吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

偉人評伝(06)『法然(ほうねん)』

2018-10-31 06:28:00 | 偉人の足跡に学んでみようか
 

 好評の偉人評伝シリーズ。今回は法然上人を取り上げたいと思います。


※法然上人(1133-1212) 正しくは『法然房源空』。

 法然は武家に生まれたが、少年時代に父親が惨殺されてしまうのです。
 このことが法然の人生に大きな影を落としていると思うのですが、伝わる伝記にはそうした影は片鱗もありません。
 なぜかこのヒト、極めて優等生的な人生を送るのです。自分というものを押し殺した人生だったのかもしれません。

 本来であれば武家の跡目を継ぐはずだった法然ですが、このままでは当然敵討ちをしなくてはなりません。
 カタキを捜して全国を隈なく旅し、運よく見つかるとあの有名な台詞の出番となるワケです。
 『おのれ父のカタキ〇〇〇〇〇〇、ここで遭ったが百年目、盲亀の浮木かぁ優曇華のぉ花咲く春の心地してぇ・・・いざ尋常に勝負!勝負ぅ~!
 で、また殺された側はカタキ討ちに・・・って、これじゃキリがないです。
 実際には全国を旅するうち、カタキに巡り合えないまま無念の死をとげるヒトも多かったようです。


※江戸時代の敵討ち・・・血煙高田馬場の中山安兵衛(阪東妻三郎)

 そんな実りのない人生を送るよりは僧になって家族の菩提を弔った方がマシだ、ということで法然は比叡山に預けられ僧としての修行に励みます(資料によって、出家が先で事件が後の記載もあります)。
 法然もまたたいへん優秀な頭脳の持ち主だったようで、比叡山に入山して2年で師匠から『もはや教えることはない』とされ、受戒を受けて18歳で法然となります。比叡山黒谷別所に移って以降は論争して負け知らず、『智慧第一の法然房』と称されるようになるのです。

 この頃盛んになった浄土思想に法然は強く惹かれるようになります。
 戦乱や社会不安を背景に、末法思想(『釈迦が仏教を興して千年の間は正しい法が伝わるが、やがて釈迦の教えは形ばかりのものとなり、ついには失われてしまう』という考え)とも相まって、人々は『極楽浄土に生まれ変わりたい』と強く願うようになるのです。


※浄土を求める文言『厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)』は後に徳川家康の旗印になった。

 まず、浄土に生まれ変わるための修行として『観想念仏』なるものが考案されました。
 最初は仏様の眉間にある白毫から始めて、だんだんと仏様の身体全体、さらに鎮座する蓮の花、そして蓮池と極楽全体を脳内に描き出す修行です。カンバーバッチ版シャーロックでいうところの『精神の宮殿』みたいなスゴ技です。
 考えたのですが、現在ならこれVRで可能なんじゃないかと思います。
 どっかのお寺がスポンサーになって作れば『観想念仏ソフト』売れるのじゃないかしらン。


※VRゴーグルで極楽浄土・・・ってソフト、売り出したら儲からないかナ?

 実際には観想念仏なんてスゴ技に至る修行ができる人は限られていますので、『フツーの人は浄土に生まれ変わるなんてムリムり』と思われていた時代に法然は強烈なパラダイムシフトを行うワケです。
 すなわち『ただ一心に「南無阿弥陀仏」と念仏すれば誰でも極楽往生できる』と主張したのです。
 これにフツーの人々は飛びつきました。
 ムツカシイ修行は不要、ただただ「南無阿弥陀仏」と唱えればイイのです。
 それまでは『殺生を生業とする猟師などは極楽往生なんてとてもとても』でしたが、たとえ猟師であっても「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できるというのですから、まことにありがたい教えなのです。


※さあ君も極楽浄土へGo!(極楽浄土[Gokuraku Jodo] / GARNiDELiA)

 実際に法然が旅して船上にいたとき、漕ぎ寄る船があり、乗っていたのは遊女たち。
 『私たちのような賤しい者でも極楽往生できるのでしょうか?
 この問いに答えて法然は力強く『おお、往生できるとも。南無阿弥陀仏と一心に唱えさえすればよいのじゃ。』と答えます。実に感動的なシーンです。
 こうして法然は、それまで救済されなかった人々を救うという事業に一生捧げるのです。

 さて『宗教者に必要なもの』とは何でしょう?人々に教えを語る弁舌の才でしょうか。強い信念でしょうか。
 私は、宗教者にとって一番大事なのは『神秘体験』だと思うのです。
 法然も修行中に『広間の壁全体に巨大な仏様のお顔がのっと現れた』というヴィジョンを視ています。
 また『中国における浄土宗の開祖善導(この時代からみて500年前のヒトです!)に会って教えを授かった』と言っています(明晰夢ですか!?)。
 こうした神秘体験こそが、宗教者を支える根幹であろうと思うのです。


※臼杵石仏の仏頭・・・法然が視たのはこんなヴィジョンだったのだろうか?

