しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

石の北木島

2019年02月21日 | 暮らし
「瀬戸内諸島と海の道」山口徹編者 吉川弘文館2001年発行より転記する。

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石の島の盛衰

花崗岩地帯の瀬戸内海は、古くから石材の宝庫で会った。
近代に入っても、岡山市沖の犬島は明治期の大阪築港の石の供給地として栄えたし、国会議事堂は広島湾の倉橋島、徳山沖の黒髪島の石が使われた。
戦後に入っても、石材業は、瀬戸内の「石の島」にとって重要な収入源、雇用機会の場であった。

岡山県笠岡市沖の北木島も石の島である。
人口別では、農業1200人、石材業600人、水産業122人となっており、生産額では、鉱業1億2800万、農林業4200万、水産業300万で、石材業の比重の高さが知られる。

1960年代にはドリル・火薬・運搬重機が導入され、産出力は飛躍的に増大した。
折からの高度成長や列島改造ブームの中で需要も好調で「石の島」は活気づいた。
いかに大量の石が掘り出されたか、その跡が「石の島」にはっきりと残されている。
犬島では70mあった高台が1/3になり山の石は掘りつくされ、海面下20mの地下掘りとなった。
北木島では海面下75mまで掘りすすめられた。

しかし1970年代の後半になると中国などからの輸入石で状況は一変する。

安い輸入石に対抗できず、石切り場はつぎつぎと姿を消す。
北木島では最盛期127ヶ所あった丁場が6ヶ所になった。
いま、島は石の加工が主となった。
加工場は島内に60ヶ所あり、年間総生産額は200億円にのぼる。
その中で北木石は1割弱である。
加工工場を本土に移転する動きも出てくる。
輸入石はまず、福山・水島・神戸などに陸揚げされ、そこからトラック便である。
北木島へは笠岡港からフェリーでやってくるが、それならばと、笠岡湾を埋め立てた工業団地などへ移転したのである。

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真鍋島の花栽培

2019年02月21日 | 昭和31年~35年
笠岡市の広報などで、笠岡駅で真鍋島の花を売る昭和30年代前半の写真をよくみる。
しかし、実際に笠岡駅のプラットホームで花売り娘を見たという人には会ったことがない。

「瀬戸内諸島と海の道」山口徹編者 吉川弘文館2001年発行より転記

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花栽培の島

岡山県笠岡市の真鍋島は、昭和20年代後半、花の島として一躍有名になったことがある。
漁業の不振から畑作が注目され、1951年から県の指導で六戸の農家が花の栽培にのりだした。
阪神地方に出荷したところ、飛ぶように売れたことから、栽培地が増え、またたくまに全島にひろがった。
しかし、真鍋島の成功はほかの地域にもすぐに波及した。
香川県の塩飽諸島、荘内半島でも花つくりが盛んになり、手強い競争相手になったのである。
海上距離が長い分、真鍋島は競争上、不利な立場にあった。
それでも、需要の拡大に支えられて、瀬戸内の島々と互して花つくりを発展させていった。

能美島(現・江田島市)では、昭和20年代後半から花つくりが盛んになった。
のちに「三高の菊」として有名になる三高地区の菊つくりは、戦後の食糧難の時代にはじまった。
広島の市場で高値をよんだことから栽培農家は全島にひろがった。
1957年は生産過剰から値崩れをおこし、種類によってはただ同然となり、その後
農家の増加・生産過剰・価格の乱高下に悩まされながらも、生産は飛躍的に伸びていった。

戦後、瀬戸内海の一部の島ではじまった花栽培は、多くの島々に普及し、競争も熾烈になった。
とはいえ、
瀬戸内海内部の競争であるかぎりは、気候は同じ、地理的条件もさほどの違いはなかった。

ところが、1980年代末から沖縄からの空輸による花が大阪や福岡を経由して広島の市場にはいってくるようになる。
彼岸の菊は、能美島ではハウスで暖房して栽培するが、沖縄では露地栽培である。
軍配は沖縄にあがった。


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後月郡芳井町の或る山村の生活

2019年02月21日 | 暮らし
義母(昭和5年12月生まれ)の話し 談・2019年2月17日

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皇紀2600年の祝い(尋常4年・分校)
記憶にない。

青年学校
国民学校と同じ敷地にあった。

国民学校の校庭
校庭に芋を植えていた。

実業学校
実業2年(昭和19年)の時、山を開墾した。
出征兵士の家に稲刈りの手伝いに行った。

毎朝の奉安殿への記憶
奉安殿があったことすら記憶にない。

終戦(実業3年)で学校が何が一番変わったか? 
急に英語がはいった。英語の塾に行く人もいたほど。
珠算が増えた。

とりこ・とりよめ
幼児で養子をし、成人して結婚するのが多いが
ウチでは結婚と同時にとりこ・とりよめで家にはいった。

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