貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

焼津市海蔵寺 芭蕉と小泉八雲

2023-08-26 16:03:32 | 日記
令和5年8月26日(土)
 焼津市: 海 蔵 寺               
 山門は、幼稚園併設で、
封鎖されている。
<幼稚園併設の寺>

 丁度休憩時間。
 園児達が元気よく遊んでいる。
見守っておられる先生に、
「参拝したいのですが・・・」
と声をかけると、
「どうぞ!」
と開けてくださる。
 園児達とも挨拶を交わしながら、
参拝。
<本殿>

 本堂左の松2本と
ドウダンツツジの処に
芭蕉句碑がある。
<芭蕉句碑>

 句は、
「春もやゝ 
  気色とゝのふ
    月と梅」 
 安政6年(1859)、
焼津港から讃岐へ向かう途中
遭難した福寿丸で、
ただ一人一枚の板子にすがって
2日2晩泳ぎ続け、
助かったのが天野甚助。
 甚助はその板子をいつもお助けを
祈っている小川のお地蔵さま
(海蔵寺)に奉納。
<小川地蔵の話 小泉八雲>

 八雲は焼津で天野甚助老人から
この体験談を聞き、
「漂流」(『日本雑記』に所収)
という作品を書き残す。
 この板子は、長い間海蔵寺に
保存されていたが、
現在は焼津小泉八雲記念館に展示。
 室町時代のお話が
「小川(こかわ)の地蔵」。
 沖の海で毎晩なにか光るもの。
 ある日、吉平という漁師が鰯を
とるために網をしかけ、引き揚げる。
 ずっしりと重たい物がかかる。
 1メートル程の木のお地蔵さん。
 急いで引き揚げ、合掌。
 小さな仮のお堂を建て祀る。
 お地蔵さんの頼みで海蔵寺に
祀られる。

 村人の願いを叶え、
後に「川除地蔵」とも呼ばれることに。


島田市大井川川越遺跡その2 馬方はしらじ・・・!

2023-08-23 11:22:54 | 日記
令和5年8月23日(水)
 昭和41年(1966)8月に
島田宿大井川川越遺跡が
国の指定を受け、
昭和45年(1970)8月、
現在地に移築される。
 浄瑠璃でお馴染みの「朝顔日記」。
 恋する人を慕って流浪する
盲目の娘深雪(朝顔)が
大井川の畔で川留の悲運に泣くが、
その時、
奇跡的に目が治るという
くだりがある。
 その時初めて目に映ったのが
大きな一本の松。
 このことから地元では、
大井川畔の巨松を
「朝顔の松」と名づける。

<公園内の朝顔の松>

 公園の中にある。
 傍に、巌谷小波の句碑もある。 
   
「瓜音は 
  松に聞けとや 
      春の風」 。 
 あの瞽女「深雪」の爪弾く
三味の調べは、この老松に聞いてくれ、
と云うように松は春風に吹かれて
いることよ
<芭蕉句碑>

の意。
「馬方は 
  しらじ時雨の 
      大井川」
 元禄4年(1691)10月下旬、
初めて塚本如舟を訪れた時に
詠んだ句。 
 と同時期に詠まれた句、      
「宿かりて 
  名を名乗らする 
    しぐれかな」 
「さみだれの
  空吹きおとせ    
    大井川」
等、幾つもの句が残っている。
<茶屋芭蕉庵>




