられた。1973年ごろから飼育未経験の一般農家を説得するなどして、飼育を再開し、1977年には、天蚕飼育の復活及び飼育、繰糸、機織り技術を後継者へ伝承するための拠点として天蚕センターが建設された。
現在、この天蚕センターでは、天蚕の歴史や生態が大変わかりやすく紹介されており、隣接している安曇野天蚕工房では、手機織りの実演も見学できる。また、敷地内に見学者用飼育ハウスもあり、天蚕の一生も見学できる。
飼育用のクヌギの木が植えられた畑には全体を覆うようにネットがかけられ、その中で天蚕(ヤママユ)の飼育が行われていたが、ちょうど羽化の時期を迎えていて、ネットには翅を広げた成虫の姿も見られた。
自宅で飼育し羽化したヤママユ♂(2016.8.20 撮影)
この少し前に、同じヤママユガ科の仲間の、ウスタビガを飼育して、蛹化と羽化の様子を3D撮影したことがあったので、次はこのヤママユを飼育し、孵化するところから撮影してみたいと思い、卵を分けていただけないか相談したところ、春になり、余裕があればお分けしますということであった。
翌年になって、連絡をとり確認したところ、大丈夫ということになって、2016年春に200個ほどの卵を入手することができた。送られてきた卵は、前年現地で見学したものとおなじで、細長い和紙に、扁平な卵が20粒ほどの塊ごとに、糊で貼り付けられていた。
このヤママユの養蚕は、明治以降、歴代の皇后が受け継いできた皇室の伝統でもあり、美智子皇后も、皇居で飼育されている。この卵を付着させた和紙を、ホチキスで孵化(ふか)後の餌となるクヌギの葉に留める作業は「山つけ」と呼ばれている。今年も皇居で5月2日に、この「山つけ」が行われたと、新聞各紙が報じていた。
さらに、7月12日には、両陛下が天蚕の繭を収穫される様子が、各紙で次のように報じられた。「天皇、皇后両陛下は12日、皇居内で野生種『天蚕(てんさん)』の繭を収穫された。両陛下はハサミを使って薄緑色の繭がついたクヌギの枝を丁寧に切り落とし、天皇陛下は担当者に『病気は出ませんか。昔初めて天蚕を飼った時は茶色くなりましてね』と話されていた(日本経済新聞)」。
さて、我が家に届いたヤママユの卵、まだ孵化までには時間があると思い、そのままにして毎月定期的に出かけることになっていた大阪に行っていたところ、軽井沢の妻から電話がかかり、ヤママユの卵から幼虫が孵化し始めたとの知らせを受けた。
妻から送られてきたメールに添付されていた写真には続々と卵から這い出して来る幼虫の姿が写されていた。
和紙に糊で貼り付けてあった卵から孵化してきたヤママユの幼虫(2016.5.20, 10:44 妻撮影)
同上の拡大
留守宅の妻は、慌てて幼虫の餌の木の葉を採りに行き、まだ孵化していない卵は冷蔵庫に入れ、孵化を遅らせる措置をとった。
餌の木の葉を食べ始めたヤママユの幼虫(2016.5.21, 17:05 妻撮影)
安曇野の天蚕センターや皇居では、幼虫の餌に、クヌギの葉を与えているが、軽井沢では寒冷な気候の関係でクヌギは育たない。そこで、最初に与えた葉は近隣の山地で採ったミズナラであったが、幼虫はコナラの方が好みらしく、両方を与えると一斉にコナラの葉に移動していったので、以後はコナラの葉で育てることとなった。
冷蔵庫に入れておいた残りの卵は、その後10日ほど経って,私が帰宅してから取り出したところ、また孵化が始まった。こうして、2016年のヤママユの飼育は先行する約100匹の集団と、これに遅れるやはり100匹ほどの集団の二つを育てることになった。
そのおかげで、先行する集団を観察することで、幼虫の変化の様子をあらかじめ知ることができ、撮影にはとても有効であった。
これから数回に分けて、ヤママユの成長過程を紹介させていただく。このヤママユは最終的に40頭ほどを自宅で羽化させることができ、採卵も行えたので、翌2017年、さらに今年2018年も同様に累代飼育し観察・撮影を行うことができた。
まず、冷蔵庫から取り出した方の卵から幼虫が孵化し這いだしてくる様子を撮影した。幼虫は中から卵の殻をかじって穴をあけ、そこから這い出して来る。卵は和紙に糊で貼り付けられているので、容易に這い出すことができるが、撮影用にとまだ孵化していない卵だけを和紙から剥がした場合には、幼虫はしっぽの先に卵の殻をくっつけたまま、しばらく這って行くことになる。しかし、大丈夫、少し苦労をかけたが、どの幼虫も無事殻から抜け出すことができた。
