しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

農民の食べもの、お殿様のご飯

2022年06月07日 | 食べもの

農村では、腹いっぱいに食えるようになったのは昭和35年(1960)前後のように思う。
それまでは腹に通ればなんでもよかった。
江戸時代の農民が食べたものと、たいして変わらないような気がする。

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農民の食べもの

 

農民たちは土地にしばりつけられ、生産した米の半分以上は、年貢として藩へおさめ、残った米はほとんど換金や物々交換のために用いた。

したがって平常は麦と雑穀が主食であった。
『盆がきたなら、麦に米混ぜて、それにささげをぱらぱらと』という歌のように、
ひきわり麦やよまし麦の麦飯を食べていた。
副食物は香の物・にぼし・もろみ・大根・豆等の他、自家製の野菜であった。

魚は干物・塩魚がおもで”ブエンモノ”とよばれる鮮魚は村祭りの食膳にのぼるくらいであった。
川魚や貝類では、川や池のふな・どじょう・しじみ・からす貝などが食用になった。
牛は百姓の宝であるというので、牛肉は食べなかった。
猪肉はヤマクジラとよばれ、鳥肉とともにご馳走だった。

うどん・そば・赤飯・餅などはハレの食物で、特別の日のご馳走としてつくられた。
そのほか、飢饉にそなえて
梅干・味噌・カンコロ・カイモチ・キリボシ・タカキビモチ・ずいきなどが保存されたが、これらは季節の保存食であり、平常でも副食物として欠かせないものであった。

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

 

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お殿様のご飯

 

幕末の浅野家の例では、42万石でも
朝食は焼豆腐に味噌、
昼食と夜食は一汁二菜で、
大名自身の好みは加味されていない。
献立表は前日に裁可しておくが、
うまいもまずいもいってはいられなかったという。
食味をする台所奉行と毒見をする近習の手前、
何のかんのとはいってはいられなかったというから
殿様の方で気遣いしていたことになる。
飯は一ぜんですませてから吸物を小姓にかえさせる。
食べ残しもできない。
調理した者の責任となるからである。



「翁草」によると、
病中の白河侯は木綿の布団に寝ており、
召使いと見まちがえたほどの夫人が、生味噌を茶碗にいれてお菜に出したという。

「百草」には、
因州の隠居松平冠山は
「御食物、客をもてなし給ふも至って粗末なる味噌汁、平器位の御料理なり」とある。

一橋慶喜の幼少時は、
「毎日三度の食膳も、一汁一菜の蔬菜、玄米にて、膳に魚肉を供するは月に三箇日に限られたり」とある。


なかには鰯を焼いて味噌汁ですませていた大名もあった。

 

「絢爛たる武家文化」 岡本良一  講談社 昭和56年発行

 

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農民の生活


農民の服装は、フダン着もヨソユキもすべて木綿であった。
綿を栽培して、夜間や農閑期を利用して、糸車を回して糸をつむぎ、
木綿糸を紺屋に持参して染めてもらい、それを機で織って使用したが、
縞やかすり模様に織り上げるようになったのは江戸時代の末期ごろからである。
仕事をするとき、男はモモヒキにハッピ、
女はたすきがけに前垂れ姿で、キャハン・手甲などつけていた。
そして手製のアシナカをはいた。

農民は朝は暗いうちに起き、夜業に藁仕事をして、一日中仕事をしても、反当収量は2石にみたず、
その米の中から、多くの年貢をおさめるのである。
その身の不心得による借財のためか、
長患いの結果か、
または癩病(らいびょう)にかかったのか、
村々を流浪する乞食の数は相当なものであった。
また百姓のなかで夫役を免除されたものは、
ちんば・眼疾・癩病・盲などで、
かれらは自然治癒をまつか、薬草にたよる以外に方法がなかった。
そのため占者・祈祷師などがはびこり迷信が流行した。

 

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

 

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犬養木堂⑥5.15事件後の国政

2022年06月07日 | 昭和元年~10年

(岡山市吉備津)

 

木堂翁が亡くなって、軍国主義は歯止めが効かなくなった面がある一方
木堂翁が軍人に阿て政権を取ったので、事件はその付けが回った要因も大きい。

清廉潔白な政治家で、多くの人々に慕われたのは間違いない。

 

