貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

庭園のくつろぎ

2018-10-26 08:37:35 | 日記

庭園のくつろぎ

平成30年10月26日(金)

 旧友との出会いと再度の幻住庵

等の訪問などを楽しみに,琵琶湖

を訪問。

 変貌著しい琵琶湖周辺で、琵琶湖

一周のサイクリンググループの人たち

とふれあった。

 「1周6時間位かけて・・・。」

という話。

 自転車で一周もいいなあ!

 レンタサイクルがどっかにある

かな?

 近江の話は,また後程にして、

今朝は、久し振りに酒田市へ。

 本間家旧本邸と本間美術館 

  

 酒田市は、古くから最上川舟運

と日本海海運の結節点として、

物資の集散機能を果たし栄えてきた。

 また、海運を通して上方文化が

多く流入にているのも特徴。

 江戸時代中期には、問屋や海運業、

土地集積を始めた本間家を筆頭に

新興商人が台頭し、藩政にも積極的

に参画するようになる。

 特に本間光丘は飛砂防止のために

植林事業や窮民救済に尽力すると

ともに、庄内藩の財政再建にも大き

な役割を果たしたそうだ。 

 その本間家旧本邸は外から眺め、

芭蕉真書のある本間美術館へ急いだ。

 

 庭園からの本間美術館。

 

 ≪玉志亭唱和懐紙≫ は、撮影は禁止。

  庭園「鶴舞園」が織りなす夏の風情、

別荘「清遠閣」の京風木造建築の美しさ

、北前船により栄えた酒田の歴史まで

ちょっと寛いだ本間家別庭園と美術館

だった。

 


哀しみの向こうに

2018-10-20 09:11:58 | 日記

哀しみの向こうに

平成30年10月20日(土)

 今日は,平成の皇后美智子様の

誕生日!

 おめでとうございます。

 衷心よりお祝いしたい。

 美智子様の心に残る絵本に、

新見南吉の『でんでんむしのかなしみ』

がある。

 南吉の作品は好きで、二度ほど

南吉記念館を訪問。

 その時購入した絵本がこれ。

「いっぴきの でんでんむしが

 ありました。」

「あるひ、その でんでんむしは 

 たいへんな ことに きがつきました。

 『わたしは いままで うっかりして

 いたけれど、 わたしの せなかの

 からの なかには かなしみが

 いっぱい つまっているでは ないか。』

 この かなしみは どうしたら

 よいでしょう。」

 このでんでんむしは、人に例えると、

9歳か10歳ごろ。

 そんなおもにとらわれ、友だちの

ところへ。

 最初に相談した友だちのでんでんむし。

「わたしの せなかにも 

 かなしみが いっぱいです。」

 それじゃ 仕方ないと思い、

次の友だちへ。

 すると、その友も同じように、

「わたしの せなかににも

 かなしみは いっぱいです。」

 友だちを順々に訪ね相談するが、

皆、異口同音に、同じ応答。

 そこで気がつくのです。

「かなしみは だれでも もって

いるのだ。

 わたしばかりではないのだ。

 わたしは わたしの かなしみを

こらえていかなきゃ ならない。」

と。

 そして、もう嘆くのをやめる。

 平成の皇后様は、初めての民間人。

 でんでん虫がかなしみを彼方に押し遣り、

封印したようなご心境もあっただろう!

 「かなしみ」には、

   「悲しみ」や「哀しみ」の他に、

「愛しみ」もあるという。

 わが身を嘆くことの程度や内容の差はあれ、

まだまだひょこひょこ顔を出してくる。

 そのたびに,この話は再生される、

ありがたきもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


多交流、高文化!?

2018-10-19 10:56:50 | 日記

多交流、高文化!?

平成30年10月19日(金)

 ピンクのコスモスが草原に

栄える。

 コスモスは,中国語で「可思莫思花」

ともいうそうだ。

 「思うべし,思うなかれ!」

 古希の寄り道もそんな感じかな?

花に例えると、「可思莫思花」?