 ここから余談に入ります(このシリーズ、スンナリ終わることはできないのです)。
 浄土宗を語るとき承元の法難(または建永の法難)を避けては通れません。
 浄土宗も当時は新興宗教、信者を集めるために様々な催しを行います。
 そのひとつに六時礼讃なる念仏法要がありました。大勢の僧たちが集まって広場に人を集めて「南無阿弥陀仏」と唱和する催しです。
 浄土宗のお経って聞いていると木魚を連打して鉦を鳴らし、結構騒々しいのですが、大勢で集まってこれを演ると、さながらヘビメタのパフォーマンス、鋭いリフによるヘドバン&縦ノリの世界になって参ります。
 これにヴィジュアル系の若いイケメン僧侶をズラッと揃えたもんですから、これはご婦人方はタマリませんワナ。
 当時むさくるしい男どもが多い中に、頭を青々と剃り上げた禁欲的なイケメン集団(ジャニーズも真っ青です)、ご婦人方は『キャアアアア~ッ!』と絶叫、失神の騒ぎになりまして、感激のあまり出家するご婦人が続出したというのです。


※ヴィジュアル系ということで、とりあえずXJAPANの写真を入れてみました。

 建永元年十二月九日、後鳥羽院熊野山の臨幸ありき、その頃、上人の門徒住蓮・安楽等の輩、東山鹿谷にして別時念仏を始め、六時礼讃を勤む。定まれる節・拍子なく各々哀歓悲喜の音曲を為すさま、珍しく貴かりければ、聴衆多く集まりて、発心する人も数多聞こえし中に、御所の御留守の女房出家の事ありける程に、還幸の後、悪し様に讒ざんし申す人やありけん。

 侍女たちが勝手に出家したことに怒った上皇は、張本人とされた住蓮・遵西の2名を処刑し、法然は流刑の憂き目に遭ってしまいます。これが名高い承元の法難です(浄土宗三大法難のひとつ)。
 当時の浄土宗の持つ物凄いパワーを感じさせるエピソードです。


偉人評伝(05)『空海(くうかい)』または『弘法大師(こうぼうだいし)』

2018-08-28 06:19:42 | 偉人の足跡に学んでみようか

 偉大な人物の行跡を紹介するこのコーナー、第5回は空海をとりあげます。


※三鈷杵(さんこしょ)を持つ空海・・・三鈷杵は密教の法具

 空海は香川県に生まれた。幼名を真魚(まお)という。小さい頃から才気煥発、まさに神童の名にふさわしい子供だったという。
 平城京で学問を学ぶが、官吏を目指す勉強に飽き足らず、19歳頃から山林で修行するようになった。
 この修行には同門の修行僧が付きしたがっており、この僧との間に腐女子大好きBL関係がウワサされているが真偽はさだかではない。

 この修行中は結構ボロボロの乞食坊主スタイルだったらしい。
 今でも四国巡礼の旅をする際には『橋の上では杖をつかない』というルールがある。弘法大師が橋の下で寝ているのを邪魔しないためだそうだ。高知県の室戸岬には空海が修行した御厨人窟(みくろど)という洞窟があって。この洞窟から見えるものといえば空と海ばかり、これが名前のもとになったというのだが、漢文の素養のあった空海が『』という文字を『そら』の意味で使うとは思えない(脚註参照)。やはり名前の意味は『空(くう)なる海』なのだと思われる。


※室戸岬の御厨人窟(みくろど)から海を望む

 その後、空海は遣唐使として唐に渡る。ウイキには『803年(延暦22年)、医薬の知識を生かして推薦され、直前に得度した。遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念し、翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る』とある。何と当初は医学生として渡る予定だったというのだ。空海が医学や化学の知識に長けていたことの証であろう。


