知的刺激のない監督だ
先日、9月遠征の日本代表のメンバー発表が行われた。ひさしぶりにネット中継で森保監督の話を聞いたが、相変わらず何の変哲もない当たり前のことしか言わない。
選ばれたのはいつもの決まり切った定番メンバーな上に、森保監督の話も面白くないので、本ブログではただ機械的に代表メンバーを列記しただけで記事にした。無言の抵抗だ。
嬉々として「スタメン予想」などを書いているメディアも多いが、このすっかり沈滞し煮詰まった空気に彼らは危機感を感じないのだろうか?
なぜ記者会見での森保監督の話は人の興味を引かないのか? それは抽象的で当たり前のことをただベラベラとしゃべっているだけだからだ。
彼の話には知的刺激がないし、新しい「発見」もない。ないないづくしで得るものがなんにもない。
フィロソフィ型とセレクター型
ちなみに代表監督はざっくり2種類に分類できる。フィロソフィ型と、セレクター型だ。フィロソフィ型というのは「自分が監督になったらこういうサッカーをやるぞ」というフィロソフィがあり、代表チームでそのスタイルを構築するタイプだ。
かたやセレクター型とは、代表メンバーを選ぶ前にまず選手を見て「コイツとコイツを組み合わせればそれは〇%の力になり、こんなスタイルのサッカーが実現できるな」と考えてそれを実行するタイプだ。
つまりフィロソフィ型のように、自分の頭のなかにある理想のサッカーをそのまま実行するわけじゃない。まず素材を見て、それを調理し結果としてできる「味」を優先するタイプだ。
さて森保監督はどちらか? といえば典型的なセレクター型だ。いや正確に言えば、広島時代にやってたサッカーを見ると自分の中に「こういうサッカーを」というのはありそうだが、代表ではあえて意識してそれを表に出さないようにしている。
そして選手にまずやらせてみて、選手自身に「自分の頭」で考えさせることをモットーにする。だからフィロソフィ型の監督みたいに、「おれはこういうサッカーをやるんだ」とは言わないわけだ。
一方、例えば代表監督がハリルホジッチ氏のときには、「縦に速く」とか「日本のような弱小国が強豪国に勝つにはカウンターだ」などというふうに、彼が「自分の考え」を前面に強く打ち出していた。それとはまるで好対照だ。
ゲームモデルやプレー原則は必要か?
森保監督はこんな風に、監督が戦術を決めてそれを選手が実行するというスタイルを取らない。決めるのはあくまで選手の「自主性で」である。ゆえに監督がその前に「こういうサッカーをやる」とは言わない。
だが、このブログではもう何度も書いているが、枝葉のプレーをどうするか? は選手の自主性重視でいいとしても、骨格になるゲームモデルやプレー原則は監督が整理して提示するべきだと考えている。
もちろん選手個々の個性や持ち味を考えた上でだ。
なぜならすべての元になるゲームモデルやプレー原則がないと、迷ったとき、わからなくなったときに帰るべき場所がなくなるからだ。そこが選手まかせでは永遠の迷子になってしまう。
別に監督がこうしろと強制せよ、などと言ってるわけじゃない。
彼には世論を喚起する力がない
もうひとつ、森保監督みたいに監督が戦術を語らないことの大きな弊害がある。
それは世論を喚起する力がなくなることだ。
代表監督が「日本が世界で勝てるサッカーはこれだ」と宣言し、具体的なスタイルや戦術を語れば、それは世間の興味を引き世論を喚起する力になる。代表監督のこうした問題提起が、その国のサッカーを発展させる。
代表監督がこんなふうに具体論を語れば、国民が刺激を受け、めいめいが居酒屋やら家庭やらで「おれはこう考える」「いや、それはちがう」と自分の意見を丁々発止、語るようになる。
こうした民衆の胎動が50年、100年、200年たって初めて長い間にぶ厚く澱のように降り積もり、その積み重ねがヨーロッパや南米などのサッカーネイションではサッカー文化として形成されている。だから彼らは強いのだ。
ヨーロッパや南米のようなこういう土台、つまりサッカーの歴史と蓄積がない日本は、まずそんな民衆の胎動を起こすことから始めなければならない。でなければ強くなれない。
代表監督は大いにサッカーを語れ
こんなふうに代表監督が行う問題提起は大きな意味がある。それをきっかけに世の中で議論が湧き上がり、新しい方向性が生まれて行く。「そうだったのか」という気づきも生まれる。
監督が堂々と戦術を語り、サッカーを語ることでその国のサッカーはどんどん発展して行くのだ。
一例としてハリルホジッチ氏は「相手にボールを持たせて勝て」とか「球際だ。デュエルで負けるな」のように、話題性のあるキーワードを出すことで世の中の議論を喚起した。みんなが「球際」や「デュエル」をネタにして、ああでもない、こうでもない、と語り合った。
トルシエ氏のときもそうだった。「フラットスリー」とか「赤信号は車が来なければ渡っていいんだ」などとおもしろい極論を言い、さんざん世論を喚起した。ときとして政敵に憎まれるほどの強い個性のある監督には、こうして議論を巻き起こす力がある。
ヨーロッパや南米のサッカーネイションでは、こんなふうに国民のサッカーに対する意識や情熱が刺激され、絶えず進化するサッカーとその機運を生んできたのだ。
だが「ただのいい人」である森保監督には、人々に対して議論を湧き起こす強いモチベーションとなるパワーや刺激がない。
本当に魅力のない監督だ。
先日、9月遠征の日本代表のメンバー発表が行われた。ひさしぶりにネット中継で森保監督の話を聞いたが、相変わらず何の変哲もない当たり前のことしか言わない。
選ばれたのはいつもの決まり切った定番メンバーな上に、森保監督の話も面白くないので、本ブログではただ機械的に代表メンバーを列記しただけで記事にした。無言の抵抗だ。
嬉々として「スタメン予想」などを書いているメディアも多いが、このすっかり沈滞し煮詰まった空気に彼らは危機感を感じないのだろうか?
