好評の偉人評伝シリーズ。今回は法然上人を取り上げたいと思います。
※法然上人(1133-1212) 正しくは『法然房源空』。
法然は武家に生まれたが、少年時代に父親が惨殺されてしまうのです。
このことが法然の人生に大きな影を落としていると思うのですが、伝わる伝記にはそうした影は片鱗もありません。
なぜかこのヒト、極めて優等生的な人生を送るのです。自分というものを押し殺した人生だったのかもしれません。
本来であれば武家の跡目を継ぐはずだった法然ですが、このままでは当然敵討ちをしなくてはなりません。
カタキを捜して全国を隈なく旅し、運よく見つかるとあの有名な台詞の出番となるワケです。
『おのれ父のカタキ〇〇〇〇〇〇、ここで遭ったが百年目、盲亀の浮木かぁ優曇華のぉ花咲く春の心地してぇ・・・いざ尋常に勝負!勝負ぅ~!』
で、また殺された側はカタキ討ちに・・・って、これじゃキリがないです。
実際には全国を旅するうち、カタキに巡り合えないまま無念の死をとげるヒトも多かったようです。
※江戸時代の敵討ち・・・血煙高田馬場の中山安兵衛(阪東妻三郎)
そんな実りのない人生を送るよりは僧になって家族の菩提を弔った方がマシだ、ということで法然は比叡山に預けられ僧としての修行に励みます(資料によって、出家が先で事件が後の記載もあります)。
法然もまたたいへん優秀な頭脳の持ち主だったようで、比叡山に入山して2年で師匠から『もはや教えることはない』とされ、受戒を受けて18歳で法然となります。比叡山黒谷別所に移って以降は論争して負け知らず、『智慧第一の法然房』と称されるようになるのです。
この頃盛んになった浄土思想に法然は強く惹かれるようになります。
戦乱や社会不安を背景に、末法思想(『釈迦が仏教を興して千年の間は正しい法が伝わるが、やがて釈迦の教えは形ばかりのものとなり、ついには失われてしまう』という考え)とも相まって、人々は『極楽浄土に生まれ変わりたい』と強く願うようになるのです。
※浄土を求める文言『厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)』は後に徳川家康の旗印になった。
まず、浄土に生まれ変わるための修行として『観想念仏』なるものが考案されました。
最初は仏様の眉間にある白毫から始めて、だんだんと仏様の身体全体、さらに鎮座する蓮の花、そして蓮池と極楽全体を脳内に描き出す修行です。カンバーバッチ版シャーロックでいうところの『精神の宮殿』みたいなスゴ技です。
考えたのですが、現在ならこれVRで可能なんじゃないかと思います。
どっかのお寺がスポンサーになって作れば『観想念仏ソフト』売れるのじゃないかしらン。
※VRゴーグルで極楽浄土・・・ってソフト、売り出したら儲からないかナ?
実際には観想念仏なんてスゴ技に至る修行ができる人は限られていますので、『フツーの人は浄土に生まれ変わるなんてムリムり』と思われていた時代に法然は強烈なパラダイムシフトを行うワケです。
すなわち『ただ一心に「南無阿弥陀仏」と念仏すれば誰でも極楽往生できる』と主張したのです。
これにフツーの人々は飛びつきました。
ムツカシイ修行は不要、ただただ「南無阿弥陀仏」と唱えればイイのです。
それまでは『殺生を生業とする猟師などは極楽往生なんてとてもとても』でしたが、たとえ猟師であっても「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できるというのですから、まことにありがたい教えなのです。
※さあ君も極楽浄土へGo!(極楽浄土[Gokuraku Jodo] / GARNiDELiA)
実際に法然が旅して船上にいたとき、漕ぎ寄る船があり、乗っていたのは遊女たち。
『私たちのような賤しい者でも極楽往生できるのでしょうか?』
この問いに答えて法然は力強く『おお、往生できるとも。南無阿弥陀仏と一心に唱えさえすればよいのじゃ。』と答えます。実に感動的なシーンです。
こうして法然は、それまで救済されなかった人々を救うという事業に一生捧げるのです。
さて『宗教者に必要なもの』とは何でしょう?人々に教えを語る弁舌の才でしょうか。強い信念でしょうか。
私は、宗教者にとって一番大事なのは『神秘体験』だと思うのです。
法然も修行中に『広間の壁全体に巨大な仏様のお顔がのっと現れた』というヴィジョンを視ています。
また『中国における浄土宗の開祖善導(この時代からみて500年前のヒトです!)に会って教えを授かった』と言っています(明晰夢ですか!?)。
こうした神秘体験こそが、宗教者を支える根幹であろうと思うのです。
※臼杵石仏の仏頭・・・法然が視たのはこんなヴィジョンだったのだろうか?
ここから余談に入ります(このシリーズ、スンナリ終わることはできないのです)。
浄土宗を語るとき承元の法難(または建永の法難)を避けては通れません。
浄土宗も当時は新興宗教、信者を集めるために様々な催しを行います。
そのひとつに六時礼讃なる念仏法要がありました。大勢の僧たちが集まって広場に人を集めて「南無阿弥陀仏」と唱和する催しです。
浄土宗のお経って聞いていると木魚を連打して鉦を鳴らし、結構騒々しいのですが、大勢で集まってこれを演ると、さながらヘビメタのパフォーマンス、鋭いリフによるヘドバン&縦ノリの世界になって参ります。
これにヴィジュアル系の若いイケメン僧侶をズラッと揃えたもんですから、これはご婦人方はタマリませんワナ。
当時むさくるしい男どもが多い中に、頭を青々と剃り上げた禁欲的なイケメン集団(ジャニーズも真っ青です)、ご婦人方は『キャアアアア~ッ!』と絶叫、失神の騒ぎになりまして、感激のあまり出家するご婦人が続出したというのです。
※ヴィジュアル系ということで、とりあえずXJAPANの写真を入れてみました。
建永元年十二月九日、後鳥羽院熊野山の臨幸ありき、その頃、上人の門徒住蓮・安楽等の輩、東山鹿谷にして別時念仏を始め、六時礼讃を勤む。定まれる節・拍子なく各々哀歓悲喜の音曲を為すさま、珍しく貴かりければ、聴衆多く集まりて、発心する人も数多聞こえし中に、御所の御留守の女房出家の事ありける程に、還幸の後、悪し様に讒ざんし申す人やありけん。
侍女たちが勝手に出家したことに怒った上皇は、張本人とされた住蓮・遵西の2名を処刑し、法然は流刑の憂き目に遭ってしまいます。これが名高い承元の法難です(浄土宗三大法難のひとつ)。
当時の浄土宗の持つ物凄いパワーを感じさせるエピソードです。