しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

お城の石垣

2022年06月06日 | 江戸~明治

 


石材と大坂城

秀吉は、天下統一のため天正11年に、海陸交通の便利な大坂の地に居城を築こうと考えて大坂城の築城に着手した。
秀吉は、まず西国30余国の大名に命じて、大きな石を運搬させようとしたので、
日夜3万の人夫が使役されたと伝えられる。

「大坂城誌」には、「普請の石材は御影・加茂・小豆島より殊に数多く取り寄せた」とある。
天守閣や大手門の大石は小豆郡土庄町小瀬より採掘し、運んだものである。
この採掘にあたり加藤清正・片桐且元・黒田孝高らが砕石奉行として来島した。
大筏を組み、これを載せて大坂に運んだ。
これらの石材を採ったあとの残石は、現在でも海岸近くの山中や、海辺に累々と横たわっていて、当時の壮観をしのぶことができる。


当時、採石を運搬するには、大木のロクロをすえ、そのうえに採石をのせ、海岸に引きだしたという。

 

(岡山市・石山公園)

 

採石を大坂表へ運搬する仕事には、小豆島・塩飽島などの水夫が従事したことが記録にある。
船に積みあげられぬ巨石は、竹の筏にしばり、樽受けとしたり、あるいは二艘の舟を横木につらねて、その中間から水中につりさげて運んだという話がのこっている。

 

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

 

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城の歴史

安土桃山時代から江戸初期にわたる数十年間が城つくりの最盛期で、大小3.000の城がつくられた。
しかし、元和一国一城令が出され、約140に整理された。
江戸時代に戦の場となったのは原城、会津若松城および五稜郭だけである。
明治6年、いわゆる廃城令で約1/3が取り壊された。
残された城の多くは軍用施設として使用されていたため、太平洋戦争のさなかに空襲により焼失した。

 

石垣の石材

曲輪(郭)造成の際に掘削した岩盤を石材として利用した。姫路城、盛岡城、竹田(岡)城。
遠方からも運ばれてきた。大坂城では小豆島石(花崗岩)が船で運ばれてきたことは有名で、小豆島などには石が残されていて大坂城残石記念公園となっている。
寛永年間に再築された大坂城は、伏見城の廃石や六甲、小豆島、前島(牛窓沖)北木島から船で運ばれた花崗岩である。
近くに花崗岩のない江戸城は大部分伊豆半島に産する安山岩である。
船の場合は遠方からも運ばれたが、陸上での運搬の場合は、大部分が10キロ以内の距離から運ばれた。

岡山城、福山城、岩国城の石垣は花崗岩である。
高松城には庵治石が使われた。
丸亀城は本島石で築いた。

(福山城は笠岡諸島の白石島などから運ばれた)

 


石積


多層の天守閣を支える基礎の石垣は大きな荷重に耐えなければならない。
そのため石材の質と、積み方が問題になる。

 

(切込ハギ、布積、の江戸城天守台)


空襲で焼失した名古屋城の復旧の際には、石垣がその荷重に耐えられないので、ケーソンを埋め込んで支持基盤にした。
安土桃山時代までは野面積が主で、慶長年間には打込みハギ、江戸時代に入ってからは切込みハギが多くなった。
しかしこれは一般的な流れで、一つの城でもすべて同じ石積とは限らない。
石垣はまず胴木を並べ、そのうえに根石を置き、その上に石を積み重ねる。
外側は各種の石積となっているが、内側は割栗石で裏込めされ、さらに内側に土砂が詰められ、土となじませている。

 

「日本の石文化」  島津光夫  新人物往来社  2007年発行

 

 

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金毘羅大権現は金刀比羅宮になった

2022年06月06日 | 江戸~明治

(金刀比羅宮=旧称・金毘羅大権現)

 

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

明治元年、新政府は神仏混淆を禁止した。
以後、廃仏毀釈の運動が全国におこるようになった。

仲多度郡琴平の金毘羅大権現は金比羅宮と改められ、
別当寺の金光院松尾寺の、その末寺とともに廃寺となった。
金光院住職の名を改め社務職となり、社地を管理した。
そして祭神を大物主神とし、すべての境内の仏式を廃し、
神社として再出発した。

 

白峯寺も危うく廃寺となるところであった。

 

(白峯寺)

 


神道もさかんになり、教派神道では天理教・金光教・黒住教・大社教などがさかえた。
外国公使の強い抗議があり、明治6年政府は信教の自由を認めた。

 

 

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