なぜ記者会見での森保監督の話は人の興味を引かないのか? それは抽象的で当たり前のことをただベラベラとしゃべっているだけだからだ。
彼の話には知的刺激がないし、新しい「発見」もない。ないないづくしで得るものがなんにもない。
フィロソフィ型とセレクター型
ちなみに代表監督はざっくり2種類に分類できる。フィロソフィ型と、セレクター型だ。フィロソフィ型というのは「自分が監督になったらこういうサッカーをやるぞ」というフィロソフィがあり、代表チームでそのスタイルを構築するタイプだ。
かたやセレクター型とは、代表メンバーを選ぶ前にまず選手を見て「コイツとコイツを組み合わせればそれは〇%の力になり、こんなスタイルのサッカーが実現できるな」と考えてそれを実行するタイプだ。
つまりフィロソフィ型のように、自分の頭のなかにある理想のサッカーをそのまま実行するわけじゃない。まず素材を見て、それを調理し結果としてできる「味」を優先するタイプだ。
さて森保監督はどちらか? といえば典型的なセレクター型だ。いや正確に言えば、広島時代にやってたサッカーを見ると自分の中に「こういうサッカーを」というのはありそうだが、代表ではあえて意識してそれを表に出さないようにしている。
そして選手にまずやらせてみて、選手自身に「自分の頭」で考えさせることをモットーにする。だからフィロソフィ型の監督みたいに、「おれはこういうサッカーをやるんだ」とは言わないわけだ。
一方、例えば代表監督がハリルホジッチ氏のときには、「縦に速く」とか「日本のような弱小国が強豪国に勝つにはカウンターだ」などというふうに、彼が「自分の考え」を前面に強く打ち出していた。それとはまるで好対照だ。
ゲームモデルやプレー原則は必要か?
森保監督はこんな風に、監督が戦術を決めてそれを選手が実行するというスタイルを取らない。決めるのはあくまで選手の「自主性で」である。ゆえに監督がその前に「こういうサッカーをやる」とは言わない。
だが、このブログではもう何度も書いているが、枝葉のプレーをどうするか? は選手の自主性重視でいいとしても、骨格になるゲームモデルやプレー原則は監督が整理して提示するべきだと考えている。
もちろん選手個々の個性や持ち味を考えた上でだ。
なぜならすべての元になるゲームモデルやプレー原則がないと、迷ったとき、わからなくなったときに帰るべき場所がなくなるからだ。そこが選手まかせでは永遠の迷子になってしまう。
別に監督がこうしろと強制せよ、などと言ってるわけじゃない。
彼には世論を喚起する力がない
もうひとつ、森保監督みたいに監督が戦術を語らないことの大きな弊害がある。
それは世論を喚起する力がなくなることだ。
代表監督が「日本が世界で勝てるサッカーはこれだ」と宣言し、具体的なスタイルや戦術を語れば、それは世間の興味を引き世論を喚起する力になる。代表監督のこうした問題提起が、その国のサッカーを発展させる。
代表監督がこんなふうに具体論を語れば、国民が刺激を受け、めいめいが居酒屋やら家庭やらで「おれはこう考える」「いや、それはちがう」と自分の意見を丁々発止、語るようになる。
こうした民衆の胎動が50年、100年、200年たって初めて長い間にぶ厚く澱のように降り積もり、その積み重ねがヨーロッパや南米などのサッカーネイションではサッカー文化として形成されている。だから彼らは強いのだ。
ヨーロッパや南米のようなこういう土台、つまりサッカーの歴史と蓄積がない日本は、まずそんな民衆の胎動を起こすことから始めなければならない。でなければ強くなれない。
代表監督は大いにサッカーを語れ
こんなふうに代表監督が行う問題提起は大きな意味がある。それをきっかけに世の中で議論が湧き上がり、新しい方向性が生まれて行く。「そうだったのか」という気づきも生まれる。
監督が堂々と戦術を語り、サッカーを語ることでその国のサッカーはどんどん発展して行くのだ。
一例としてハリルホジッチ氏は「相手にボールを持たせて勝て」とか「球際だ。デュエルで負けるな」のように、話題性のあるキーワードを出すことで世の中の議論を喚起した。みんなが「球際」や「デュエル」をネタにして、ああでもない、こうでもない、と語り合った。
トルシエ氏のときもそうだった。「フラットスリー」とか「赤信号は車が来なければ渡っていいんだ」などとおもしろい極論を言い、さんざん世論を喚起した。ときとして政敵に憎まれるほどの強い個性のある監督には、こうして議論を巻き起こす力がある。
ヨーロッパや南米のサッカーネイションでは、こんなふうに国民のサッカーに対する意識や情熱が刺激され、絶えず進化するサッカーとその機運を生んできたのだ。
だが「ただのいい人」である森保監督には、人々に対して議論を湧き起こす強いモチベーションとなるパワーや刺激がない。
本当に魅力のない監督だ。