※木星へと向かうディスカバリー号
私は自動運転が嫌いです。今度クルマを買い替えるときはマニュアル車を選ぼうと思っている。
しかし世間では猫も杓子も自動運転へと向かっている。この傾向は止まらないだろう。認知症の傾向があるドライバーが逆走したり事故を起こしたりするのを防止できるのは歓迎すべきなのだろうが、どうにもシックリこない。
※やっちゃえニッサン!手放し運転を披露する矢沢永吉
車の買い替えを勧めるカーライフアドバイザーに向かって言ったことがある。
私『アクセルを踏んでも障害物があったら発進できない?危ないぢゃないか!』
ア『いえいえ、安全ですって。』
私『阪神大震災のような地震が起こって周囲がガレキだらけになったとき、バンパーで押しても脱出できるのが安全なクルマだろう?』
ア『(しばらく調べて)アクセルを踏めば動くことは動くので、ゆっくり押して脱出することはできますよ。』
私『ゾンビの群れに囲まれて体当たりで逃げなきゃ殺されるって時はどうするんだ(本当に言いました!)。』
ア『そんな状況、ありえませんって。』
私『こいつだけはここで轢き殺さないとダメだって思った時は・・・。』
ア『(真顔で)ゼッタイにしないでください!』
人間は主体的に動かなけりゃダメだ。機械の奴隷になってはいけない!・・・というのが私の主張ですが、今回はそれを体現した映画を紹介致します。
スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』です!
※惑星直列が壮大な展開を予感させるオープニング
すでに2001年は過ぎ去り、もはや続編で描かれた2010年さえ越えてしまったのですが、まだまだ人類は月や火星周辺でウロウロしていて、現実がSFの世界に追いつくには、いま少し時間が掛かりそうです。
物語は・・・はるかな昔、人類は謎の黒い石板『モノリス』によって知恵を授けられ、道具を使うことを覚える。
※道具を手にすることでヒトは他の獣に勝るチカラを手に入れる
動物の骨や石器から発達した道具はやがて人類を宇宙に到達させる宇宙船にまで発展し、人類の可能性は飛躍的に高まった。
月に到達した人類は月面に巨大な人工物を発見する。それは、あの黒い石板(モノリス)だった。
人類が月に到達したのを確認したモノリスは木星の方向に協力な電波を発信する。
ここまでが原案となった小説、アーサー・C・クラークの『監視』のストーリーです。映画はさらにその先を描いていきます。
※月面で発見されたモノリス
太陽の光を浴びたモノリスは強力な電波を木星に向けて発射し、人類はその電波の送信先を探して探索の旅に向かうことになる。
宇宙船ディスカバリー号に乗り組んだ科学者たちは人工冬眠の技術で生命を維持しつつ木星へと向かうのだが、電子頭脳HAL9000の反乱によって次々と命を失っていく。
※HAL9000に操られると脱出ポッドも凶器になる
そんな中、HAL9000と闘い、これに勝利したボーマン船長はモノリスと出会い、人類は次なる段階へと進化を遂げることを示唆して映画は終わるのですが、このラストには誰にとっても全くの予想外で『何じゃこりゃぁー?』とキツネにつままれたような気持ちで映画館を後にした人が殆どではなかったかと思います。かくいう私もそのひとりでした。
今になってみると、これは人類に与えた道具(の発展型であるHAL9000)を使った、モノリスによるテストではなかったかと私は思うのです。
※人工知能HAL9000・・・マイクを切られるとカメラアイで唇を読んで乗員の会話を理解する狡猾さを見せる
人類は道具を使うことで発展してきました。道具に動力が組み合わさると機械になります。
機械による文明の発達によって人類はその領域を広げてきたのです。海へ、空へ、そして宇宙へと活動領域は広がる。私はこれを機械による適応放散(↓脚註参照)だと思っています。
道具や機械は便利なものですが、現代では道具や機械に頼るあまり人間の能力が退化しているンぢゃないかと思います。例えばジャングルに住んで狩りを生業とするヒトたちの視力は4.0あります(これくらいになると昼間でも星が視えます)。現代人の視力はイイ人でせいぜい1.5から2.0といったところでしょう。着実に退化しています。
退化ならまだしも、機械を使うのではなく『機械に使われている』そんなヒトも多くいるンぢゃないでしょうか?
