「真性引き篭もり」さんはエントリー「なぜ議論をしたいと思うのか、何を目指して議論をするのか」の中で、議論好きな人間は「人を見下し叩きのめすことで快楽を得るタイプ」だという。これはちがうと思うぞ。
たとえば議論していて、自分が想像もしなかった斬新な視点や物の見方を提示され、おどろくことはしょっちゅうある。それってすごくエキサイティングな体験だ。人と議論したことで人生が変わっちゃう人だってたくさんいるだろう。
これって本を読んで「なるほどそんな考え方もあるのか」とか、「世の中にはこんなことがあったんだ」と自分が広がっていくのと同じだ。私にとって議論で相手の意見を聞くのは、「自分の知らないことが書いてある本を読む」のとイコールなのだ。
だから「議論に勝つのが目的で議論してる人」のメンタリティってのが、これまたさっぱりわからない。「日本人は議論がヘタだ」、「日本人は議論するとたいていケンカになる」とよくいわれるのは、勝つことが目的でやってる人が多いからなのかもしれない。
もっといえば日本人は、反対意見をぶつけられると自分自身の自我が傷つけられたように感じる人が多いんだと思う。でもそういうことじゃないんだよなあ。
たとえば「BLOG STATION」さんはエントリー「批判について考える 」の中で、「はてなグループ」を引用しながらこう書いている。
モヒ男クンの荒っぽい言い方に是非はあるだろうが、なんでこれが「ムラ子さんの価値観を否定してる」ことになるのか、私にはまるでわからない。そもそもこれを「批判」と表現してること自体が理解できない。
つまり前述したようにムラ子さんは、自分とはちがう意見をぶつけられたことで「自我が傷つけられた」と感じてるわけだ。「BLOG STATION」さんの見方も同じだ。そうじゃないだろう、と私は思う。
このモデルケースについては「むだづかい日記♂」のえっけんさんも、似たようなことを書いているので参考までにリンクを。私とえっけんさんの意見は微妙にちがう部分もあるが、方向性としては同じだ。
「事実確認は人格の否定ではないしょ」
「ネット上で議論を仕掛ける事について」
たとえば上記のケースを例に取れば、意見のぶつかり合いがケンカにしかならないケース【パターン1】と、生産的な議論になるケース【パターン2】はこんなふうだろう。
【パターン1】
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子 ⇒この時点で自我を傷つけられたと感じ、「感情的」な反応をする。
結論●ケンカにしかならない
【パターン2】
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子「じゃあ、なぜ自分はおもしろいと思ったのか?」について、冷静に論拠Bを提示する
結論●論拠Aと論拠Bをもとに、生産的な議論が発生する
日本のブログはアメリカとちがって議論が生まれにくい、とかいわれるのも、日本では【パターン1】になるケースが圧倒的に多いからだろう。まあ個人的には日本のブログだって、除々に議論ができるようになってきてるとは思うけどね。
議論好きな人々の多くは、「勝利至上主義」という誰かを見下し叩きのめす事に快楽を得タイプ、あるいは議論くらいでしかコミニケーションが取れないコミニケーション不全の孤独人間であると感じる。(同エントリーより)たしかにあちこちブログを読んでると、議論することの目的が「勝つこと」になってる人はいる。一面それは事実だし、そもそもhankakueisuuさんはどっからが本気でどっからがネタなのかわかんない微妙な文章を書くので(笑)、マジレスするのもアレかもしんないけれど。
たとえば議論していて、自分が想像もしなかった斬新な視点や物の見方を提示され、おどろくことはしょっちゅうある。それってすごくエキサイティングな体験だ。人と議論したことで人生が変わっちゃう人だってたくさんいるだろう。
これって本を読んで「なるほどそんな考え方もあるのか」とか、「世の中にはこんなことがあったんだ」と自分が広がっていくのと同じだ。私にとって議論で相手の意見を聞くのは、「自分の知らないことが書いてある本を読む」のとイコールなのだ。
