しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

三郎島の話

2023年03月06日 | 暮らし

三郎島の峠で、農夫の方がひと休みしていた。
三郎島の話を聞いた。

日時・2023年3月3日 浅口市寄島町三郎

 


・・・・

イノシシはまだおらんけど、タヌキがいる。
タヌキは何でも食べる。
芋もダイコンも食べられてしまう。

イノシシは柵を飛び越えるが、タヌキは柵の下をとおてくる。
(防護柵が別ということと、島の畑にその費用はあわない)

仕事は朝する、
誰ぁれも昼からはしない。
そしたら、それを知っとる外国人が一人でなく集団で来てミカンを盗ってしまう。
見つけた人が言うと、
「オカネナラ ハラウヨ」と言う。
何んも悪いことをしょうると思うておらん。
人がおってもなめとるなあ。

ここらは山じゃあなく、全部畑だった。
しだいに畑をせんようになって
あの桜のまわりも手入れがまわらんようになってきている。

 

通学船(学校船)


ワシが小学生の頃は、干たら歩いて行きょうた。
学校船ようた。
台風の時はよかった、学校が休みで。ハッハッハ(笑)
三郎の人は全員、
小学校から高校生まで、集まって船で行っていた。
行くときは全員じゃが、帰りはそうでもなかった。
干た道はクルマエビがぼっけいおって面白かった。
潮は日がわかっとるので、船と徒歩は決まっていた。

大人はみんな船を持っていたので、
自分の船で(本土に)行っとった。
便乗させてもらったり、用事を頼んだり、頼まれたりもしとった。

夏やこはえかったが、冬のさびい時にゃあ雪が舞うことが(今よりは)多かった。

 

・・・・

 

 

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山唄・柴刈り唄

2023年03月06日 | 民謡

桃太郎さんのお話で有名な、
”おじいさんは山へ柴刈りに・・・”

子どもの頃は、よく山へ行った。
松葉集め・やくべ木集め・柴刈り、その三つの記憶が混在して区別できない。
薪にしたのか肥料にしたのか牛のエサだったのかも、遠い昔となってよくわからない。

 

 

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

山唄・柴刈り唄

 

秋の彼岸になると柴刈りが始まる。

柴は牛の厩に入れられて敷き草にされ、それが厩肥になる。

また

堆肥にされたり、

そのまま切って田に入れて肥料になる。

金肥は魚肥か菜種粕ぐらいでわずかなものであり、

肥料の中心は柴(堆肥・厩肥)と人糞尿・灰であった。

 

反当り200肥は入れた方がよいとされ、五反百姓では少なくとも、

延べ20日間の柴刈りをしなければならない。

柴刈りは朝から晩までの仕事なので弁当持ちで行き、

鎌はすぐに切れなくなるので、その場で腰につり下げた砥石でとぐ。

水は無いので唾が水の代用をする。

芳井町

ヤーレー

鳥も通わぬヨー 山里なればヨー

住めば都じゃヨー のや殿ごヨー

ソリャヨイヨイ

歌え歌えとヨー せきたてられてヨー

歌は出はせぬヨー 汗が出るヨー

 

・・・


「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行


柴刈り歌


〇どうせなるなら 一夜も早く
心がわりのないうちに
〇娘島田にちょうちょがとまる 
とまりそうなものよ 花じゃもの

平川地方では早朝山に柴刈りに出かけ、
朝食の頃帰宅する。
終戦後暫くは続いていた。
旧暦六月朔日から八朔までが柴刈り時期である。
日中でも出向いていた。


・・・


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

肥料
かつては、柴草も大切な肥料で、
早朝の露のある間に刈り取り、束ねてかついで帰ったり、カゴやネコ車で運んで帰った。
これらの柴草は牛に食べさせたり、
ウシヤに入れてアラゴエに踏ませ、
あるいはオシギリで切って直接田畑に振り込むこともあった。

・・・・

 

「矢掛町史民俗編」  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

ヒタキシバ(シバクサともいう)


ヒタキシバは、単にヒタキとかシバという。
辻山や持山、アゼなどで刈った草で、
アラゴエとともにたいせつな肥料となり、
草刈り後のハエゴエ(フリゴエ)などに使った。
辻山の草刈についての細かいきまりは少ない。
一般に、田草上がりから秋の彼岸か稲刈り前ごろまで刈に行く。
トギレオーコで四把から六把ぐらい担いで帰るのが普通である。

 

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