令和5年8月22日(火)
島田市: 島田宿大井川川越遺跡
<大井川川越遺跡>
「箱根八里は馬でも越すが
越すに越されぬ大井川」
大井川 川越(かわごし)遺跡は、
大井川 川越(かわごし)遺跡は、
4度目かな?
<川越遺跡絵地図>
江戸時代、
旅人が大井川を渡るためには、
人足に肩車をしてもらうか、
輦(れん)台(だい)という御輿の
ような乗り物に乗り、
担いでもらうか、どちらか。
その「川越し」の料金所(川会所)
や人足の待合所(番宿)等の風景を
再現したのが、この遺跡。
昭和41年8月1日、
国指定史跡に指定。
慶長6年(1601)、
慶長6年(1601)、
徳川家康は東海道に宿駅伝馬の制を定め、
街道整備を実施。
しかし、
大きな河川には橋がほとんどかけられず、
旅人は船か徒歩で渡るしか方途なし。
特に大井川は渡船も禁止。
特に大井川は渡船も禁止。
流れも急なので不慣れな旅人が渡る
には危険なため、
両岸では川越しの手助けを生業とする
人々が現れる。
街道の通行量の増加とともに
街道の通行量の増加とともに
渡渉の方法や料金等を統一する必要が
生じ、元禄9年(1696)に
川越制度を定める。
<川合所>
その管理のために、
川庄屋の役職と業務の拠点となる
川会所を設置。
最初の川庄屋は、島田代官、
野田三郎左衛門から任命された
橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)
の二人。
川会所には、
川会所には、
川庄屋のもとに年行事、待川越、
川越小頭などの役が置かれる。
<札場>
その日その日の水深を計り
川越賃銭を定め、
大名から庶民まで全ての通行人に
対する渡渉の割振りや、
諸荷物の配分など日々の運営を
はかる仕事が行われる。
川越しは明治3年(1870)に
大井川の通船が許可されたことに
伴い廃止となる。
現在の川会所の建物は
現在の川会所の建物は
安政3年(1856)に建てられたもの。
川越し制度廃止後は大井川 通船の事務所や学校の校舎等
様々に利用されその位置も
転々とする。
<公園内の朝顔の松>
~つづく。