だから「議論に勝つのが目的で議論してる人」のメンタリティってのが、これまたさっぱりわからない。「日本人は議論がヘタだ」、「日本人は議論するとたいていケンカになる」とよくいわれるのは、勝つことが目的でやってる人が多いからなのかもしれない。
もっといえば日本人は、反対意見をぶつけられると自分自身の自我が傷つけられたように感じる人が多いんだと思う。でもそういうことじゃないんだよなあ。
たとえば「BLOG STATION」さんはエントリー「批判について考える 」の中で、「はてなグループ」を引用しながらこう書いている。
■価値観って、人格の一部でしょ?私の意見はまったくちがう。
「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」「ねぇ、どうして私にケチをつけるの?」「えっ? 映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」「ひどい。バカにしているのね」
(はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」)
私たちは全員、ムラ社会の中に住んでいます。(もちろん、モヒカン族も例外ではありません。)
モヒ男君は、「映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」と言い訳していますが、「○○という映画が面白い」と言っている、ムラ子さんという人間の価値観を否定していることに、気づいていないようですね。
モヒ男クンの荒っぽい言い方に是非はあるだろうが、なんでこれが「ムラ子さんの価値観を否定してる」ことになるのか、私にはまるでわからない。そもそもこれを「批判」と表現してること自体が理解できない。
つまり前述したようにムラ子さんは、自分とはちがう意見をぶつけられたことで「自我が傷つけられた」と感じてるわけだ。「BLOG STATION」さんの見方も同じだ。そうじゃないだろう、と私は思う。
このモデルケースについては「むだづかい日記♂」のえっけんさんも、似たようなことを書いているので参考までにリンクを。私とえっけんさんの意見は微妙にちがう部分もあるが、方向性としては同じだ。
「事実確認は人格の否定ではないしょ」
「ネット上で議論を仕掛ける事について」
たとえば上記のケースを例に取れば、意見のぶつかり合いがケンカにしかならないケース【パターン1】と、生産的な議論になるケース【パターン2】はこんなふうだろう。
【パターン1】
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子 ⇒この時点で自我を傷つけられたと感じ、「感情的」な反応をする。
結論●ケンカにしかならない
【パターン2】
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子「じゃあ、なぜ自分はおもしろいと思ったのか?」について、冷静に論拠Bを提示する
結論●論拠Aと論拠Bをもとに、生産的な議論が発生する
日本のブログはアメリカとちがって議論が生まれにくい、とかいわれるのも、日本では【パターン1】になるケースが圧倒的に多いからだろう。まあ個人的には日本のブログだって、除々に議論ができるようになってきてるとは思うけどね。
>私とえっけんさんの意見は微妙にちがう部分もあるが、方向性としては同じだ。
微妙に違いますか、そうですか。
僕はこのエントリーを読む限り、「微妙に違う」部分は見出せなかったのですが。
議論したくない人の存在も分かるのですが、そういう人の中には、あからさまに誰かを批判しているケースもあったりして、「なんやこいつ、単にワガママなんじゃないの?」とか思ったりするのです。
しまいには、「おれの言うことを批判するのをやめないと自殺する」と脅した人まで出現したりして。
1.議論の対象
2.自分の意見と相手の意見の異なる部分
3.議論によってたどり着きたい場所
私は、相手が感情的になったら、おうむ返しに「あなたの言いたいことは○○ですよね?」と確認するのが最適と思ってます。そこで毒を入れないように自制するのが大変ですが。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087202003/
