読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

NHKスペシャル “認知症800万人”時代『“助けて”と言えない 孤立する認知症高齢者』

2013-11-24 23:52:21 | ドキュメンタリーのお噂
NHKスペシャル “認知症800万人”時代『“助けて”と言えない 孤立する認知症高齢者』
初回放送=11月24日(日)午後9時00分~9時49分
キャスター=鎌田靖 語り=柴田祐規子


今年1月、NHKスペシャルとして放送された『終の住処はどこに ~老人漂流社会』。介護施設にも入ることができず、居場所のないまま「漂流」せざるを得ない高齢者の現実を伝え、反響を呼びました。
さらに深刻な状況に置かれているのが、認知症となった一人暮らしの高齢者です。認知症の進行により本人の意思確認ができなかったり、本人の強い拒否にあったりして、介護サービスを受けることができないままの人たちも少なくないといいます。
『老人漂流社会』の続編でもある、今回の『“助けて”と言えない 孤立する認知症高齢者』では、東京・墨田区の地域包括支援センターに密着。一人暮らしの認知症の高齢者が置かれた、厳しい現実の一端を追っていきます。

墨田区のアパートに住む76歳の女性。30年前に夫と別れて以来、一人暮らしを続けてきました。
その女性のもとを、包括支援センターのケアマネージャーらが訪ねます。認知症の進行を遅らせる薬を飲み忘れていないかどうか確かめさせてもらおうとしますが、強い被害妄想にとらわれてもいるその女性は「結構です」「嫌だ、帰ってもらう」の一点張り。
女性は、食事を十分に摂れなくなって栄養状態が悪い上、ものを片づけられなくなってしまっていました。部屋の天井には、クモの巣が張られたまま。
他人を強く拒絶する時もあれば、フレンドリーに接することもあった女性。ある時は、かつての夫との思い出話を笑顔とともに語り出したりもしました。「(夫から)ギターを習っていた時が一番幸せだった」といい、新婚時代に覚えた曲をギターで弾く女性。しかし、その別れ際には、またケアマネージャーに対して強い拒絶の態度を見せてしまうのでした。
「感情の起伏が激しくて•••」などとインタビューに答えるケアマネージャー
。その向こうには、自室から出てきてアパートの廊下をうろつく女性の姿がありました•••。

一人暮らしではなく、夫妻での二人暮らしであっても、片方が認知症になったことにより孤立するケースも。
73歳の夫と二人暮らしの79歳の妻。40年間駅の売店で働き続け、社交的だった妻でしたが、認知症になってからは他人を極度に避け、家事が思うようにできなくなったことに苛立つようになってからは家事もしなくなりました。夫は、そんな妻の代わりに家事をこなしながら、妻を支え続けていました。
頼る子どももいないという夫妻。ケアマネージャーは妻に介護サービスを受けさせようと説得しますが、妻は「落ち着かないし、なんか駄目」「とにかく(家を)出るのが嫌」とそれを拒否します。夫も、そういう妻を説得することができないでいました。
「もう自分が見るしかないなと思っている。本人が今のままが一番いいと言って聞かないから」という夫。ケアマネージャーも「無理矢理連れていくわけにはいかない。本人やご主人の気持ちも大切にしなければ•••」と、対応の難しさを語るのでした。
しかし、夫は自身が体調を崩しがちになる中で、将来に対する不安を抱いていました。それでも、やはり妻に介護サービスを受けさせることができないまま、一人で見続けようとする夫。
「(東京)オリンピックまで7年、それまで頑張ろうという人もいるけれど•••こういう生活をしている人もいるということを知ってほしい•••」語りながら泣き崩れる夫。その横で「なにも泣くことないじゃない」と無邪気に言う妻•••。

判断力が鈍った認知症高齢者に代わり、親族や弁護士、司法書士による「成年後見人」が、財産管理や介護施設への入所手続きなどを行う「成年後見制度」があります。しかし、その成年後見人だけで、すべてをカバーしきれるわけでもありません。
妻と離婚し、やはり高齢の弟とも離れて一人で暮らす82歳の男性。成年後見人が財産を管理し、年金から月2回、生活費を手渡されていました。かつて、証券会社などからの勧誘を受け、よくわからぬままに未公開株などに出資を続け、仕事でこつこつと貯めた蓄えを失ってしまったことがきっかけでした。
日常の動作には格別問題がないことで、「要介護1」にされていた男性は、それゆえ十分な介護サービスは受けられませんでした。しかし、認知症の進行により、脳梗塞などの持病の薬を飲み忘れるようになっていました。
男性を案じた後見人は、自宅を出て24時間介護を受けられる施設へ移るよう説得しますが、男性は「思い切って(施設に)行けない」「なかなか決心が決まらない」というばかり。かつて家族と共に住み、長年守ってきた自宅から離れたくなかったのです。
ある夜。男性は、かつて家族とともに食事を囲んでいた居間で、一人配食サービスの弁当を食べながら言いました。
「結婚してそのまま、一緒に暮らしていたほうがよかったね•••」
男性には大切にしていたものがありました。以前皆に聞かせていたという、自慢だった歌声を録音したテープでした。男性はそれを聞きながら、歌えなくなってしまった口をかすかに動かすのでした•••。
その2週間後•••男性は心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