ごらんのとおり、ヤママユの場合、幼虫は抜け出した卵の殻を全部食べてしまうことはしない。以前紹介したモンキチョウ(2018.6.15 公開)の場合と、この点は異なっている。
卵の大きさは直径が2.5㎜、厚さは1.9㎜ほどの扁平なもので、出てきた幼虫の長さは6-7mmといったところ。重さは測ったわけではないが、天蚕センターの資料によると0.006gという。この撮影はリアルタイムで行っている。
ヤママユの孵化1(2016.6.2, 13:33-35 撮影)
ヤママユの孵化2(2016.6.2, 14:10-13 撮影)
餌のコナラの葉を食べ始めると、幼虫はみるみる成長していくように見える。以前紹介した(2017.7.28 公開)ように、4齢から5齢位になると、几帳面な食べ方をするようになるのだが、この段階ではまだ決まった食べ方はしていないようだ。
コナラの葉を食べる1齢幼虫(2016.6.2, 22:14-17 撮影)
先に孵化していた方の幼虫群は、1週間ほどで長さが倍の12-3mmくらいになると、次々と脱皮し、2齢になっていった。脱皮の少し前から幼虫は葉を食べるのをやめて、葉の上でじっとしている。脱皮後の幼虫は頭がひとまわり大きくなっていて、毛も長くなり黒い縦縞の模様は色が薄くなった。ちょうど2匹の幼虫がいて、一方が脱皮したので、脱皮前後での違いがよく分かる。
1齢幼虫の脱皮(2016.5.26, 23:12-22 撮影したものを編集)
次回に続く
この天蚕センターについては、ウェブサイト(http://azumino.tensan.jp/yamako/yamako.html)に詳しいことが出ているが、我々になじみの「カイコ=家蚕」に対して、この地方では「ヤママユ=野蚕または天蚕」を天明年間(1781~1788)から飼育し始めたとされる。
繰糸の方法を取得し、機械化も進めて、最盛期の明治30年(1897年)には、年間800万粒の繭を生産し、天蚕飼育の黄金時代を迎えていた。
しかし、第二次世界大戦により生産が中止され、1943年頃には製繭は途絶えてしまっていた。戦後、長野県蚕業試験場松本支場有明天柞蚕試験地が設置され、ここで天蚕種の保存が続けられた。1973年ごろから飼育未経験の一般農家を説得するなどして、飼育を再開し、1977年には、天蚕飼育の復活及び飼育、繰糸、機織り技術を後継者へ伝承するための拠点として天蚕センターが建設された。
現在、この天蚕センターでは、天蚕の歴史や生態が大変わかりやすく紹介されており、隣接している安曇野天蚕工房では、手機織りの実演も見学できる。また、敷地内に見学者用飼育ハウスもあり、天蚕の一生も見学できる。
飼育用のクヌギの木が植えられた畑には全体を覆うようにネットがかけられ、その中で天蚕(ヤママユ)の飼育が行われていたが、ちょうど羽化の時期を迎えていて、ネットには翅を広げた成虫の姿も見られた。
自宅で飼育し羽化したヤママユ♂(2016.8.20 撮影)
この少し前に、同じヤママユガ科の仲間の、ウスタビガを飼育して、蛹化と羽化の様子を3D撮影したことがあったので、次はこのヤママユを飼育し、孵化するところから撮影してみたいと思い、卵を分けていただけないか相談したところ、春になり、余裕があればお分けしますということであった。
翌年になって、連絡をとり確認したところ、大丈夫ということになって、2016年春に200個ほどの卵を入手することができた。送られてきた卵は、前年現地で見学したものとおなじで、細長い和紙に、扁平な卵が20粒ほどの塊ごとに、糊で貼り付けられていた。
このヤママユの養蚕は、明治以降、歴代の皇后が受け継いできた皇室の伝統でもあり、美智子皇后も、皇居で飼育されている。この卵を付着させた和紙を、ホチキスで孵化(ふか)後の餌となるクヌギの葉に留める作業は「山つけ」と呼ばれている。今年も皇居で5月2日に、この「山つけ」が行われたと、新聞各紙が報じていた。