もはやスマホとAIの発達で、昔なら音楽を聴くのだって『この曲を聴こう』と思って掛けていたのが、今ぢゃあ『パーティーに相応しい曲を掛けて!』と頼めばAIが判断して勝手に掛けてくれる時代が到来しています。今のニンゲンは知力や主体性さえも失おうとしています。人類総認知症時代はもう目の前に来ているのです。
※スマホ認知症が広がり始めている
さて、話を元に戻しましょう。
月面でモノリスを発見した科学者たちは、これを分析するのかと思いきや『モノリスの前で記念写真を撮るのがせいぜい』というていたらくでした。モノリスの発信する電波を至近距離で浴び、科学者たちは地面に打ち倒されます。これが最初の警告でした。
木星へ向かう探査機ディスカバリー号。これは全くの自動運転です。乗組員は操縦に携わらず、コンピューターであるHAL9000に全てを委ね、数名のクルー以外は冷凍睡眠状態で、ただ運ばれているだけです。
最初の宇宙飛行士になったテストパイロットたちは宇宙船を自分で操縦することができないのでとても嫌がったそうです(サルやライカ犬の代わりでしかなかったからです)。このような状態でニンゲンの意思や知力、そして主体性は全く発揮されません。
※ディスカバリー号の中を進むボーマン船長
宇宙船によってただ運ばれているだけのニンゲン、こんなものに存在価値はナイとモノリスは判断し、自らの与えた道具の発展型であるHAL9000を使って乗組員を抹殺していきます。冷凍睡眠している科学者たちはただの荷物です。これも存在価値ナシと判断され、HAL9000によって生命維持装置が次々と切られていきます。
なぜ、ボーマン船長は人類の新しい段階へと進む切符を手にすることができたのか?
※HAL9000を停止させようとするボーマン船長
それは人類に敵対するコンピューターHAL9000と闘って勝利したからです。
※ディスカバリー号は宇宙の深淵へと向かう
ニーチェは人間の発達の3段階を次のように例えています。
すなわち『人はまずラクダの時代を経なければならない。ラクダは重い荷物を背負って長い旅をする。修行と忍耐の時代である』と。続いて『砂漠を旅するラクダはある時獅子(ライオン)に変身する。獅子は砂漠に棲むドラゴンと闘わねばならない』と言うのです。そして『ドラゴンと闘ううちに獅子は突然赤子になる』と。
※気が付くとボーマン船長はホテルの一室のような部屋に迷い込む
これは物語の構成や稽古で言うところの『序・破・急』または『即・離・遊』と呼ばれる状態を現わしています。
例えば、稽古ごとであれば、最初は師匠に就いて、ひたすら学びます。師匠のやる通りコピーできるようになるまで地道な努力を繰り返すワケです。ある程度修行を積んだら、ある時『これはオカシいんぢゃないか?』と思うことが出てきます。優れた技術を身に付けた人間は、どうしても既存の権威とタタカう必要が出てくるのです。この闘争を続ける中で、ヒトは自分が実は些末なコトに囚われていたことに気づくというのです。
その後は自由闊達な『技、神に入る』という境地に至り、それは無垢な赤子のような心境である、と。
※そこにモノリスがあった
HAL9000と闘って勝利したボーマン船長がスターチャイルドに変身するラストは、こう考えるとスッキリ辻褄が合うのです。
※ベッドに横たわり、モノリスを指し示す年老いたボーマン船長
これは私の考えた独自の解釈です。
この映画を観たヒトがそれぞれ答を出さなければならない問いである、と私は思います。
なお、続編の『2010年』では『プログラムに仕組まれた極秘命令によりHAL9000が誤作動した』との説明がされていましたが、スッキリした説明とはとても思えませんでした(続篇は監督も異なり、別の作品と考えた方がよさそうです)。
註)適応放散:生物の進化に見られる現象のひとつで、単一の祖先から多様な形質の子孫が出現することを指す。例えば哺乳類は皮膜による翼を発達させて空を飛び(コウモリ)、足を鰭に変化させて水中に適応し(イルカやアザラシ等)、多様な環境に適応している。
ここ数日紙面を賑わしている『財務省福田事務次官のセクハラ発言による辞任問題』ですが、私はこの事件で世間ではあまり指摘されていない部分を取り上げてみます。
※辞任した財務省福田事務次官
財務省官僚が記者を自分より低く見て『この特ダネ狙いの胡麻の蠅めが』と思うのは勝手ですが、セクハラに繋がるとなるとこれは完全にアウトなのはいうまでもありません。
しかし、このような(言葉は悪いですが)枕営業まがいの取材を女性記者にさせていたテレ朝の責任はどうなのです?
事務次官のガードを緩めるために若い女性記者をあてがって食事に誘い「あわよくば機密情報を手に入れよう」と取材する・・・これはハニートラップと言われても仕方のない行為です(マズイと思ったテレ朝は女性記者の「セクハラだと公表する」という訴えを隠蔽しようとさえしました)。
会社がそういう意志でやってたのなら、これもアウトじゃないですか?
