”皇国の処女””良妻賢母”など、高等女学校の指針は片ぐるしさを感じるが、
進学を前提としない学校生活は、自由な勉強や青春があったようにも思える。
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「女学校と女学生」 稲垣恭子 中公文庫 2007年発行
高等女学校
高等女学校は、1899(明治32)年の高等女学校令によって、
男子の旧制中学校に対応する形で、「女子須要(しゅよう)ナル高等普通教育」を行なう中等教育機関として制度化された学校である。
「国語」や「外国語」、「歴史」「数学」などの一般教育科目に「家事」「裁縫」等女子特有の科目を加えたカリキュラムが設定され、
女学生はそこで尋常小学校を卒業してから三~五年の間を過ごしたのである。
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1899(明治32)年には、女子の尋常小学校への就学率がまだ60パーセントほどであったが、
高等女学校令によって各道府県に最低一校の高等女学校の設置が義務づけられてからは、高等女学校への進学も大きく増加していくことになった。
尋常小学校を卒業してから進学する経路としては、高等女学校以外にも女子師範学校や実業学校などがあった。
しかし、中でも女子の一般普通教育を目的とした高等女学校は人気を集め、
とくに大正~昭和期にかけては学校数、生徒数ともに大きく拡大していった。
1910(明治43)年に高等女学校令が改正され、
翌11年以降、「裁縫」や「家事」など家政に関する科目を多く配置した実科高等女学校が設置された。
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1905 (明治38)年にはまだ5パーセントにも満たなかった高等女学校への進学率が、
女子の尋常小学校就学率がほぼ100パーセントになる1910年あたりから徐々に高まり、
1920(大正9)年には9パーセント、1925(大正14)年には15パーセント近くまで上昇し、ほぼマス段階に入っている。
学校数、生徒数の変化で見ても、1910年には193校であった高等女学校数が、1920年には二倍近くに増加し、
在籍する生徒数も1910年から1925年までに五倍近くまで膨れたが、
それは高等女学校に在籍する生徒数が同時期の男子の中学校在籍者数を上回るほどの勢いだったのである。
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一方、高等女学校を卒業した後にさらに進学する女子高等師範学校や女子専門学校も明治末から大正にかけて創設されていったが、
実際にこれらの高等教育機関に進学したのは、戦前期を通して一パーセントに満たないものであった。
その意味では、女子にとっての実質的最終教育機関は、高等女学校だったということができるだろう。
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国語
「国語」は、「家事」「裁縫」と並んで最も多くの時間数を占めていた中心的な科目であったが、 女学生が最も好きな科目も「国語」であった。
先の調査でも、女学校時代に好きだった科目として「国語」を挙げた人は、全体の約五二パーセントとだった。
裁縫嫌い
「国語」が女学生に人気があったのとは対照的に、女学校教育を支えるもうひとつの重要な柱である「裁縫」の方は、それほど好かれてはいなかった。
先の山本の調査でも、 「裁縫」が嫌いな生徒は学年が上がるごとに増えていき、四年生では「理科」「数学」に次いで三番目に嫌いな科目に挙げられている。
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実科高等女学校
各地方につくられていった実科高等女学校のカリキュラムは、「裁縫」を中心に構成され、1911 (明治44)年当初 実科高等女学校における「裁縫」の授業時数は14~18時間と、
高等女学校のほぼ四倍近く設定され、実科高等女学校の全授業時数の40~50パーセントを占めていた。
しかし、全国で188校の実科高等女学校が設置されていた1919(大正8)年には、
全国高等女学校長会議で実科高等女学校廃止が決議され、その後もたびたび実科廃止論議論されたのちに、
1943 (昭和18)年に実科の名称は廃止され、高等女学校として一本化されることになったのである。
その背景には、高等女学校の教育をめぐる「実用」と「教育 」の問題や、さらに女学校の序列化や階層性の問題が存在していた。
実科女学校のほとんどは、高等女学校に改組されているという。
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女学生文化の広がりとサブカルチャー化
このような「女学生文化」が地方の女学校も含めて一般化し大衆化していくのは、女学校が拡大していく1920~30年代あたりからである。
高等女学校の大衆化は、女学生に制度化された「思春期」を提供したが、その中で女学生たちは、
受験や進学準備に結びついた男子の学生・生徒文化とは違った独特の「女学生文化」を形成していった。
彼女たちの多くは、進学準備の受験勉強をする必要がなかったために、それとは直接結びつかない読書や稽日事などにも関心を広げていった。
新中間層の文化的嗜好や教養と対応する折衷的な文化は女学生文化」の特徴でもあったが、