 今朝は,酒田の不玉邸跡へ。

 鶴岡を出た芭蕉と曾良は、内川、

赤川、最上川と川舟で下り酒田に

到着。

 当時酒田までは舟で7里、約半日を

要したそうだ。

 曾良随行日記は、

「一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。

船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、

羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。

又、ゆかた二ツ被贈。

亦、発句共も被為見。 船中少シ雨降テ止。

申ノ刻ヨリ曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。

玄順亭へ音信、留主ニテ、明朝逢。」

と記されている。

 伊東玄順は医者を生業とし、この地方の

俳壇の中心的人物。

 芭蕉はこの家に象潟行きの前後を通じ

八泊した。

 酒田は商人の町であり、上方との交流

も多く文化水準も高く、不玉宅などで

たびたび句会が開かれた。

不玉亭跡碑

『おくのほそ道』では、

酒田での句として、

「あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ」

「暑き日を 海に入れたり 最上川」

 酒田の町づくりと36人衆の碑と説明板。

 本当に栄えていたんだと感慨も

ひとしお。

 多交流のよさかな。

 やはり文化の高さが,更なる

交流を生み、多文化との交流の

多さが,更なる文化の高さへ!

 今の私はちょっと半信半疑だが・・・。


後の世を聞くも牛伏?

2018-10-18 10:38:37 | 日記

後の世を聞くも牛伏?

平成30年10月18日(木)

 今朝は秩父の横瀬町へ。

第7番札所、秩父札所中で最大と

言われる本堂を参拝。

 法長寺!

法長禅寺など彫られた山門の

 左右の石も,形も珍しい!

 これが、平賀源内が設計し、

欄間の著国もしたといわれる

本堂。

 大寺院の風格?!

 御礼と祈願で参拝!

 

 

 このお寺は、牛伏堂で,親しま

れているという。

 早速伏せた牛を拝願、拝顔!

 

 牛伏堂の由来を調べると,

二つの説が・・・。

 一つは、1300年近く昔、行基が

自作の十一面観世音像を背負って

行脚。

 この地に来ると、にわかに像が

重さを増し、行基はこの像を残し、

道を急いだという。

 後に、草を刈る牧童の前に一頭の

牛が現れ、その場に伏して動かない。

 牧童は牛と一夜を明かす。

 朝、牛が倒した草の中に十一面観音像

が光っている。

 これを安置し、村人一堂が庵を造った

ことが牛伏堂の起こりという。

 もう一つは、平安時代、平将門との

戦いに敗れた武者が,この地へ落ちて

死んだ。

 訪ねてきた妻の夢枕に夫が立ち、

「村のある家の牛に生まれ変わっている。」

と供養を訴える。

 その妻が出家して結んだ庵が牛伏堂だ

という説。

 牛によだれかけもまた可愛い!!!

 

 

 


大なる流れ

2018-10-17 09:12:46 | 日記

大なる流れ

平成30年10月17日(水)

 今朝の「読売手帳」に、

「<正が先ず,王をからかった。

 『正しさを歪めないと王には

  なれませんね。

  永遠に,正になりそこねて

  いるのが王!』

 王が笑って応じた。

 『王になりそこねた正の嫌みか…

 無力な者ほど正義にご執心な

 ものでね。』>

 サウジアラビアの記者の取調

中の暗殺事件を受けての吉野弘

さんの詩からの引用。

 何となくわかるような・・・。

「 正 」と「 王 」

 左の内側の棒が垂直か、

水平の違い。漢字も凄い!

当を得て妙!

 文学散歩をもう一日。

 与謝蕪村は最上川二句。

けみの衆の 舟さし下せ 最上川

 新米の 坂田は早し 最上川

 中でも、特別扱いの斎藤茂吉の碑は、

斧の形。

 

 昭和22年に酒田を詠んだ。 

「おほきなる 流となれば ためらはず 

 酒田のうみに そそがむとする」  

 何と大きなスケールの歌。

 酒田を誇っている。 

 そして、野口雨情。

「米ぢや庄内 港ぢや酒田 

  日和山まで 船が来る。」

 ほんと、日和山まで公園まで船が

来ていた。

 河村瑞賢の千石船が!

 江戸の人々の食料供給に、出羽の

御城米を江戸に運ぶことを命じられ

た屈指の豪商、河村瑞賢は、

ここ日和山に御米置場を設営。

 酒田港から江戸への西廻り航路を

開発。

 米穀や紅花等の流通と開運の向上に

大いなる貢献をした。  

 庫跡は米の文字、酒田の灯台、

そして千石船と西廻り航路の復元、

 河村瑞賢の立像など、

二度目とは

いえ、見応えのある公園でもあった。