さらに、7月12日には、両陛下が天蚕の繭を収穫される様子が、各紙で次のように報じられた。「天皇、皇后両陛下は12日、皇居内で野生種『天蚕(てんさん)』の繭を収穫された。両陛下はハサミを使って薄緑色の繭がついたクヌギの枝を丁寧に切り落とし、天皇陛下は担当者に『病気は出ませんか。昔初めて天蚕を飼った時は茶色くなりましてね』と話されていた(日本経済新聞)」。
さて、我が家に届いたヤママユの卵、まだ孵化までには時間があると思い、そのままにして毎月定期的に出かけることになっていた大阪に行っていたところ、軽井沢の妻から電話がかかり、ヤママユの卵から幼虫が孵化し始めたとの知らせを受けた。
妻から送られてきたメールに添付されていた写真には続々と卵から這い出して来る幼虫の姿が写されていた。
和紙に糊で貼り付けてあった卵から孵化してきたヤママユの幼虫(2016.5.20, 10:44 妻撮影)
同上の拡大
留守宅の妻は、慌てて幼虫の餌の木の葉を採りに行き、まだ孵化していない卵は冷蔵庫に入れ、孵化を遅らせる措置をとった。
餌の木の葉を食べ始めたヤママユの幼虫(2016.5.21, 17:05 妻撮影)
安曇野の天蚕センターや皇居では、幼虫の餌に、クヌギの葉を与えているが、軽井沢では寒冷な気候の関係でクヌギは育たない。そこで、最初に与えた葉は近隣の山地で採ったミズナラであったが、幼虫はコナラの方が好みらしく、両方を与えると一斉にコナラの葉に移動していったので、以後はコナラの葉で育てることとなった。
冷蔵庫に入れておいた残りの卵は、その後10日ほど経って,私が帰宅してから取り出したところ、また孵化が始まった。こうして、2016年のヤママユの飼育は先行する約100匹の集団と、これに遅れるやはり100匹ほどの集団の二つを育てることになった。
そのおかげで、先行する集団を観察することで、幼虫の変化の様子をあらかじめ知ることができ、撮影にはとても有効であった。
これから数回に分けて、ヤママユの成長過程を紹介させていただく。このヤママユは最終的に40頭ほどを自宅で羽化させることができ、採卵も行えたので、翌2017年、さらに今年2018年も同様に累代飼育し観察・撮影を行うことができた。
まず、冷蔵庫から取り出した方の卵から幼虫が孵化し這いだしてくる様子を撮影した。幼虫は中から卵の殻をかじって穴をあけ、そこから這い出して来る。卵は和紙に糊で貼り付けられているので、容易に這い出すことができるが、撮影用にとまだ孵化していない卵だけを和紙から剥がした場合には、幼虫はしっぽの先に卵の殻をくっつけたまま、しばらく這って行くことになる。しかし、大丈夫、少し苦労をかけたが、どの幼虫も無事殻から抜け出すことができた。
ごらんのとおり、ヤママユの場合、幼虫は抜け出した卵の殻を全部食べてしまうことはしない。以前紹介したモンキチョウ(2018.6.15 公開)の場合と、この点は異なっている。
卵の大きさは直径が2.5㎜、厚さは1.9㎜ほどの扁平なもので、出てきた幼虫の長さは6-7mmといったところ。重さは測ったわけではないが、天蚕センターの資料によると0.006gという。この撮影はリアルタイムで行っている。
ヤママユの孵化1(2016.6.2, 13:33-35 撮影)
ヤママユの孵化2(2016.6.2, 14:10-13 撮影)
餌のコナラの葉を食べ始めると、幼虫はみるみる成長していくように見える。以前紹介した(2017.7.28 公開)ように、4齢から5齢位になると、几帳面な食べ方をするようになるのだが、この段階ではまだ決まった食べ方はしていないようだ。
コナラの葉を食べる1齢幼虫(2016.6.2, 22:14-17 撮影)
先に孵化していた方の幼虫群は、1週間ほどで長さが倍の12-3mmくらいになると、次々と脱皮し、2齢になっていった。脱皮の少し前から幼虫は葉を食べるのをやめて、葉の上でじっとしている。脱皮後の幼虫は頭がひとまわり大きくなっていて、毛も長くなり黒い縦縞の模様は色が薄くなった。ちょうど2匹の幼虫がいて、一方が脱皮したので、脱皮前後での違いがよく分かる。
1齢幼虫の脱皮(2016.5.26, 23:12-22 撮影したものを編集)
次回に続く
ウスタビガと共に、コナラを食べて元気です。
飼育困難な野蚕の育成過程が美しい画像で記録されていて、なんて価値がある見事な記録だろう!と、感激しました。ありがとうございました。