玉音放送を聞いてから、張りつめていた「討ちてしやまん」の根性が抜け、誰もかれもボンヤリしとった。
それでも進駐軍の話で神経がしだいに高ぶってきだした。
「男は奴隷的労働を強要し、女は慰安婦に狩り出され、拒絶したら手りゅう弾の稽古台にするそうナ」という流言飛語がもことしやかに伝えられた。
県庁の「進駐軍受入本部」でも頭を悩ませ小原○○(旅館・後楽のオヤジ)が東署に呼ばれ、義勇娘子軍の組織を署長から懇々と頼まれた。小原はもちまえの侠気を出してひと肌脱ぐことになった。
岡山市の娘を救うため、ぜひ実現させなければならん、と本気なんだ。
素人にはむずかしい仕事だから、ひとつ中島の親方衆に話して、東中島遊郭23軒(元54軒)が合同して54人の娼妓(もとは142人)を
集めて、焼け残った電車筋北側の家を借りて8月21日から復活開業するに至った。
ところが広島から内報があり、10月23日から5000人の米軍が岡山へ進駐することが判った。
さあ大騒動だ。東遊郭の50人や60人では真拍子にあわん。
そこで東署の斡旋で食堂・カフェを糾合して娯楽施設協会が組織された。
これが主体になって慰安主体のカッフェを誕生させ、人肉市場の買い手氾濫を緩和させようとした。
まず第一に柳川筋で岡山劇場の復活に着手。曲馬団の木下○○に談判してコワ葺小屋を借り切ってダンスホールを始めることになった。
それを買って出たのが六条院生まれの浅野其という中年の男だった。
いよいよ時期切迫し、神戸の福原から連れてきたダンサー52人の健康診断と検梅をやったら、8人しか合格者がいない。
そこで津山と日比の遊郭から志願者を選抜したが、それでも間に合わんから一般から募集に決した。
「ダンサー急募」「月収500円」のポスターが街の角々に貼られて通行人の目をひいた。
赤十字病院の別館では、キャバレー・サクラというナイトクラブを開業。西川筋の旧三井物産の建物ではキャバレー・リバティが戸を開けた。
これらのダンサーは100人以上も応募してきた。ズブの素人ばかりだからダンスを教えた。
「生活の窮乏から一身を犠牲にする決心をした」と平然と語る娘さんばかりなのには驚いた。身体を張って生活と戦う女の態度には勇気凛然たるものだ。
中島遊郭の方も、両町の中央に東・61室、西31室の二階建て営業場が新築された。ここで集団生活をしながら、稼ぐことになったわけだ。
パンパンも盛んなもんだった。
この時分の岡山は、昼の日中に人が見とろうが堂々と取引している。夜は焼野が原で人通りも少ないし用心も悪いから無理はない。