島田市: 島田宿大井川川越遺跡  川合所と朝顔の松

2023-08-22 10:13:42 | 日記
令和5年8月22日(火)
島田市: 島田宿大井川川越遺跡    
<大井川川越遺跡> 
 
「箱根八里は馬でも越すが 
  越すに越されぬ大井川」
 大井川 川越(かわごし)遺跡は、
4度目かな?
<川越遺跡絵地図>

 江戸時代、
旅人が大井川を渡るためには、
人足に肩車をしてもらうか、
輦(れん)台(だい)という御輿の
ような乗り物に乗り、
担いでもらうか、どちらか。
 その「川越し」の料金所(川会所)
や人足の待合所(番宿)等の風景を
再現したのが、この遺跡。
 昭和41年8月1日、
国指定史跡に指定。
 慶長6年(1601)、
徳川家康は東海道に宿駅伝馬の制を定め、
街道整備を実施。
 しかし、
大きな河川には橋がほとんどかけられず、
旅人は船か徒歩で渡るしか方途なし。
 特に大井川は渡船も禁止。
 流れも急なので不慣れな旅人が渡る
には危険なため、
両岸では川越しの手助けを生業とする
人々が現れる。
 街道の通行量の増加とともに
渡渉の方法や料金等を統一する必要が
生じ、元禄9年(1696)に
川越制度を定める。
<川合所>

 その管理のために、
川庄屋の役職と業務の拠点となる
川会所を設置。
 最初の川庄屋は、島田代官、
野田三郎左衛門から任命された
橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)
の二人。
 川会所には、
川庄屋のもとに年行事、待川越、
川越小頭などの役が置かれる。
<札場>

 その日その日の水深を計り
川越賃銭を定め、
大名から庶民まで全ての通行人に
対する渡渉の割振りや、
諸荷物の配分など日々の運営を
はかる仕事が行われる。 
 川越しは明治3年(1870)に
大井川の通船が許可されたことに
伴い廃止となる。
 現在の川会所の建物は
安政3年(1856)に建てられたもの。
川越し制度廃止後は大井川                                   通船の事務所や学校の校舎等
様々に利用されその位置も
転々とする。 
<公園内の朝顔の松>

 ~つづく。


島田市: 島田市博物館 芭蕉の句碑2基と幼児と・・・・!

2023-08-21 10:17:14 | 日記
令和5年8月21日(月)
島田市: 島田市博物館            
 博物館は、
島田市中心部から西に
1.8キロメートルの、
大井川河川敷近くに所在。
<島田博物館>

 旧東海道島田宿の大井川川越し
の宿場を再現した国の史跡
「島田宿大井川川越遺跡」
の街道沿いにあり、
史跡エリアを含めて
「ヒストピア島田」
と総称される。
 本館の北東約200メートルの街道
沿いに分館がある。
<分館>

 今回は、両方訪問。
 先ず、本館。

 可愛い池のコンクリート橋の上で、
近所の母子が散歩に。
 1.2歳で、探索の年頃。
挨拶すると、その男児が私に
多大の好奇心!
 暫くの間相手し、
芭蕉の句碑を向かうと、
一緒についてくる。
<芭蕉句碑二基>

 足取りもしっかりし
嬉々としている。
 芭蕉2回目の逗留、
元禄7年(1694)5月中旬に
塚本如舟宅に宿泊した際に詠んだ句。

 この句からは、
如舟がもてなしたお膳の汁には、
春野菜であるちさ(チシャ菜)と
盛夏のものである茄子が入っている。
 青々として香り高いちさと
色鮮やかな紫の茄子との
コントラストが印象的で
あったことが覗える。
 そのもてなしに感謝を表す句
となっている。
<芭蕉の句「ちさはまた・・・」

「ちさはまた 
  青はなからに 
     なすび汁」 
<芭蕉句説明>
<芭蕉句碑二基目>

「たわみては 
   雪まつ竹の          
    けしきかな」
      はせを
 頭を垂れしなった竹をみて、
まるで間もなくやってくる雪の重みを、
感じ取っているようだという意。

 元禄7年5月中旬、
島田宿で風雨となり、
3日間川止めとなった時に
詠んだ句の中の一句。
<芭蕉句「たわみては・・・」の説明>





島田市: 島田駅前緑地公園内 島田のくだりと宿かりての句!

2023-08-20 12:05:46 | 日記
令和5年8月20日(日)
島田市: 島田駅前緑地公園内    
   
 見晴らしのよい緑地公園。
 芭蕉の句碑もすぐ分かる。

 まだ新しい。
 二つの説明書きも珍しい!  
 一つは芭蕉の句、    
「宿かりて  
  名を名乗らする   
    しくれ哉」  
 の説明。
 もう一つは、
野ざらし紀行の「島田」のくだり。
<芭蕉句の説明>