※嵐に翻弄される遣唐使船・・・無事に着く船の方が少なかった

 805年2月から、長安は醴泉寺で学ぶと3ヶ月で梵語を極め、5月には青龍寺の恵果和尚について学ぶようになる。恵果和尚は空海の才能を認め即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。

 この異例のスピードは凄い!カンバーバッチ版シャーロック・ホームズの兄マイクロフトは少し聞いただけで新しい言語を理解し喋れるようになるという設定だったが、空海はそのレベルの天才だったのだろう。
 恵果和尚が自分の弟子を差し置いて空海を後継者に指名するのは長い間合点がいかなかったが、最近『空海は事前に日本から恵果和尚に論文を送っていた』という説を聞いて、これならと納得した。


※弘法大師空海が24歳のときの著作「聾瞽指帰(ろうこしいき)」・・・何という達筆!

 この論文は残っていないが、当然論旨明快なうえにアノ達筆ですよ!一目見ただけでホレ込むのが分かります!
 おそらく恵果和尚は空海が来るのを今か今かと待っていたに違いありません。たった2か月で真言密教の奥義を全て授けてしまうのです。空海に奥義を授けた恵果和尚は安心したのか年末に亡くなってしまいます。

 この後本草学や土木工学を学び(たちまちのうちに修了)、20年の留学予定を2年に短縮して日本に帰るのです。このとき帰ったのはまさにグッド・タイミングだった。実はこれ以降遣唐使の渡航は結構失敗していて、これを逃せばヘタしたら帰れないところだった。


※空海、三鈷杵を投げる(あくまでイメージです)

 この帰途『密教を広めるための土地はどこか』と念じて船上から三鈷杵を投げると、これが和歌山県は高野山の松の木の枝に引っ掛かっていたという伝説がある。投擲距離から判断して秒速11.2km以上の初速が与えられたため、三鈷杵はいったん大気圏を離脱して再突入したものと思われる。燃え尽きなかったのは三鈷杵の独特な形状がリフティングボディとして機能したのではないか(信じちゃダメですよ)。


※リフティングボディの例・・・をいをい(゚-゚;)ヾ(-_-;)

 さて空海は嵯峨天皇のもとで様々な祈祷を行ったり、助言をするブレーンとして重用される。
 祈祷といっても当時最新の科学にもとづいて行うのだから効果は絶大である。特に雨乞いの祈祷では、競って全戦全勝負け知らず、クイズ東大王のごとき勝率を誇った。

 この空海の最新知識を手にしたいと思ったのが最澄である。『理趣釈経』の借覧を申し入れたが、空海はにべもなく断る。密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行ではないというのだ。
 考えてみれば今でも千日回峰行を行う天台宗の開祖である最澄がこれに思い至らなかったという方が不思議である。


※千日回峰行を行う叡山阿闍梨

 空海は『弟子になるなら教えんでもない』とうそぶくので、(自分が弟子になるワケにもいかず)仕方なく自分の弟子を空海のもとに遣わすが、今度は弟子を返さない。『あんなマジメ一徹の最澄よりワシの方がええやろ』と手元に留めてしまうのである。

 空海というヒト、悟りを開いた僧とは思えず、極めて人間的なのである。

 高野山建設に奔走した甥の達泉が病に倒れて死ぬと、悲痛な歌を作って悲しんでいる。

 哀しい哉 哀しい哉 哀れが中の哀れなり
 悲しい哉 悲しい哉 悲しみが中の悲しみなり
 哀しい哉 哀しい哉 また哀しい哉
 悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉

 しかしこの歌、いいリズムです。繰り返しているとじんわりと心に沁みてきます。
 この繰り返しのリズムが実にイイのです。

 秘蔵宝鑰の一節にも心に残る響きがあります。

 生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く
 死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し

 実にいい響きです。縦ノリの曲を付けても合いそうです。

 空海には様々な業績があります(大学を造り、土木工事を行い、人々の病気を治した、等)が、それは他の資料に当たって戴くとして、ここでは真言密教についてその一端を述べるにとどめます。
 真言宗の目標は即身成仏と鎮護国家です。


※真如海上人の木乃伊(ミイラ)・・・即身成仏で皆が抱くイメージはコレですが・・・

 即身成仏というと『木乃伊(ミイラ)か?』と思うでしょうが、本来は生きた生身のまま仏になることを意味します。
 釈迦が説いた『いかにして苦しみを除くのか』という教えはここにきて現世肯定の教えに変貌するのです。

