なぜ無謀な策が誕生したのか?どうして止められなかったのか?
雑誌「歴史人」 2022年6月号
沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと
「悠久の大義」
昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊はレイテ島沖で5空母に大きな被害を与えた。
特攻隊員との約束通りに、ただちに天皇陛下に報告された。
天皇はびっくりしつつも、
「かくまでやらせねばならぬということは、まことに遺憾であるが、
しかしながら、
よくやった」と言った。
指揮官の大西瀧治郎中将としては、
「もうやめよ」という言葉を期待していたようだが、「よくやった」といわれたら、
体当たり特攻をやめるわけにはいかなくなった。
特攻はその後、普通の攻撃法となっていくのである。
・・
戦争は殺し合いだが、運がなくて戦死することと、最初から死ぬために出撃することは違う。
爆弾を命中させたら生還してよいか質問した隊員を「まかりならん」と叱るようになり、
帰ってきた特攻隊員は何回も出撃させるようになった。
・・
当時の軍人は天皇のために命を投げ出すことこそ名誉であると、厳しく教育されていた。
成算のない出撃でも、それは永遠に続く天皇への忠義の証となると、信じるように仕向ける教育を行った。
天皇への忠義が足りないと非難されるほど、不名誉であり、屈辱的なことはなかった。
我が身を滅ぼそうとも、結果は悠久の大義に生きることになる、と信じて生きてきた。
このような教育は、付け焼刃では隊員も納得しなかっただろう。
長い期間をかけて、教育勅語や軍人勅語を、暴力と共に浸透させた結果だったのである。
10代の少年が特攻隊員に養成された
歩兵ならちょっとした訓練を行うだけでも戦場に投入できるが、
パイロットとなるとそう簡単ではない。
そこで、中学4~5年生を相手に募集し始めた。
(15歳で予科練に入営したおじ=母の末弟)
それが甲種予科練だ。
太平洋戦争が不利になってくると大増員した。
さらに小学校高等科を対象とした制度も新設され、募集も行われた(乙種予科練)。
・・
昭和20年4月6~7日、特攻機300機が出撃
このうち、24機が体当たりした。
大半は駆逐艦で10隻を数えた、うち3隻は沈没。
この特攻と合わせるように戦艦「大和」が軽巡1,駆逐艦8隻を引き連れて出撃した。
昭和20年3~4日、201機出撃
海軍136機、陸軍65機が出撃。
昭和20年5月11日の特攻で正規空母「バンカー・ヒル」へ2機が体当たりして、大損害を与えた。
6月22日まで行われたが、
最期は飛行機も足りなくなった。そこで海軍機上作業練習機「白菊」まで動員して出撃した。
さらに「赤とんぼ」と呼ばれた練習機まで動員して出撃させた。
人権無視の時代とはいえ、
日本軍が人間の命をいかに粗末にしていたか、それを思うと愕然とする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「伏龍特攻隊」
軍国少年
城山三郎「生き残った者の苦しみ」 毎日新聞 2022年6月9日
「軍国少年でした」と作家、城山三郎は戦時中の自らを振り返った。
2005年夏、記者がインタビューした時のことだ。
大日本帝国は日清戦争、日露戦争、第一次政界大戦と対外戦争を繰り返し、いずれも勝利した。
「一等国」に向かう坂を上っていった。
大戦後は中国侵略を続け、満州事変を起こし、日中戦争も始まった。
その中国からの撤兵を巡りアメリカと対立し、41年12月開戦となった。
「軍国少年」は必然
日本は悪くない。
大東亜に新しい秩序を作ろうとしている。
悪いのは中国でありアメリカ、イギリスだ。
それが日本政府の一貫した主張であり、教育現場でも繰り返された。
新聞もその主張に沿う報道をした。
多数の「軍国少年」「軍国少女」が誕生するのは必然だった。
その一人として、城山少年は志願して海軍に入った。
特攻は大西瀧治郎中将が「統率の外道」と断じたように、本来はやってはならない作戦だった。
しかし、期待したほどの戦果は上がらなくなった。
それでも、特攻は終わらないどころか拡大していった。
「二度と戦争をしてはならない。
そのためには体験した人間が伝えておかないと。
それが若くして死んだ人たちの鎮魂にもなるはずです」
城山はそう話していた。
・・・・・・・・・・・・・・