最初に取り上げられた76歳の女性。認知症が進行し、食事もまともに摂れなくなっていく中、ケアマネージャーらは女性を病院に連れて行こうとします。しかし女性は「まだ用意ができていない」とそれを拒みます。粘り強い説得の末、ようやく女性は病院へ行くことを承諾したのでした。
検査の結果、女性の認知症は予想以上に深刻で、専門の施設で時間をかけて診ていくことになりました。その2週間後、女性の部屋は引き払われました。
命の危険を見越して取られた、自治体による緊急の措置でした•••。

ある種の軽妙さもあった前夜(23日夜)の番組から一転、今回は実に重く、辛い内容でありました。普通に生きてきたはずの人々の晩年が、こんな状況であっていいのか、との思いがするばかりでした。
国の施策によれば、認知症の人たちの介護を施設から自宅へとシフトしていこうとしていますが、このような状況で本当にいいのか、まだまだやるべきことがあるのではないのか、とあらため強く感じました。
とはいえ、ではどうすべきなのか、ということへの答えもまた、容易には出せないことのように思えます。私たちそれぞれが考えることで、とるべき方策や知恵が集まっていく方向を目指すしかないのではないか、と思ったりもしています。
とても重い問いを投げかけてきた番組でありました。


NHKスペシャル “認知症800万人”時代『母と息子 3000日の介護記録』

2013-11-24 11:07:04 | ドキュメンタリーのお噂
NHKスペシャル “認知症800万人”時代『母と息子 3000日の介護記録』
初回放送=11月23日(土)午後9時00分~10時13分
ディレクター=相田洋ほか
出演=相田洋、新田國夫、和田行男、秋山正子、上野秀樹、三宅民夫


テレビドキュメンタリスト、相田洋(ゆたか)さん。これまで、NHK特集『世界の科学者は予見する 核戦争後の地球』(1984年)や、NHKスペシャル『電子立国日本の自叙伝』(1991年)など、テレビ史に残るような優れた作品を生み出してきた方です。
その相田さん、母親が認知症になってから最期を看取るまで、介護に奮闘する過程の一部始終を、つぶさに映像として記録していました。撮影された映像は50時間にのぼります。
それらの映像から見えてくる現実と課題を、医療や福祉の専門家らが議論して、予備軍を含めて800万人が認知症という時代への処方箋を探っていこうというのが、この番組でした。

相田さんが母親の認知症に気づいたのは1998年のこと。それ以前には、料理好きだったはずの母親だったのに料理を嫌うようになったり、旅行のときに感想を訊いても「お地蔵さんのように」何も答えないことがあったといい、後から考えればそれらが認知症のサインだったのでは、と相田さんは言います。
その話を受けた、介護福祉士の和田行男さんは、「認知症はそのような目に見えることだけではなく、目に見えないところにもサインが現れるので、見えないところも見たほうがいい」とアドバイスします。

認知症になってからも、日常のことはひとまずできるように見えた母親でしたが、料理のときに腕をやけどしたり、腐ったごはんを食べてお腹をこわしたりしてしまいます。
相田さんは、自宅から製氷皿に詰めた「お弁当」を持参。それを冷蔵室で凍らせておき、レンジで解凍して食べるよう母親に指示します。しかし、それもうまくいきませんでした。そこで、母親宅と相田さん宅をテレビ電話でつなぎ、3台のカメラを母親宅の寝床と台所に設置。その映像を見ながら、朝晩2回連絡をとりながら指示を出すようにしたのです。