 理趣経『百字の偈』を読むとよく分かります。

 菩薩勝慧者 乃至盡生死 恒作衆生利 而不趣涅槃
 般若及方便 智度悉加持 諸法及諸有 一切皆清浄
 欲等調世間 令得浄除故 有頂及悪趣 調伏盡諸有
 如蓮體本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生
 大欲得清浄 大安楽富饒 三界得自在 能作堅固利

 菩薩は勝(すぐ)れし知慧を持ち、なべて生死の尽きるまで
 恒(つね)に衆生の利をはかり、たえてねはんに趣かず。
 世にあるものも、その性(さが)も、智慧の及ばぬものはなし。      
 もののすがたも、そのものも、一切(すべて)のものは皆清浄(みなきよ)し。
 欲が世間をととのえて、よく浄(きよ)らかになすゆえに、
 有頂天(すぐれしもの)もまた悪も、みなことごとくうちなびく。
 蓮(はちす)は 泥に咲きいでて、花は垢(よごれ)に染(けが)されず。
 すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す。
 大なる欲は清浄(きよき)なり、大なる楽に富み饒(さか)う。
 三界(このよ)の自由身につきて、固くゆるがぬ利を得たり



※泥から咲き出でてなお浄(きよ)らかな蓮の花のイメージ

 もはや欲も煩悩も全て肯定です。これを読むと何かおおらかに世間を生きれる気がします。

 真言密教もう一つの柱である鎮護国家は裏を返せば呪詛調伏に通じます。


※秋篠寺の大元帥明王立像

 京都芸大の学長を務められた梅原猛氏はある僧侶から真顔でこのように打ち明けられたことがあるそうです。
 『ルーズベルトは大元帥明王法により、私が呪い殺したのです
 げに恐ろしきは人の念ではあります。

 空海は入定した後も生きていると信じられていて、高野山では奥の院に居る空海のために今でも食事が届けられています。56億7千万年の後、弥勒菩薩がこの世を救いに顕現する、その日を空海は待っているのです。

Judas Priest - Dreamer Deceiver / Deceiver (BBC Performance)

※ "♪ We shall stay forever~." 56億7千万年待つってこんな感じ!?




脚註) 漢文では『空』は『むなしい』の意味となる、『そら』を意味する文字は『天』です。
 日中国交正常化のとき田中角栄は大胆にも漢詩を作って披露したが、何と出だしを『北京の空(そら)晴れて』とやってしまった。中国の首脳たちは『北京空(むな)しく晴れて』という出だしにドキッ!としたという。


偉人評伝(04)『モーゼ』

2018-08-21 07:00:40 | 偉人の足跡に学んでみようか

 偉大な人物の行跡を紹介するこのコーナー(そんなのあった?あるンです!)、第4回はモーゼをとりあげます。

 最も有名なモーゼの像は、ローマ郊外の丘の上に立つサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会にあります。
 『神のごとき』と称賛されたミケランジェロが教皇ユリウスⅡ世の墓碑として彫刻したもので、実に生気に満ちたモーゼ像です(私は実際に行って見たことがあります!箱にコインを入れると数分間照明が点くのです)。
 ミケランジェロはこの像が完成したとき、その膝を叩いて『さあ語れ!』と言ったとか・・・。


※ユリウスⅡ世廟のモーゼ像(ミケランジェロ作)

 で、この像をよく見ると頭に角がある!(やはり人間ではなかったのか!?)いやいやこれは誤訳によるもので本来は『輝く』とか『智慧ある』だったのが、いつからか『角のある』に変ってしまったらしい。シンデレラの靴が布からガラスに変ってしまったのと同じように・・・。

 さて、カナンの地で暮らしていたヘブライ人たちはエジプトに移住させられ奴隷となっていた。
 モーゼはヘブライ人の子だったが、ファラオによるヘブライ人への人口抑制政策から逃れるためナイル河に流されたところをエジプト王族に拾われ育てられたという。実母が乳母としてこの家に潜り込んでいるから、実際には『ホトトギスの托卵』みたいな謀り事だったようだ。

 成長したモーゼはヘブライ人を助けようとして、誤ってエジプト人を殺してしまい逃亡、しばらく姿をくらましていたのだが『ヘブライ人を助けるためにファラオと交渉して皆でエジプトを離れるべきだ』と考えるようになる。


