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さて、何とか第5章まで読み進めたワケです。
前章あたりから、記号論理学という新しい論理学が形を表してきました。
そのため、こういう『しおり』を作って読み進んでいます。
※論理結合子の一覧表をしおりに書き込みました。これが分からないと読み進めることができません。
さて第5章では、最初に、
5 命題は、要素命題の真理関数である。
(要素命題は、それ自身の真理関数である)
5.01 要素命題は、命題の真理項である。
と、いう定義が出てきます。これは第3章で呈示した図に立ち返って考えるとハッキリします。
命題は要素命題が結合したものです。
どんな複合命題も突き詰めれば『論理結合子によって要素命題が連結されたもの』であり『要素命題の真・偽によって複合命題の真・偽が決定される』とするのが真理関数の理論です。
(要素命題①)犬は尻尾がある。
(要素命題②)犬は四つ足である。
(複合命題)犬は尻尾があり、かつ 四つ足である。
これらを記号で表すと次のようになります。
ただし「犬」をx, 「尻尾がある」をF, 「四つ足である」をG としています。
(要素命題①)(∀x)Fx :「すべてのxはFである」
(要素命題②)(∀x)Gx :「すべてのxはGである」
(複合命題)(∀x)Fx・Gx:「すべてのxはFでありかつGである」
そして複合命題(∀x)Fx・Gxは要素命題①)(∀x)Fxおよび要素命題②(∀x)Gxそれぞれの真偽によって、その真偽が決定される、というワケです。
複合命題の論理結合子が『・(かつ)』であるとき、その真偽は『要素命題①と要素命題②がどちらも真であるとき』真となります。
表にするとこんな感じです(W:真, F:偽)。
ヴィトゲンシュタインはこの後、論理演算という概念を用いて計算によって真偽を明らかにする方法を述べていますが、専門的になり過ぎるので、ここでは省略します。
こんな表し方をすることにどんなメリットがあるのでしょう?
まず、ひとつの理由は『言語の論理構造が複雑過ぎる』からです。
4.002 (前略)日常言語は、人間という有機体の一部であり、人間という有機体に負けないくらい複雑である。
言語の論理を日常言語から直接的に引き出すことは、人間にはできない。(後略)
また、日常言語では同じ言葉が違う意味に使われ混同されてしまうことがあります。
例えば『青い』という言葉は『色が青色である』以外に日本語では『若い』とか『未熟な』という意味でも使われ、『青信号』や『青野菜』のように『緑色』の意味にまで使われてしまう、というワケです。
そこでもっと単純化されて間違いのない記号論理学を使うべきだという主張です。
さらに、伝統的な論理学では『丸い四角は存在しない』と書くとき、主語名辞『丸い四角』と述語名辞『「存在する」の否定』の結合と解釈するのですが、このとき主語名辞『丸い四角』はそもそもありえない形状なので指示対象をもちません。よってナンセンスです。
※(↑)ああっ!この図は見なかったことにしてください!
同じ命題を記号論理学では~(∃x)(Rx・Sx)と表現します。このとき『丸い』はR, 『四角い』はSです。
この命題は『丸くかつ四角いxは存在しない』として対象を指示することなく真なる命題が成立します。
このようにして『従来の論理学を乗り越える』すなわち『見かけの文法構造ではなく、真の論理形式を明らかにする』ことができます。そして、これこそが哲学の役割なのだというワケなのです。
4.112 哲学の目的は、考えを論理的にクリアにすることである。(後略)
そして、考えることのできるものの境界と、考えることのできないものの境界が決められるのです。
4.6 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。
さて、このように記号論理学を研究する中で、ある特異な例が発見されます。
それが恒真命題(トートロジー)というものでした。
これは真理項がいかなる値をとろうと結果が真になる命題のことです。
最も簡単な例を示すと『P∨~P』です。
分かりにくいので例文をひとつ書いてみます。
『ポチは犬であるか犬でないかのどちらかである。』
あたりまえですね。これは『ポチ』と『犬』にどんな値を入れても結果が真になります。
『このブログの管理人は人間であるか人間でないかのどちらかである。』
恒真命題は要素命題の真偽に関わらず、常に真です。その構造だけで真偽が決定してしまう、ということです。
ヴィトゲンシュタインはこれを私たちが表現できない論理形式というものが存在する証拠であるというのです。
なぜ論理形式は表現することができないのか?それは我々がその中で考えているからです。
羊羹の中を食べながら穴を堀って進んでいる虫が羊羹の形を知ることができないように、羊羹の外に出ない限り羊羹の形は分からないのです。
4.12 命題は、現実全体を描くことができる。けれども描くことのできないものがある。それは、現実を描くことができるために、命題が現実と共有する必要のあるもの――つまり、論理形式である。
論理形式を描くことができるためには、命題といっしょに私たちは、論理の外側に、つまり世界の外側に、立つことができなければならないだろう。
しかしながら、言葉にできなくとも『しめす』ことはできるようなのです。
4.121 (前略)命題は、現実の論理形式をしめす。
命題は、現実の論理形式を提示する。
4.122 しめされうるものは、言われえない。
とうとう『語ることができないもの』が、その一端を現してきたようです。
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