さらにはかつて官僚に取材をする担当だった女性記者がテレビで発言していましたが「1対1の食事は常態化している」そうです(「取材のためには避けて通れない道です」という発言もありました)。
官僚の方から担当の女性記者に声を掛けて「食事しませんか?」と誘うというのです。で、記者の方はいい情報が手に入るかとホイホイついて行く。
この食事代ってテレ朝をはじめとするマスコミ各社が取材費として負担しているンでしょう?
これ、官僚が「接待してくれ!」とマスコミにタカる行為です。
厳密にいえば贈収賄!これで情報を漏らしているンなら立派な汚職です!
倫理規定に違反していると思います。
セクハラ発言だけが問題になっていますが(それは大事なことですが)マスコミによる取材が官僚の腐敗の一因になっている事実は(マスコミからは)報道されないですねえ。
(承前)←第6章に戻って読みたいヒトはこの文字列をクリック!
実は第7章はたった一行しかありません(あの有名な文言です!)。
これではスグ終わってしまいますので、まずは、これまで読んできた全体を概括してみることにします。
これまでの成果を記してみましょう。研修や打合せの後にサマリーをするのはビジネスの基本ですからネ。
第1章:世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。
・・・モノではなくセンテンスの総体こそが世界を表すのである。
第2章:私たちは事実の像をつくる。
・・・世界を理解をするにはその写像が必要である。
第3章:可能的世界の写像が論理空間である。
・・・世界は事実から成り、論理空間は命題から成る。
第4章:すべての哲学は言語批判である。
・・・哲学とは、考えることができるものとできないものの境界を明らかにする活動である。
第5章:命題は、要素命題の真理関数である。
・・・見かけの文法構造ではなく、真の論理形式を明らかにすることが哲学の目的である。
第6章:論理空間において、謎は存在しない。
・・・そもそも問うことができるなら、その問いには答えることもできる。
第7章:語ることができないことについては、沈黙するしかない。
・・・神や倫理に代表される世界の価値は、論理空間の外側にあるに違いない。
最後(第7章)の文言はこれまで、もっと強い口調で語られてきました。
一般的には『語りえないものについては沈黙すべきである』として広まっています。
この本では『べき』すなわち命令と取られる表現をすると『え?あえて語ろうとすれば語れるのか?』と思われかねないので、この表現に落ち着いたと『訳者あとがき』にあります(なるほど)。
ただし『べし』には本来、命令以外の意味もあります。大藪春彦の小説『野獣死すべし』は運命を表す『べし』なので、この意味は『野獣は死ななければならない』と読むのは誤りで、正しくは『野獣は死ぬ運命にある』という意味の題名なのです。スイマセン⤵これは全くの余談でしたね。
論理哲学論考の内容は『①世界を語りうるものとして定義し、②その境界を明らかにして、③語りえないものをしめす』活動でした。
※ "Remember him when you look at the night sky."(←マッドマックスより/註:本文とは無関係です)
ここで行われたのは単純化と分類です。人間の認識とはそうして広がるものなのです。
それにしても哲学は『この世界はいったいどのような姿をしているのか』を問う学問だったはずなのですが、自然科学の発達によってその役割は数学や天文学、素粒子理論等にその立場を譲ってしまったように思えます。
ヴィトゲンシュタイン以降、哲学は言語や記号の袋小路に入ってしまったように思えてなりません。
哲学は、いま一度本来の目標にたち帰る必要があるのではないでしょうか。
ヴィトゲンシュタインは自らの論文の最後に次のように記しています。これは未来への希望を表しています。
6.522 ただし、口に出せないものが存在している。それは、自分をしめす。それは、神秘である。
6.53 哲学の正しい方法があるとすれば、実際それは、言うことのできること以外、なにひとつ言わないことではないか。つまり、自然科学の命題―――つまり、哲学とは関係ないこと―――しか言わず、そして、誰かが形而上学的なことを言おうとしたら、かならずその人に、「あなたは、あなたの命題のいくつかの記号に意味をあたえてませんね」と教えるのだ。この方法は、その人を満足させないかもしれない。―――その人は、哲学を教えてもらった気がしないかもしれない。―――けれども、これこそが、ただひとつ厳密に正しい方法ではないだろうか。
6.54 私の文章は、つぎのような仕掛けで説明をしている。私がここで書いていることを理解する人は、私の文章を通り―――私の文章に乗り―――私の文章を越えて上がってしまってから、最後に、私の文章がノンセンスであることに気づくのである。(いわば、ハシゴを上ってしまったら、そのハシゴを投げ捨てるにちがいない)。
その人は、これらの文章を克服するにちがいない。そうすれば世界を正しく見ることになる。
※ケンブリッジ郊外「旧セント・ジャイルズ墓地」に眠るヴィトゲンシュタイン
(完)
(承前)←第5章に戻って読みたいヒトはこの文字列をクリック!