※ファラオと対峙するモーゼ(映画『十戒』より)

 奴隷となっていたヘブライ人を解放してもらうためにファラオの前に出てハッタリで奇跡を演じてみせるが、手品の域を出ない子供騙しだったので失敗し、とうとうテロに走るようになる。ナイル河に毒を流し、生物化学兵器による無差別テロを強行したのだ(脚註1)。オウム真理教も真っ青である。

 ヘブライ人によるエジプト人の子供を狙った残忍な無差別殺人まで広まったためにファラオも辟易して『もう、こいつ等追放しちゃって!』との命令が下り、モーゼはヘブライ人を連れて安住の地を求めて実に40年間砂漠を彷徨うことになるのです。

 よくよく考えてみるとファラオは結果的にテロ犯罪者たちを野放しにしたワケで『やっぱ殺そう!』と追手を差し向けるが、モーゼたち一行は大潮で出現した砂州を渡ってうまうまと逃げおおせます(脚註2)。

 この荒野を彷徨う40年の間に団結を固めるため十戒が考案された(らしい。キリスト教者は『神から与えられた』として著作権を放棄していますが・・・)。
 裏切り者を許さない『ゲルショッカーの掟』みたいなものだと思えばいいでしょう。


※ブラック将軍(その正体は怪人ヒルカメレオン)が語るゲルショッカーの掟

 ところで十戒は2種類あります。『唯一絶対の神から与えられたのなら1つではないのか?』という疑問はこの際捨象します。

 詳しく見てみましょう。

【正教会・聖公会・一般のプロテスタントの十戒】
 1.主が唯一の神であること
 2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
 3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
 4.安息日を守ること
 5.父母を敬うこと
 6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
 7.姦淫をしてはいけないこと
 8.盗んではいけないこと
 9.隣人について偽証してはいけないこと
 10.隣人の財産をむさぼってはいけないこと


【カトリック教会・ルーテル教会の十戒】
 わたしはあなたの主なる神である。
 1.わたしのほかに神があってはならない。
 2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
 3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
 4.あなたの父母を敬え。
 5.殺してはならない。
 6.姦淫してはならない。
 7.盗んではならない。
 8.隣人に関して偽証してはならない。
 9.隣人の妻を欲してはならない。
 10.隣人の財産を欲してはならない



※石板に刻まれた正教会・聖公会・一般のプロテスタント版の十戒(イメージ)

 これを見て驚くのは1から4(または3)までは信仰に関することなのです。
 まず第1は『汝われ以外の神を信ずべからず』なのです。これが最優先事項です。
 その理由を『エホヴァ(仮)は妬(ねた)みの神にして・・・』とこの名前の分からない神は言うのです。

 名前が分からないと言ったのは、ヘブライ語の記述では子音のみで『YHWH』と記されているために読みが分からないのです。子音だけでは発音できません。みだりに名前が唱えられないよう、この神は名前を明かさないのです。

 筒井康隆の『熊の木本線』のようにテキトーに母音を当てはめて何通りも試したら本当の名前に一致して神罰が当たるかもしれません。モノ好きな方は試してみるのも一興かと・・・。

 で、『汝、殺す勿(なか)れ』は信仰よりも下位に置かれています。何と『安息日を守ること』よりも優先順位は低いのです。このことが実はキリスト教徒が『異教徒ならいくらでも殺してイイ』という理屈のモトになっているのです。


※エルサレム奪還のために結成された十字軍『キャッホー!異教徒は皆殺しじゃぁぁぁ!』

 現代まで続く世界の争乱の原因がここにある!(と私は思います)

 モーゼは荒野を40年間彷徨った後、目的地を目前にして息絶えます。享年120歳(計算が合わンが、まあイイ)。


※海原雄山ふうに叫ぶ。

 実際には『こんなところは「約束の地」では、なーい!』と海原雄山のように叫んでは彷徨い続けるリーダーが亡くなったので皆ホッとしたのだろう。『もうここが約束の地でイイやーん!』と、皆で定住を決めたのだと思われる。

 ここに住んだものたちはユダヤ人と名乗るようになる。その後もユダヤ人たちはバビロン捕囚になったりして故郷から遠く離れた地を彷徨い続けるのだが、フリーメーソンの力でアメリカ合衆国を動かし(←この説には定かな証拠はないが・・・)、とうとうイスラエルを建国する。理由は『そこが聖書にある「約束の地」だから』です。