「なぜ日本では~」という問題はこの本での知識が役に立つでしょうか。日本では会話における「型」が存在しないというのが原因に思います。
こんにちは。えっけんさんと私が「微妙にちがう点」って、あんまりたいしたことじゃないんですが(笑)。まあいくつかあげますね。
まずえっけんさんはエントリー「事実確認は人格の否定ではないしょ」のなかで、「事実確認」って言葉を使ってますけど(たぶん配慮してそう表現したんだと思いますが)、これ、遠慮しすぎな表現じゃないかと思いますよ(笑)
それから同じエントリーで、『好きか嫌いかという生理的な問題は、互いにいくら意見を出しあっても、どちらかの考えにまとまりにくいものなので、「好き」「嫌い」の事実確認にとどめた方が無難かとは思います。あまり白熱すると不毛な言い争い≒罵倒合戦になるのは目に見えています』と書かれていますね。
私は議論というものは、必ずしも「どちらかの考えにまとめるべきもの」だとは思ってないです。議論した結果、最終的には相手の意見に「同意はできなかった」けれども、相手の話を聞くことで「自分が考えてもみなかった角度からの分析が聞けた」というのも議論の大きなメリットだと思うからです(たぶんこの点は、えっけんさんも同じ考えだとは思いますが)。
たとえば音楽でいえば、私はグレン・グールドというピアニストが好きです。この人は客観的に言って本当の天才なんですが、私が「グレン・グールドが『好き』だ」と言ったときには、この議論は究極的には「好き・嫌い」の問題になります。
で、グレン・グールドはモーツァルトに対する解釈があまりにも斬新すぎて、彼の弾くモーツァルトをこっぴどく論評する人がたくさんいます。けど、私はそういう人に面と向かって「グレン・グールドのモーツァルトなんて最悪じゃん」と言われたって、そんなものは別に「私の価値観を否定された」なんて考えもしないです。というか、そもそもそんな発想はまるでわきません(笑)。
というより逆に、「この人はいったいなぜグレン・グールドのモーツァルトがダメだと思うのか? その分析や論拠を聞きたい」と発想します。私が「いい」「好きだ」と思ってるものに正反対の評価をしてるわけだから、ぜひその論拠を聞いてみたいじゃないですか。こういう考え方って、めずらしいのかなあ?
なので私はテーマが「好き」「嫌い」の問題に帰結する種類のものだとしても、「事実確認にとどめた方が無難」だとは思わないです。私とえっけんさんのちがいって、それくらいです。もっとも相手が議論する気がないなら話し合ってもムダですし、要は議論するなら相手を見てから、みたいなことでしょうが。
まとめると私の意見としては、ブログは書いているけれど「議論するのが嫌い」な人は、トップページに「このブログでは議論・反論は受け付けません」とでも表示しておいたほうがいいんじゃないかと(笑) 「NO! 議論」とかね。まあ冗談ですけど。
>cavoriteさん
こんにちは。まあ「そのまま受け入れろ」ってことなんでしょうね。「神託者」っておかしいですね(笑) 「自殺する」ってのは、それネタですよね? まさか……(^^;
>まなめさん
こんにちは。まなめさんが提示されている1と2は同意です。ただ私は3については、えっけんさんへのレスにも書いたのですが、「議論がどこに帰結するのを目ざすのか?」って必ずしも共通理解を取っておく必要はないと思っています。
もちろん何らかの議決を取るべきテーマについて議論するなら別ですが、だれかのブログを読み、それに対する異論を書くに当たってそれは必要なのかな? と感じます。議論することでたがいに「触発されるもの」があれば、別に結論が出なくても十分に有意義なことですから。
それから教えていただいた本にあるように、「論理的な思考ができるかどうか?」って、その人がまともに議論できる人かどうかに大きくかかわってくる問題ですね。ロジカルにものを考えられれば話はかみ合うわけですが、「わー、私の嫌いなものを『貶された』」と、異論に対して「感情的」に受け取ってしまう人は議論に向いてないでしょう。
私にはよく経験がありますが、たとえばAさんが支持しているもの(これを仮にZとします)に対して私が異論を述べたとします。するとAさんからは、「あなたはZが『嫌い』なんですね?」みたいな答えが返ってくるわけです。