”無私”

(笠岡市今井公民館)

 

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「日本の歴史20」  岩波書店 1976年発行

斎藤内閣が成立し、この頃から「非常時」という言葉が一般化した。
はじめは平時と戦時の中間とか、満州に戦時状態が存続する間とかの意味に用いられ、のちしだいにエスカレートしてゆく。
概して軍部が、軍備を拡張するため、危機意識を高揚する必要上、ことさら喧伝したとみるべく、挙国一致内閣の出現を合理化し、
軍部に軍拡とその予算先取権の口実を与え、インフレ財政を余儀なくさせ、
無謀な「自主外交」を賛美し、
侵略をも「暴支膺懲」の名の下に美化するにいたった。

荒木陸相は皇国・皇軍・皇道をふりまわす精神家であるが、政治的才幹には乏しく、
「大和民族の満蒙支配たることは之を否むること能はさるなり」と述べている。
米ソに対し、万一の時は武力戦も辞せず、ときには連盟脱退もありうる、とした。

組閣直後、関東軍司令官より強硬な働きかけがあり、政党がこれに迎合した。
満場一致で「満州国」承認決議が可決された。
東京市民は祝賀会を開き、旗行列、提灯行列がくり出された。
リットン調査団の報告書提出の半月前であったことは、明らかに連盟に対する挑戦であった。

10月2日、リットン報告書が公表された。
融和的であったが、
翌3日の新聞は、
「全編随所に日本の容認しえざる記述」と評し、この頃「アジア・モンロー主義」がさかんに唱えられ、排外主義は高揚された。
世論は急速に軍部の希望する方向に傾斜していった。

内務省に国民更生運動中央委員会ができ、
言論機関や在郷軍人会・青年団を利用し愛国心高揚にのり出した。

昭和8年(1933)3月、ついに国連を脱退した。
日本は国際的孤立に陥り、軍部は総力戦体制を急いだ。
左翼運動の弾圧、皇国イデオロギーや軍国主義を高揚する行事が広汎に開催された。
脱退後、日本の最も恐れた連盟の経済制裁がなかったことは、
断固として所信を貫徹すれば連盟恐るるに足らずという観念を生ぜしめた。

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木堂翁の銅像出陣

2022年06月07日 | 昭和16年~19年
 
「目でみる岡山の昭和」 蓬郷巌 日本文教出版 昭和62年発行
 
金属類の非常回収
 
昭和18年5月からは徹底的な非常回収が行われ、小さな物では鉄瓶、文鎮、金ボタンも供出が要請された。
岡山県から供出された主なものは次の通り。
警鐘台約1.200基
銅像130基
金属仏像25体
梵鐘は数量不明。
 
 
『木堂翁の銅像出陣
 
一切をあげて敵米英に勝たんと迎えた19年の初めをかざり、
吉備郡真金町吉備津神社神苑、岡山県が誇る憲政の偉人元首相木堂犬養毅氏の銅像もいよいよ敵撃滅の決戦へ応召することに決定した。
この銅像は木堂顕彰会が彫塑会の泰斗朝倉文夫氏に依頼、昭和9年同所に建設し、そのまま吉備津神社へ寄付したものである。
米英の野望をくじかんとアジアの一大防砦を唱えた先覚者もいよいよ巨弾となり敵米英に出陣することになったわけだ。
 
「いやこれが犬養さんの心です。
この日の来ることを一日も早くと犬養さんは地下で願っていた違ひありません。
真金町の名物がまた一つ減ったわけですが、これを手本に一般の金属回収もぐんとすすむでせうし、わしたち老人も犬養さんに負けずに頑張らにゃあなりません」
と浜野真金町長は固く拳を握りしめてゐた。
 
 
 
(岡山市吉備津の銅像。
昭和9年建立。
昭和19年供出。
昭和28年再建)
 
 
 
なほ犬養さんの銅像と同時に応召する吉備郡内の銅像は次の三件である。
龍馬、○○大師、○○大菩薩。』
※○○は印刷荒く読めず。管理人。
 
 
 
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