※アメリカ合衆国1ドル札に印刷されたイルミナティ(フリーメイソン系秘密結社)のシンボル(・・・だという説がある)

 『2000年以上前の土地所有権を主張する』というのは蛮行以外のなにものでもないが、アメリカ合衆国はこれを後押しした。
 しかし、そこは残っていたヘブライ人の子孫がイスラム教に改宗して住む土地だったのです。
 かくしてユダヤ人対ヘブライ人という同族の子孫同志の戦いは今も続いています。




(脚註1)十の災い
 十の災いとは、①ナイル川の水を血に変える、②蛙を放つ、③ぶよを放つ、④虻を放つ、⑤家畜に疫病を流行らせる、⑥腫れ物を生じさせる、⑦雹を降らせる、⑧蝗を放つ、⑨暗闇でエジプトを覆う、⑩長子を皆殺しする、となっている。ヘブライ人たちがこれを行ったのでなければ、天変地異に乗じて様々な流言を放ち『世情不安や風評被害をエジプトにもたらした』と考えられる。
 これを見て思うのは『ヨハネ黙示録』との類似です。やはり黙示録は未来の出来事に託してローマ帝国を批判したものではないかと、私は思います。黙示録の獣が持つ7つの頭とは、キリスト教を迫害した7人の皇帝を指しているのではないか、という説に賛同します。


※作物を喰い荒らす飛蝗の群れ(←⑧蝗を放つ)パール・バックの「大地」を思い出させる写真!

(脚註2)海を割るモーゼ
 モーゼは海を割ったというが、私は『大潮で一時的に砂州が出現したのではないか?』と考えます。ちょうどモン・サン・ミシェルに続く砂州のように。三重県の賢島はその昔『徒歩(かち)越し島』と呼ばれていたそうです。潮が引いたとき、頭の上に衣服や荷物を載せてふんどし一丁で渡ることができたそうですが、このようにして追手から逃れたのではないかと思うのです。


※皆が抱いているイメージはこれ!・・・湖を割る大魔神(映画『大魔神怒る』より)


偉人評伝(03)『聖徳太子(しょうとくたいし)』

2017-07-04 19:28:53 | 偉人の足跡に学んでみようか

 偉大な人物の行跡を紹介するこのコーナー、第3回は聖徳太子をとりあげることにします。


※ひと昔前はお札にも肖像が刷られ、まさに日本の顔だったお方にも関らず、その素顔は知られていません。

 官位十二階の制度を定め、身分制度に捉われない人材登用をした、憲法十七条を定めた、等の業績があり、仏典の翻訳から講義や注釈書づくりも行ったそうですが、どこまでが真実なのでしょう?、
 遣隋使を送り、大陸の進んだ文明と文化を積極的に取り入れ、煬帝に『日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)』なる國書を送って怒りを買ったそうですが、このころ隋は大規模な土木工事で国力を使い果たし、四度に亘る高句麗征伐も失敗に終わってしまうので『いくら怒っても出兵までしてくることはなかろう』と踏んでこれを送ったのだとすれば聖徳太子、ナカナカしたたかです。

 これ以上ないようなスバラシイお名前をお持ちですが・・・必要以上に持ち上げられているように思いませんか?

 古代において立派な諡(おくりな)を持つ人ってのはたいてい非業の死をとげたお方なのですが・・・。

 そして、この方の逸話には常に死の影がつきまとう・・・。

 本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)で『厩戸前にて出生したためその名がついた』・・・って、これ『イエス・キリスト』じゃん!・・・ということは、いずれ非業の最期を迎えることが運命づけられているってこと!?

 さらに『兼知未然(兼ねて未だ然らざるをしろしめす)』といわれ、予知能力があった!?
 自分の身に起こることを予め承知していたといいます・・・これ、予知しても変えられないのなら運命を受け入れるしかなかったとも解釈できませんか?未来を予知できるのは決してイイ事ではないのです(最後の晩餐でイエス・キリストは『この中に裏切り者がいる』と予言しますが運命を変えることはできませんでした)。

 よく見る太子の像のひとつが『太子二歳像』です。
 二歳の太子が合掌して『南無仏』と唱えたら掌に仏舎利があらわれたというのですが、仏教に信仰が厚かったとはいえ掌の中に「お骨」が現われるとはブキミです。