ある日のこと。母親宅に入った相田さんは、部屋中に漂う異様な臭いに気づきます。見ると、トイレの内と外に、便にまみれた母親の衣類が散らばっていたのです。驚いた相田さんは母親を問い詰めますが、母親は「ほんと?そう?」を繰り返すばかりで、何も覚えていなかったのです。
「何にも覚えてないよ。•••もう人間廃業だよ。もう、頭の中どうなってるのかねえ。ほんと情けないよ。もう涙も出ないよ」
そう言いながら、涙が出ない目を拭う母親•••。わたくしがこの番組の中で、一番切ない思いがしたくだりでした。
この場面について、訪問看護ステーション所長の秋山正子さんは、「認知症だからといって全てがわからなくなるのではない。自分のプライドが損なわれていくことの淋しさや不安を、ふっと訴えたりもする」と言います。
また、医師の上野秀樹さんは、「初期集中支援」の可能性に言及します。これは、まだ認知症が初期の時点で、当人の過去の病歴や、家族がどのように支援に関われるかなどを詳細かつ多角的に聴き取り、当人にしかわからない気持ちをしっかり確認した上で、チームにより支援の方針を決める、というもの。上野さんは、それにより相田さんの母親のサポートも可能だったのではないか、と言います。

認知症が進行していく中、2005年に相田さんは家族ともども母親宅で同居を始めます。それ以来、母親の顔は明るくなり安心しきった様子になった、とデイサービスでやって来る職員に言われるようになったといい、また、相田さんと軽口を言えるようにもなりました。
「そんなに食べようとしないのなら、あの世からお迎えが来るよ、おじいちゃんが」
「もうそこまで来てるよ」
そんな会話が、母親と相田さんの「朝の儀式」になっていた、とか。
認知症の現れ方には濃淡があり、記憶が鮮明なときと、さっき言われたことを思い出せないときとがまだらになっていた、と言います。母親いわく「悪いときには頭が締め付けられたみたい」だ、と。

2008年になると、排便が困難になりました。ベッドに横たわったまま排便した上、手を便まみれにしてしまった母親にパニックとなり、きつい言葉で叱りつける相田さん。その横で淡々と後始末にかかる相田さんの妻。母親は「昨日のうなぎが効いたのかねえ」などと言います。
その場面を受けた訪問看護ステーション所長の秋山さんは、「排泄をするリズムをヘルパーや訪問看護師に相談したり、食べ物に気をつけたりすること」により対処できることを指摘します。残念ながら、相田さんにはそれに関するアドバイスはなかったとか。介護福祉士の和田さんは「医療や介護はシステムではなく、そういうことに関して起こることを予測し、知恵を出すためのもの」と、相田さんに対するサポートのあり方に疑問を投げかけます。
その和田さんが示したのが「小規模多機能型居宅介護」。訪問、施設への通所、そして施設での泊まりを、それぞれの事情に応じてチョイスしたり組み合わせたりするというものです。ただ、現行の保険制度では採算がとれないなどで、認知症保険者のわずか3%しか利用されていないとか。国は、先々はこの割合を増やしていく方針、と。

2010年。食べることが大好きだったはずの99歳の母親は、ついに何も食べられないようになってしまいました。なんとかして口に流動食を与えようとする相田さんでしたが、やがて高熱を発するようになりました。
これについて、医師の新田國夫さんは「これは容体が急変したのではなくて、嚥下障害による誤飲性肺炎で、予測できる範囲」であり、無理に食べさせようとしないほうがよかったと指摘します。
2011年、母親は緊急入院します。病院のベッドで小さく縮こまり、呼びかけにも応答できない状態でしたが、それでも一度だけ、呼びかけに対して返事を返したのでした。そして、同年の8月、母親は亡くなりました。

相田さんは、介護の日々を振り返ってこう語りました。
「人間はこうやって死んでいくんだ、というのを全部見せてくれた。それが、私に残してくれた最大のプレゼント」
番組の最後、相田さんが「忘れられないカット」という場面が映し出されました。相田さんから年齢を訊かれ、96歳であることを確認した母親は、しみじみとした調子でこう言いました。
「96か•••おかげさんで長生きしたねえ」

番組を観る前は、深刻で重い内容を想像していたのですが、相田さんとさまざまな番組で組んできた三宅民夫アナウンサーや、専門家らとのやりとりは思いのほか軽妙なものがあり、時に笑いすら誘われました。何より、母親とユーモラスな会話をしながら、介護に奮闘する相田さんの姿はとても印象的でした。
認知症や介護をめぐる話は、えてして重く深刻なこととして語られがちです。それも間違いなく現実の一端ではありますが、少しでも多くの人たちに関心を共有していただくためにも、ある種の軽妙さを持ったこの番組の語り口は良かったのではないか、と感じました。
同時に、排便をめぐるトラブルや、帯状疱疹の処置を誤ってしまうなどの生々しい状況をも赤裸々に記録した映像や、そこから導き出された教訓や専門家によるアドバイスには、教えられるところも多々ありました。
65歳以上の4人に1人が認知症、という時代にあって、近親者が認知症になるという状況は他人事ではないわけであり、いろいろなことを考えさせてくれる内容でした。やはり、観ておいてよかったと思います。