1966年の作品です。
ひさびさにBS放映されたので、ご覧になった方もいらっしゃるかもです。
予告編(↓)にもありますが、スタッフ、キャスト等メチャクチャ豪華です。
顔とは何でしょう。肉体の一部でありながら、顔は社会的な器官でもあります。
これは事故で顔に大火傷を負った主人公が、(社会生活の助けとするために)他人の顔をコピーした仮面を作ってもらう話です。
※精神科の医師は『劣等感を補うための』仮面(義顔)を制作することを承諾する
個人を個人たらしめているものは何でしょうか。私が私であること、すなわちアイデンティティーの源って何なんだろうか❔
それを問いかける映画です。
義顔を付けた時から自分が変わっていくのを感じる主人公。それまでのしがらみを離れて別の人間になる、という感覚を楽しむようになります。
しかし顔が変わっただけで別の人間にはなれやしないのです。私の経験ですが真冬にフード付のパーカーを被っていたとき(フードで顔は全く見えません)、後ろから名前を呼ばれてビックリ仰天したことがあります。歩き方や姿勢で分かったらしいのですが、個人を特定できるのは顔だけではないのです。
ヒトは会社や社会に所属していますから、個人を個人たらしめているものは他人による認識でもあります。周囲のニンゲンが『あのヒトは○○さん』と思えば、そのヒトは○○さんなのです。
自分でいくら『私は○○ではありません』と言っても信じてもらえなかったら❔あとは免許証や保険証しか自分が自分であることを証明するしかテがないのです。
こう考えてみると『自分を自分たらしめているのは、自分や他人の記憶だけだ』という結論に達します。自分という概念は、全くあやふやなものに支えられているモノなんですね~。
私も名刺のない生活をしたことがありますが、ヒトって『ナニに所属しているか』がアイデンティティーの元になっているのです、結局のところ。
他人の顔になって自由(❔)を手に入れた主人公は、だんだんと大胆な行動に出ます。他人のフリをして自分の会社を訪ねたり、果ては自分の妻に不倫を持ちかけたりするのです。
※妻を誘惑する主人公
コトが終わった後『簡単すぎる‼️』と怒る主人公に、妻は『分からないと思ったの❔』と返します。
確かに分からないはずがありません。日常一緒に暮らしている相手にはバレバレなはずですわ。
主人公は究極の自由を手に入れようとしますが、それは更なる悲劇を生んでいく破局に繋がっていくだけです。
ニンゲンとは❔個人とは❔いろいろ考えさせられる映画でした。
機会があればぜひご覧ください。
サルトルが言ったように『自由とは恐怖である』なのです。
無人島でサバイバルすればヒトは自由なのかもしれませんが、社会的サービスを一切受けられない生活は不便極まりないものです。
この映画が作られた背景には急速な近代化によって都市に人口が集中して素性の分からないニンゲンが共同生活する環境が整ったことがあるかと思います。それまでは共同体が強固で『あいつは昔悪ガキだった』とか皆がお互いによく知っていましたからね~。いくら顔を変えても他人になるなんて不可能です。
また戦後20年くらいで傷を負った人々がまだ多かった時代背景もあるでしょう。
現代はネットの時代でこのブログを含め匿名性が高い時代になりました。メタバースで生活すれば全くの別人にだってすぐになれることでしょう。この映画のテーマをもう一度考えるべき時代なのかもしれません。
キャストのみならずスタッフも超豪華です。
美術は磯崎新(病院のセットは今見ても新しいです)、音感は武満徹です。
その点も注目して見ていただければ一層楽しめるかと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
YouTubeを探したらありました。1966年勅使河原監督作品『他人の顔』は
白黒映画が不気味さを さらに強調しています。
豪華配役ですねぇ。
仲代達矢・京マチ子・平幹二朗・岸田今日子・岡田英次・村松英子・千秋実
市原悦子・南美江・観世英夫・田中邦衛
井川比佐志・前田美波里・入江美樹
当時のキラ星のような俳優女優さんですが 56年経って今なお
お元気はこの中でわずか5人です。入江美樹さんは女優もしていたのですね。
いまいち私の頭では分からないところもあり 再度鑑賞してみます。
同じ原作者・監督で 岸田今日子・岡田英次主演の『砂の女』も
YouTubeにありましたが こちらの配役はぐっと地味です。
顔が替わったら 人生を変えることができるか?どうでしょう。
やはりもう一度『他人の顔』を観てみます。