しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

もんぺ①中国新聞「戦時の制服・おしゃれの自由なかった」

2015年02月12日 | 昭和16年~19年

今日の中国新聞に表題の記事が一ページ載っている。
当時の実態とはかけ離れたように感じたので、資料として書き残しておく。

後日、調査後管理人記事のもんぺ②を書きたいと思う。


すべて「被害」意識で語る中国新聞は、戦後70年を経て、いっそうあやうい感じがする。








以下は中国新聞記事(2015.2.12)より。


太平洋戦争中、女性の衣料の定番は「もんぺ」でした。
物資を節約し、国民の心を束ねる狙いもあったでしょう。

昭和17年頃から女子学生はそれまでの制服のスカートをもんぺにはき替えて登校したそうです。
機能的で動かしやすかったのは確かでしょう。
でもそれは自由を制限された戦時の「制服」でした。

当時は多くの場合、すべて手縫いで母親が一人で作っていたと聞きました(中3女子生徒)

安田女子大講師談・昭和17年厚生省の公示でもんぺ着用が促され、お仕着せだった。
戦意高揚の「決戦服」とも呼ばれ、内心はカッコ悪い、着たくないと思っても周囲から異端の目で見られる。自由が制限された時代の制服でした。

ファッション学校校長談・(原爆投下時・女学校4年)救護を手伝いましたが誰が誰だかわかりません。
役だったのがもんぺでした。腰の名札の住所氏名が判断材料になりました。
まさかこんな感じでもんぺが・・・涙が出る悲しい思い出です。

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慰安婦からオンリーさんへ

2015年02月12日 | 昭和20年(戦後)


以下は「昭和史9占領下の日本」の記事。




昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
聞こえはいいが、ようするに占領軍兵士に慰安婦を供給するものだった。

アメリカの要請ではなく、日本政府のきもいりで出来たもの。
東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。

「日本の新女性を求む」という広告を出したところ多数の女性が応募し大森で店開きした。

彼女たちは「特別女子挺身隊」と呼ばれ一般婦女子を守る防波堤となった。
ショートタイム100円、泊り300円。
兵士たちは100円札を握りしめ開店前から行列ができた。

しかし巷には売春婦があふれ性病が蔓延した。
このことから米軍司令部は「いかなる場所であっても売春行為をするところに出入り禁止」を警察庁に伝達し(昭和21年3月)、RAAは機能を失った。

RAAの女性の多くは街に転落し、なじみ客から部屋・家を与えられたオンリーさんも現れた。
基地周辺には、こうしたスイートホームが建ち並んだ。

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岡山県の特殊接待婦

2015年02月12日 | 昭和20年(戦後)

下記は岡山県史「敗戦直後の政治」の記述

いわゆる特殊接待婦については「岡山県特殊娯楽協会」を設立し、東西の中島遊郭に90室の専用応急施設を造り10月25日に開業した。

また岡山劇場・三井物産・日赤の建物をダンスホールに改造、一般公募100人にダンスの講習を行い、阪神方面から移入した100人とともにダンスホールに配置、10月25日開場した。

「握手は求められた時だけに止めよ」「毅然たる態度を保持せよ」等々注意事項が多かった。
日本軍の非行になぞられての噂が広がり、一層国民の不安をかきたてていた。

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お母さんと言って仲間は出撃して行った 昭和の遺言・千玄室

2015年02月12日 | 昭和16年~19年

以下は週刊朝日2015年2月13日号の記事。











--昭和の遺言--千玄室

同志社中学3年の時、皇紀2600年の行事を迎えたのです。
昭和の時代で一番身が引き締まったのがこの出来事です。
日本だけで通用する紀元が出てきたのですから。

出撃が決まると特攻隊員は鹿屋基地へ移動します。
「千、お茶してくれや」という仲間がいました。
配給の羊羹を切って飛行機の横に車座になってお茶を点てました。
「生きた帰ったら、お前のところでほんとうのお茶を飲ませてくれ」と言われ胸苦しい気持ちになりました。


特攻隊員は従容として死地に赴いたのではありません。
心ならずも戦地に駆り出され、死を強要され死んでいったのです。
みんな「お母さん」と言って出撃していきました。
みな、生まれた時の無垢に戻りたいのですね。


私がお茶を点てる時は「このお茶があなたの幸せになりますように」との願いを込めています。
国も人種も、思想も宗教も越えてお茶を頂く、その人の幸せを願うのです。
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