さて、第6章では真理関数に関する話が延々と続きますが、ここは思い切って省略して紹介することにします。
と、いうのはトートーロジーと論理形式について数式による論理演算が繰り返されるため、これを詳細に紹介すると『ついて行け~ん!』とか『わからんちん。いっそのこと殺してください!』というコメントが殺到するのが眼に見えているからです。
で、サラッと流して結論だけ拾っていくことにします。
興味のある方は原典に当たって砕け散ることをお勧めします。
論理学の命題はトートロジーであると主張するヴィトゲンシュタインは次のように続けます。
6.1222 このことによって光が、次の問いに投げかけられる。論理学の命題を経験によって反駁することができないように、なぜ論理学の命題を経験によって説明することができないのか。論理学の命題は、どんな経験によっても反駁可能な必要がないだけではなく、経験のようなものによって証明可能であってもならないのだ。
前章で述べた『羊羹の中を食べながら穴を堀って進んでいる虫が羊羹の形を知ることができないように、羊羹の外に出ない限り羊羹の形は分からない』というくだりによっているワケです(その中では論理命題はト-トロジーになる)。
※M.C.エッシャー『メビウスの輪』・・・蟻にとっては無限に続く道である。
6.126 (前略)論理命題の証明とは、最初のト-トロジーからくり返しトートロジーを生み出す、ある種の演算を反復適用することによって、問題のその論理命題を成立させることである。(しかも、トートロジーから帰結するのはトートロジーにすぎないのだが)(後略)
6.1262 論理での証明は、トートロジーが複雑なとき、それがトートロジーであることをより簡単に見わけるための、機械的な補助手段にすぎない。
内部にいる限り論理構造は分からない・・・。では、その境界とはどう決まるのか?
第4章にその答えがありました。
4.6 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。
※宇宙のイメージ図から引用
ここで主語が『私の』であることに注目です。決して『私たちの』ではないのです。
つまり『語彙の豊富なヒトの世界と語彙が乏しいヒトの世界は異なる』と言っているのです。
あるいは『複数の言語を習得しているヒトの世界とひとつの言語しか知らないヒトの世界は異なる』とも読めます。
境界の定義はきわめて個人的で、ヒトによって異なる、というワケです。
ヴィトゲンシュタインはソリブシズム(独我論)の立部に立っています。
ソリブシズムとは『この世界に実在するのは私一人で、ほかは全て私の意識内容にすぎない』という考え方です。
その世界(私の世界)の中では、
6.375 論理的な必然しか存在していないように、論理的な不可能しか存在していない。
6.5 口にすることができない答えにたいしては、その問いも口にすることができない。
謎は存在しない。
そもそも問うことができるなら、その問いには答えることもできる。
6.51 問うことができない場合に、疑おうとすることき、懐疑論は、反論不可能なのではなく、明らかにノンセンスなのである。
というのも、問いがある場合にしか、疑いは生まれることがないのだから、そして、なにかを言うことができる場合にしか、答えも問いも疑いも生まれることがないのだから。
それでは、境界の外は?ヴィトゲンシュタインも何かがあることは否定していません。
6.522 ただし、口に出せないものが存在している。それは、自分をしめす。それは、神秘である。
6.41 世界の意味は、世界の外側にあるにちがいない。世界では、全てが、あるようにしてあり、すべてが、起きるようにして起きる。世界のなかには価値は存在しない。---もしもかりに価値が存在しているのなら、その価値には価値がないだろう。
※M.C.エッシャー『写像球体を持つ手』・・・フェッセンデンのような存在はいるのか。
そして神や倫理は『超越論的である』として『世界の外側にあるにちがいない』と言うのです。
ここでヴィトゲンシュタインは倫理の例として『汝、・・・・・・為すべし』という言葉を使っているので、倫理についてカントの影響を受けているようです(カントによれば、こうした啓示は『天空の彼方から降ってくる』らしいのです)。
次回はとうとう最終章です!怒涛の結論に(つづく)←さあ、この文字列をポチって最終章へGo!
各流派が装いを凝らして出展するので、なかなか面白いのです。
※未生流笹岡・・・定規と分度器を使って生ける特異な流派ですが、これは面白かった。
※未生流(庵家)・・・未生流は分派が多いのです。
※嵯峨御流(1)・・・いま、ワタシ的に注目の流派。
※嵯峨御流(2)・・・変った花を生けるのです。
※小原流(1)・・・家元作品にしては物足りない(さほど大きくない)。
唯一、壺はイイ(神獣饕餮文青銅器・・・紀元前の品かっ!?)。
※小原流(2)・・・花器は練習用だがサボテンはイイ。
※小原流(3)・・・かなりデカイ!
※千草真流・・・華やかです。
※草月流・・・なかなか斬新。
※知香流・・・このフィギュア(今回は蟹)を置くのは理解できんのよな~。
開催期間が短いのは仕方がない。花の命は短いのです。