※興福寺太子二歳像

 そしてもうひとつ、よく知られた太子像は『太子十六歳像』ですが、十六というのは四(死)×四(死)で、これも不吉このうえない数字なのです。
 陰陽五行説によれば、奇数が陽で、偶数は陰なのです。偶数はあまりイイ数字じゃないのです。十六はその中でも『不吉さMAX』なのです。

※用命天皇の病気平癒を願ったとされる元興寺太子孝養像(太子十六歳像)

 ブキミの最たるものが『片岡山飢人伝説』です。
 太子が片岡山に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり『安らかに寝ていなさい』と語りかけた。
 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て『すでに死んでいました』と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。
 数日後、太子は近習の者を召して『あの人は普通の者ではない。真人にちがいない』と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て『墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました』と告げた。
 太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。
 人々は大変不思議に思い『聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ』と語って、ますます太子を畏敬した。


 聖人なのかもしれませんが(記述に無いので詳細は不明ですが、このエピソードはまるでイエス・キリストの復活のようです)、『死人の衣装を身に着ける』など、ケガレを嫌ったこの時代には『ありえないこと』ではないでしょうか?

 どうも伝説はすべて太子に『死ね!死ね!死ぬのだ!おまえは死ぬ運命なのだ!』と繰り返し言い聞かせているみたいではありませんか?

 実際には太子は享年49歳で病没しており、晩年は孤独だったかもしれませんが、非業の最期ではありません。

 さて、見慣れたお札の肖像は美化されて描かれていますが、どんなお顔をしていらっしゃったのでしょうか?
 法隆寺に太子生身の像とされる『救世観音』なる秘仏があります。現在は公開されていますが、永らく秘仏とされていて『封を解けば伽藍が崩壊する』と信じられていました。
 仏罰を恐れない外国人フェノロサによって封が解かれたのは何と明治になってからでした。

※杏仁形の眼はこのころの仏像全般にみられる傾向ですが、広い鼻梁と厚い唇が特徴的で印象に残ります。

 この救世観音の構造は独特です。表側は立派ですが、裏から見ると身体がありません(!)。着物だけなのです。


 そして光背が頭に釘で打ち付けられています。延髄に釘を打たれて・・・人間ならこれ、即死です。


※フツーは百済観音(右)のように光背用の台座を別に造ります。決して仏様に釘を打ったりはしません!

 構造からしてこの仏像は太子を呪った仏像ではないかという気がします。

 ではなぜ太子を呪い、その力を封じる必要があるのか?

 じつは、推古天皇の病死後の後継問題から子孫(山背大兄王の一族)が皆殺しの憂き目に遭っているのです。

 蘇我蝦夷・入鹿親子と対立した山背大兄王はいったん生駒山に立て籠るも『もはやこれまで』と、生駒山を下り斑鳩寺に入り、塔に火を放ち、その中で妃妾一族もろともに首をくくって自害、伝説では『山背大兄王の一族は燃える塔から西方浄土に向け飛び去った』とされています。

 おシャカ様の一族が滅亡した『カピラ城の惨劇』にも比すべき大事件です。


※(イメージ)惨劇を表す『塔』のタロットカード

 これでは太子の霊が怒り災いをもたらしても納得というものです。

 一族を皆殺しにした蘇我蝦夷・入鹿親子によって数々の伝説が造りあげられ『とても偉大な方で優れた能力があり、一族の滅亡も既定のこととして了解済であった』とまで言われたら、こりゃ化けて出る訳にはいきませんなあ・・・。しかも祟ろうと思っても呪いでその力は奪われています。ここまでやっておけば絶対安泰・・・策略とすれば実に周到といえます。

 周到な策略を巡らした蘇我蝦夷・入鹿親子でしたが大化の改新の直前『乙巳の変』によって中大兄皇子に誅殺され蘇我本宗家は滅びてしまいます。
 やはり太子の怒りは鎮まらなかったようです。

 参考文献:「隠された十字架 法隆寺論」(著:梅原猛 版:新潮社)
 


偉人評伝(02)『イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)』

2017-06-22 00:06:26 | 偉人の足跡に学んでみようか

 偉大な人物の行跡を紹介するこのコーナー、第2回は恐れ多くも『イエス・キリスト』です。

 ここで注意です。

 敬虔なキリスト教徒の皆さんはここから先を読んではいけません。

 ちゃんと警告しましたからね!

