しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小三の春⑯講堂で見る「オテナの塔」

2019年02月06日 | 城見小・他校
年に2回ほど、笠岡の映画館が来て学校の講堂で映画を見せてくれていた。
講堂に暗幕を張って暗くした。
暗幕の隙間から光が入り、講堂が真っ暗になることはななかった。
そのため、スクリーンは薄くなるのが不満だったが、授業を受けるよりは映画の方が楽なので文句を言う人はいなかった。

授業の代わりの映画なので、面白い映画はなかった。
「野口英世」「路傍の石」「次郎物語」、暗い物語だった。
「にあんちゃん」や「キクとイサム」などもあった。がまんして見た。

一度だけチャンバラ映画を上映した。
しかも「新諸国物語」、笛吹童子や紅孔雀や七つの誓と一連の人気映画で、「オテナの塔」。
主演は若手スターの中村扇雀(現在の坂田藤十郎)。

上映前から生徒たちは期待が大きく、「オテナの塔」の題名でもめた。
映画は「お寺の塔」という意見で、
「塔があるのはお寺に決まっている」という訳で、「オテナという日本語はない」と。

管理人はどちらでもよかった。チャンバラであればなんでもいい。刀を振り回してくれれば楽しい。それだけだった。

映画はお寺の屋根の上で対決するシーンがあった。
やっぱり”お寺の塔”だったのかな?とも思った。



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小三の春⑮日の丸をもって天皇陛下を迎える

2019年02月06日 | 城見小・他校
ある日の授業で、小さな箸のような棒を一本と、白紙が先生から支給された。
生徒は机の蓋を上げてクレヨンを出した。
先生の指示は・・・♪白地に赤く 日の丸染めて・・・国旗の小旗を作る事だった。
国旗は天皇陛下をお迎えするのが目的と言う。
その旗をもって全学年の生徒が校庭に集まり、校長先生の挨拶後、学校から列を組んで山陽本線を渡った。
線路の土手に一年生から六年生の生徒が横に長く並んだ。

そして10分か15分くらいして天皇陛下が乗った汽車が来た。

真っ黒い蒸気機関車は、普段の列車と違い黒光りがしていた。
正面には特急列車の燕か、何かのプレートが付けられていた。
そのプレートには日の丸が二本取り付けられ、神聖さがあった。
ごおお~っ、という轟音とともに吐き出される黒煙は、いつもの汽車のように真っ黒でなく白さも感じた。

前から見えて、後ろが見えなくなるまで30秒くらいだっただろうか?
汽車は、最高スピードで城見小生徒を無視するかのように通り過ぎて行った。
あっけなく行事は終わった。

これが果たして天皇陛下への“歓迎”とか“送迎”とか呼べるものだろうか?
当時子供心に思った事を、今でもそう思い出している。
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北木島の生活④北木島海水浴場ほか

2019年02月06日 | 昭和31年~35年
北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。
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楠は石の地区、
石船の人もおった。

(北木島・楠 2018.10.25)

楠のフグ養殖
(問)楠の北側の海にパイルが並んでいるが、あれは何?
楠のフグ養殖。
初代の村長が始めた。
ワシも夏休みにアルバイトで餌を蒔きにいきょうた。
金網で柵をして、フグのほんまもんがいっぱいおったんよ。
チヌもおったが、フグの毒素で死んでしもうた。
3年か4年かで止めた。

小学校の遠足
笠岡でサーカスがある時出て来たことがある。
他には・・・・、
弁当持って本土へ渡ったゆう記憶はないなあ。

(笠岡へ行くことは?)
歯医者じゃなあ。
内科と眼科は島にあった、歯医者だけはなかった。

小学校も中学校も弁当を持っていってない。
昼になると家に走って帰って食びょうた。

(先生は?)
学校の中へ寮があった、そこへ泊まりょうた。
(地元の)島からの先生は代用教員じゃった。


高校への通学
6時半の船に乗ったら8時前に(笠岡港へ)着きょうた。
船で通ようたが、何人かは寄宿しようた。
大浦の人は、笠高の人も、商業の人も、淳和の人も、工業の人も船で通うた。
工業の人は瀬戸の渡しで降りょうた。
豊浦と金風呂は通学船がなかった。
豊浦や金風呂からの女性は千草寮におった。


北木島の海水浴場

下浦
昭和35~36年からはじまった。
それまではなかった。大浦が(砂が無くなり)止めてから始まった。

水の浦
交通の便が悪いから人はいかない。道が無い。

大浦
流しびなのところ。
砂がなくなって、するもんがおらんようになった。
それで下浦にかわった。

楠(海水浴兼キャンプ場)
キャンプ中の人に悪さをする地元の人がいた。
それで廃れた。
それに加えて松林の松が枯れた。
両側が海で綺麗なところじゃったが。
いっときは岡山会館が国民宿舎を造るようた。
今だに土地をもっとる。

北木島の経木流し・臨海学校
府中の奥の上下の人が200~300人で海水浴に来ょうた。
経木流しをしながら。
学校の臨海学校も来ょうた。(白石でなく)大浦で。
天野屋とか、しまず、たまや、いせや、みなとや、・・おおかた10軒あった。
木造三階建てが二棟ならんどった。
金風呂や大浦にはなかったんじゃ。


土葬・火葬

30~40前、大雨で土砂が崩れ、(墓から)土左衛門が出て来た。
それから火葬しょうやあゆうことになった。
昭和47.8年か50年頃まで土葬じゃった。
それまでは、結核で死んだ人が縦(島)で火葬しょうた。



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