西部謙司氏の興味深い二元論
サッカージャーナリストの西部謙司氏が『footballista』3月22日付の記事️で「デュエルか? ポゼッションか?」という興味深い二元論を展開している。『日本サッカーは「デュエル」とどう向き合っていくべきか?』というコラムである。
氏は記事の中で「日本が強豪国に近いクオリティを出せるのはポゼッション(ボール保持)時である」とする。そして日本は将来的にはポゼッション・スタイルを選択し、あとはカウンター対策とチャンスメイク、および決定力を向上させれば「デュエルを長所に転ずるより見込みがあるだろう」と結論付けている。
ポゼッション・スタイルを極めれば日本は強くなる、それはそれでひとつの立論だ。ただし「デュエルを長所(武器)に変えて行くより見込みがある」という部分には少なからず違和感がある。
デュエルはサッカーをプレイする者がすべて等しく備えておくべき基礎であり、ポゼッション・スタイルを選択すれば「なくていい」ものではない。また日本にとって「デュエルを武器に勝って行く」という類のものでもない。サッカーにおいては空気と同じだ。
デュエルは食事するときの箸の持ち方のようなものであり、当然備えていなければ食事(サッカー)ができない。それを武器にするというより、会話をする場合の「あいうえお」のようなものではないだろうか? どうも「デュエルか? ポゼッションか?」という二者択一の論法にムリを感じるのだ。
欠点を直すか? 長所を伸ばすか?
サッカーではこれと似たような議論の混乱がよくある。例えば「日本人は個が弱い。個を強くするべきだ」といった場合だ。これはあくまで個の弱さという「短所を改善しよう」という呼びかけである。
にもかかわらず条件反射的に「個で勝つサッカーには反対だ。日本は組織的なサッカーをすべきだ」というトンチンカンな反論を受ける。いや、別に「個を武器にし、個で試合に勝とう」というわけではなく、「弱点(個の弱さ)を修正し、人並みになろう」という呼びかけにすぎないのだが。
西部氏の「デュエルを長所(武器)に変えて行くより(ポゼッションのほうが)有望だ」という論法にも、これと似たような議論のねじれを感じる。要はこの議論は「欠点を直すか? 長所を伸ばすか?」という不毛な二元論なのだ。
欠点はいくら直したからといってそれ自体、武器にならない。「欠点を直そう」と主張する論者だって、「欠点をなくして人並みになろう」「弱点をなくそう」と言っているにすぎない。
にもかかわらず「長所を伸ばすべし」論の立場の人は、なぜか「欠点を直すか? 長所を伸ばすか?」という二者択一の二元論に仕立てたがる。で、「欠点を直すより長所を伸ばすべきだ」と結論付けるのだ。
しかしデュエルは排他的に捨ててしまえるものではない。当然備えておくべき基本である。でなければ日本サッカーのインテンシティの低さはいつまでたっても直らないし、そこが修正できなければ世界で勝てない。
カウンター対策をどうするのか?
念のため補足すれば、カウンター対策と決定力を向上させた上でポゼッション・スタイルを選択すべきだ、という西部氏の主張には特に異論はない。それはそれで強い日本代表ができるだろう。ただし世界レベルで見て「人並み」のデュエルを備えた上での話だが。
本ブログのこの記事でも書いたが、西野ジャパンは選手の自主性を重んじ、であるがゆえに必然として本田が考えるポゼッション・スタイルに着地する可能性が高いと思う。
とすれば、もしそうなった場合のカウンター対策をどうするのか? 西部氏の当該記事ではその具体論に触れられていない。
とかく狭いエリアで人がボールに極端に偏る「日本式パスサッカー」にカウンター対策は必須だ。日本代表にとっては重要な論点である。ぜひ氏の記事の第二弾を期待しておこう。
サッカージャーナリストの西部謙司氏が『footballista』3月22日付の記事️で「デュエルか? ポゼッションか?」という興味深い二元論を展開している。『日本サッカーは「デュエル」とどう向き合っていくべきか?』というコラムである。
氏は記事の中で「日本が強豪国に近いクオリティを出せるのはポゼッション(ボール保持)時である」とする。そして日本は将来的にはポゼッション・スタイルを選択し、あとはカウンター対策とチャンスメイク、および決定力を向上させれば「デュエルを長所に転ずるより見込みがあるだろう」と結論付けている。
ポゼッション・スタイルを極めれば日本は強くなる、それはそれでひとつの立論だ。ただし「デュエルを長所(武器)に変えて行くより見込みがある」という部分には少なからず違和感がある。
デュエルはサッカーをプレイする者がすべて等しく備えておくべき基礎であり、ポゼッション・スタイルを選択すれば「なくていい」ものではない。また日本にとって「デュエルを武器に勝って行く」という類のものでもない。サッカーにおいては空気と同じだ。
デュエルは食事するときの箸の持ち方のようなものであり、当然備えていなければ食事(サッカー)ができない。それを武器にするというより、会話をする場合の「あいうえお」のようなものではないだろうか? どうも「デュエルか? ポゼッションか?」という二者択一の論法にムリを感じるのだ。
欠点を直すか? 長所を伸ばすか?
サッカーではこれと似たような議論の混乱がよくある。例えば「日本人は個が弱い。個を強くするべきだ」といった場合だ。これはあくまで個の弱さという「短所を改善しよう」という呼びかけである。
にもかかわらず条件反射的に「個で勝つサッカーには反対だ。日本は組織的なサッカーをすべきだ」というトンチンカンな反論を受ける。いや、別に「個を武器にし、個で試合に勝とう」というわけではなく、「弱点(個の弱さ)を修正し、人並みになろう」という呼びかけにすぎないのだが。
西部氏の「デュエルを長所(武器)に変えて行くより(ポゼッションのほうが)有望だ」という論法にも、これと似たような議論のねじれを感じる。要はこの議論は「欠点を直すか? 長所を伸ばすか?」という不毛な二元論なのだ。
欠点はいくら直したからといってそれ自体、武器にならない。「欠点を直そう」と主張する論者だって、「欠点をなくして人並みになろう」「弱点をなくそう」と言っているにすぎない。
にもかかわらず「長所を伸ばすべし」論の立場の人は、なぜか「欠点を直すか? 長所を伸ばすか?」という二者択一の二元論に仕立てたがる。で、「欠点を直すより長所を伸ばすべきだ」と結論付けるのだ。
しかしデュエルは排他的に捨ててしまえるものではない。当然備えておくべき基本である。でなければ日本サッカーのインテンシティの低さはいつまでたっても直らないし、そこが修正できなければ世界で勝てない。
カウンター対策をどうするのか?
念のため補足すれば、カウンター対策と決定力を向上させた上でポゼッション・スタイルを選択すべきだ、という西部氏の主張には特に異論はない。それはそれで強い日本代表ができるだろう。ただし世界レベルで見て「人並み」のデュエルを備えた上での話だが。
本ブログのこの記事でも書いたが、西野ジャパンは選手の自主性を重んじ、であるがゆえに必然として本田が考えるポゼッション・スタイルに着地する可能性が高いと思う。
とすれば、もしそうなった場合のカウンター対策をどうするのか? 西部氏の当該記事ではその具体論に触れられていない。
とかく狭いエリアで人がボールに極端に偏る「日本式パスサッカー」にカウンター対策は必須だ。日本代表にとっては重要な論点である。ぜひ氏の記事の第二弾を期待しておこう。