 ・・・では、始めます。

 そもそも『処女懐胎』なんてイマドキ『子供でも騙されないようなタワゴト』を科学の徒である私が信じるワケがありません。


 ※レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』

 マリア様が身持ちが悪かったとまでは思いませんから、当然『望まない妊娠』をしたに違いありません。
 父親は誰かを言えない相手だったのかと想像します。当然ユダヤ教徒ではなかった可能性もあります。今なら強制性交等罪で5年以上の懲役だったのではないでしょうか?
 宗教上の問題で中絶はできませんから産むしかない。父なし子ではいくらナンでも外聞が悪いというので『貧しい大工に因果を含めて結婚させ世間体を取り繕った』というのが真相に違いないと、私は思います(あ~あ、書いちゃった)。

 で、成長するとやっぱり『出生の秘密』について感づくようになります。
 そりゃそうです、父親とも他の兄弟とも全然似てない子供なんですから。
 出生の秘密を知ったイエス・キリストはだんだん家族から距離を置くようになり、ヨハネが主宰する怪しげな新興宗教集団と関りを持つようになります。そして家族のもとに帰らなくなってしまいます。


 ※ヴェロッキオ『キリストの洗礼』・・・ヨハネは洗礼者として、彼のもとにやって来る人々すべてにヨルダン川の水で洗礼を施していた。

 今でこそ権偉の象徴のようなキリスト教ですが、当時はユダヤ教の急進派で『神の前で万民は平等』などと唱える危険思想の持ち主の集まりです。
 こんなものを容認してしまえば奴隷制度に根ざしたローマの身分制度(皇帝-貴族-市民-奴隷)そのものが崩壊してしまうに違いありません。当然、テロ等準備罪(改正された共謀罪)による摘発対象なのであります。
 事実、ヨハネは(王妃ヘロデヤとサロメ公主の差金によって、ではありますが)ヘロデ王に首をハネられているではありませんか!


 ※オーブリー・ビアズレー『ダンサーへの報酬』・・・銀の盆に載せられたヨハネの首を検分するサロメ。

 長男イエスをこんな危ない集団から引き離さなければ、との思いでマリアはイエスの弟たちを連れて『お兄ちゃん、どうか帰ってきて!』と訴えに行くのです。
 それを聞いたイエスの答えは・・・『わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か』なのでした。

 (ルカによる福音書8章から引用)
 19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
 20 そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
 21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 
 これねぇ・・・統一教会やオウム真理教なんかで出家して集団生活を送っている信者を取り返そうと家族の人たちが説得していますが、いったん宗教にハマってしまった信者にはほとんど効き目無いじゃないですか。あれと全くソックリだと思いませんか?
 カール・マルクスの言う通り、まさに『宗教はアヘン』なのです。

 こうして本来の家族を捨て、同じ教義を信じる集団を新しい家族としたイエスは各地を遊説して回ります。

 『大事なものは愛だぜベイベー!愛し、合ってるかーい!』・・・てな感じです。

 イエスは『神の前ではローマ皇帝でさえ取るに足らない存在でしかない』と言い放ち、既存の権威を否定し、エルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制の腐敗を激しく糾弾します。
 とうとうユダヤ人の指導者たちによって、ローマ帝国へ反逆者として引き渡され、十字架に磔(はりつけ)になり、公開処刑されてしまいます。


 ※グリューネヴァルト「キリストの磔刑」・・・十字架は撓(たわ)み、まるでイエスを天に向けて撃ち出す弩(いしゆみ)のように描かれている。

 十字架には『INRI(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)』との札が掲げられました。

 この事件はキリスト教にとって最大の危機だったと思われます。
 出口王仁三郎の逮捕による大本教の崩壊(高橋和巳の小説『邪宗門』のモデルとなった事件です)、麻原彰晃の逮捕によるオウム真理教の解体にも比すべき事態でした。

 残された使徒たちは『イエス様は全人類の罪を背負って磔の刑を受けられたのだ』というトンデモ教説を捻(ひね)り出して危機を回避するのです。
 『いつかイエス様が再臨して全人類の罪をお裁きになるのだ』と。

 そうしてキリスト教徒はイエスの再臨を待ち続けているのです。今も待っています。


 ※ミケランジェロ『最後の審判(部分)』

 イエスが『世の終わりは近い。悔い改めよ』と言ってから2000年以上が過ぎました。
 哲学者ヘーゲルは『待つことがキリスト教徒の特質である』とさえ言っています。