私は、自分がそれを「好きか嫌いか」なんていう主観的な切り口から意見を言ってるんじゃないんです。それを「客観的」に分析し、その結果がZに対して否定的な意見になってるだけにすぎません。けれども相手は「自分の感覚」で、主観的・感情的に解釈してしまう。こういうタイプの人は、客観的・論理的な思考をするのに慣れてないんだと思いますし、そういう人は日本人にはかなり多いと感じます。
今の小学校は授業でパソコンを教えてるんだから、論理的なディベートの仕方も教えればいいのにねえ(笑)。でないとこういう論理的な思考ができないタイプの人は、ネットでさんざん(しなくてもいい)イヤな思いをするだろうし、相手に対してもネガティブな言動を発してしまいがちになるんじゃないかな。
>私は、相手が感情的になったら、おうむ返しに「あなたの言いたいことは○○ですよね?」と確認するのが最適と思ってます。
これはカウンセリングのセオリーのひとつでもありますね。特にロジャースという人が提唱した「来談者中心療法」では、サイコセラピストにとって非常に重要なコミュニケーション手法だとされていますね。
では長くなったので、このへんで。
今回の問題提起のように自分の意見を認めてもらうのが目的ではなくて、議論したいから議論するケースもありますね。
我が家の夫婦間の場合がそうなんですが、笑。
まあ、この場合は議論というよりは単に「言葉」を発したいというだけなので、こうした対話の時に一方が理論的に議論しようとすると、相手側は非常に気分を害するようです。
う~ん、男女間のコミュニケーションは難しい、笑。
彼の理論だと映画のDVDは有形だから良いみたいです(笑
議論=事実、ということを多くしたいと思うからです。
そりゃあ、判明している事実からは議論は生まれにくいでしょう。
でも、別な国(とくに付近のアジア)では、
勝つことを目的に議論する、というのが多いようにも感じました。
事実を目指す人間と勝つことを目指す人間では、議論がかみ合うわけはないのです。
下の本に、それに関連したものも載っています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/488380478X/250-7131889-7805052
No!議論とか書いてるなら、ブログ辞めて日記サイトに引っ越した方が良いんじゃないでしょうかね(笑)。
でも、「勝つために議論を吹っ掛ける」人が多いことも事実。
僕は「正しい議論の始め方」みたいな、議論をする方のマナーアップも必要だなと考えています。
前にも書いたかもしれないけど、日本人って、ペンとか発信媒体とか持つと、急に「自分最強」と勘違いしがちだから。。。
変な方向に行きそうな議論に「その議論から何が生まれるの?」と言ってあげる人も必要かもしれませんね。
人間は感情の動物とはよくいったものです。
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子 ⇒「ふーん、そうw」
という、パターンも多く見られます。
議論をする気が全くないパターンですね。
基本的に理屈と感情は混ざり合っている人がいます。
パターン2への思考を行うには理屈と感情を別けなくてはできません。
これを分別ある大人と言うのかはわかりませんが、
理屈っぽい人間は嫌われるという現代社会には昔の日本にあった精神論・・・
つまり感情でぶつかり合うことが大事、喧嘩両成敗等が未だ根強く残っているからでしょうね。
また「言う事聞かないと自殺する」というのは行き過ぎでしょうが・・・
「(私の)言う事を解ってくれないから自殺する」は多数いますよね。
痴話ゲンカの果てにとか。
自分も電話先で自殺はかられて焦ったことがあります。
そういった人間との付き合い方について上手く付き合える方法というのが未だ見えてきません。
我慢するかしないかという土台の上でしか語れませんから・・・
まあ、2chで人をブログ空間に蹴り出す活動をしてますけど。
「うぇんず」でgoogleのあちこちで検索してみると、その件に関する情報が得られるかもしれません > 「雨が降っていたので飛び降りるの止めました事件」