「瀬戸内諸島と海の道」山口徹編者 吉川弘文館2001年発行より転記する。
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石の島の盛衰
花崗岩地帯の瀬戸内海は、古くから石材の宝庫で会った。
近代に入っても、岡山市沖の犬島は明治期の大阪築港の石の供給地として栄えたし、国会議事堂は広島湾の倉橋島、徳山沖の黒髪島の石が使われた。
戦後に入っても、石材業は、瀬戸内の「石の島」にとって重要な収入源、雇用機会の場であった。
岡山県笠岡市沖の北木島も石の島である。
人口別では、農業1200人、石材業600人、水産業122人となっており、生産額では、鉱業1億2800万、農林業4200万、水産業300万で、石材業の比重の高さが知られる。
1960年代にはドリル・火薬・運搬重機が導入され、産出力は飛躍的に増大した。
折からの高度成長や列島改造ブームの中で需要も好調で「石の島」は活気づいた。
いかに大量の石が掘り出されたか、その跡が「石の島」にはっきりと残されている。
犬島では70mあった高台が1/3になり山の石は掘りつくされ、海面下20mの地下掘りとなった。
北木島では海面下75mまで掘りすすめられた。
しかし1970年代の後半になると中国などからの輸入石で状況は一変する。
安い輸入石に対抗できず、石切り場はつぎつぎと姿を消す。
北木島では最盛期127ヶ所あった丁場が6ヶ所になった。
いま、島は石の加工が主となった。
加工場は島内に60ヶ所あり、年間総生産額は200億円にのぼる。
その中で北木石は1割弱である。
加工工場を本土に移転する動きも出てくる。
輸入石はまず、福山・水島・神戸などに陸揚げされ、そこからトラック便である。
北木島へは笠岡港からフェリーでやってくるが、それならばと、笠岡湾を埋め立てた工業団地などへ移転したのである。
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石の島の盛衰
花崗岩地帯の瀬戸内海は、古くから石材の宝庫で会った。
近代に入っても、岡山市沖の犬島は明治期の大阪築港の石の供給地として栄えたし、国会議事堂は広島湾の倉橋島、徳山沖の黒髪島の石が使われた。
戦後に入っても、石材業は、瀬戸内の「石の島」にとって重要な収入源、雇用機会の場であった。
岡山県笠岡市沖の北木島も石の島である。
人口別では、農業1200人、石材業600人、水産業122人となっており、生産額では、鉱業1億2800万、農林業4200万、水産業300万で、石材業の比重の高さが知られる。
1960年代にはドリル・火薬・運搬重機が導入され、産出力は飛躍的に増大した。
折からの高度成長や列島改造ブームの中で需要も好調で「石の島」は活気づいた。
いかに大量の石が掘り出されたか、その跡が「石の島」にはっきりと残されている。
犬島では70mあった高台が1/3になり山の石は掘りつくされ、海面下20mの地下掘りとなった。
北木島では海面下75mまで掘りすすめられた。
しかし1970年代の後半になると中国などからの輸入石で状況は一変する。
安い輸入石に対抗できず、石切り場はつぎつぎと姿を消す。
北木島では最盛期127ヶ所あった丁場が6ヶ所になった。
いま、島は石の加工が主となった。
加工場は島内に60ヶ所あり、年間総生産額は200億円にのぼる。
その中で北木石は1割弱である。
加工工場を本土に移転する動きも出てくる。
輸入石はまず、福山・水島・神戸などに陸揚げされ、そこからトラック便である。
北木島へは笠岡港からフェリーでやってくるが、それならばと、笠岡湾を埋め立てた工業団地などへ移転したのである。