この時期にはさらに、少女雑誌などのメディアを中心とする大衆モダン文化を混ぜ合わせた独特の「女学生文化」が創られていったのである。
ところで、このような「女学生文化」や「女学生」に対しまざまな批判や揶揄もあった。
よく知られているように、女学校の教育の正当性を保持する 重要な根拠になっていたのは、いわゆる「良妻賢母主義」であった。
高等女学校令において高等女学校の教育目的は、「女子=須要ナル高等普通教育ヲ為ス」とされていたが、
それは 「高等女学校の教育は)賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ。」というように、
良妻賢母主義をその柱として明確に位置づけたものであった。
それにともなってカリキュラムや授業時数についても、
男子の旧制中学校と比べると、「家事」、「裁縫」といった女子のみの学科が新設され、
「修身」や「音楽」の時数が多く設定される代わりに、「外国語」や「数学」、「理科」などの時数は少なくなっている。
高等女学校の教育の目的は、家庭婦人としてふさわしい知識や技能、態度の養成であることが明示されたのである。
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「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
高等女学校
女学校というからには、当然、女子のみの入学する学校であろう。
ごくあたりまえのことだが、一方に女学校が 存在するなら、他方に男子のみを入学させる男学校が設立されていなければならない。
つまり、女学校の存在は、性に対応して、教育が分離していることを象徴的に示す現象である。
性に対応した教育の分離が、なぜ要請されたのか、つまり、性差観についての歴史的な流れに関連させて、考察する必要があろう。
女子教育の場合、第二次大戦前と以後とでは、断絶とでもいうべき格差が存在する。
わが国の場合、戦前と戦後の対比は、あまりにも著し い。
ということは、日本の近代は、明治から始まるのが定説だが、
少なくとも、女子教育にとっては、第二次大戦後
〝近代〟の幕が切っておろされたのかもしれない。
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「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行
昭和3年県立移管、
学園生活はますます活況を呈し、その豊かさを加えていった。
生徒はその薫陶の下に婦徳を涵養し、学業に励んだ。
卒業後上級学校へ進むものも漸次増加して来た。
しかもこの学園生活の中で大きな役割を果したものに千鳥会の活動があった。
千鳥会の年間行事として主要なものに、文芸会体育会・臨海学校等があった。
文芸会は昭和3年より3月6日の地久節(ちきゅうせつ=皇后誕生日)に行われるのが例となった。
体育会は10月下旬か11月上旬に行われるのを例とし文芸会とともに毎年多数の参観者を集めた。
臨海学校も回を重ねたが、不況に見舞われたため、昭和5年以降中止となった。
8年復活し、以後戦時体制に入った頃までつづけられた。
学校行事として昭和2年より毎年7月早縫いを競う裁縫競技会が行われ、第35回創立記念式のあった11年には全校生徒の競技会が開かれた。
千鳥会の活動の中で最も関心をもたれたものに運動部の対外試合があり、
昭和10年(1935)頃までは庭球が大いに活躍した時代で、排球もまた成長をつづけ後年その飛躍時代を迎えた。
昭和11年(1936)以後は学校長の方針を反映して庭球排球両部が目覚しい活躍をつづけたほか、
卓球部や新たに登場した籠球部 陸上競技部等も活発となり、スポーツ熱は全校にみなぎった。
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母の生年月日から逆算すると、
母が井原高女へ通学していたのは昭和8年4月入学、
昭和13年3月卒業ということになる。
母の3学年上の人、(2年間学校が重なっている人)の手記
「創立100周年記念誌 萩の道」 井原高校 2004年発行
不況、中途退学者多く 昭和10年卒
昭和5年4月、晴れの女学生になったの者は102名くらいだった思います。
私達の在学中の昭和5年から10年は社会が大変な経済不況の時でございまして、
春・夏・冬の休暇明けに登校してみますと、3人とか5人とか退学届けを出されて櫛の歯がかけるように生徒数が少なくなり、卒業の時は65人になった事でございます。
昭和7年の5・15事件の時は3年生の時でしたが、
若い歴史の先生より、
血気にはやった青年将校の事を昭和維新の如くの熱弁を聞いて、
うら若き乙女心にこの事件を美しい快挙と印象づけられて、
日本軍国主義への道をスンナリと抵抗なく入って行ったような気がします。
また人見絹枝女史が女学校校庭に来て走られました。
私達も後をついて走りましたが、その韋駄天にはとてもついていけなかったことを憶えています。
1年生から5年生までが一斉にする早縫い競争と常用漢字を書く大会がありました。
1年生は一ツ身、2年生と3年生は三ツ身か四ツ身、5年生は本縫というように講堂と教室に集まって、同時に縫い始めて早く奇麗に仕上げる競争です。
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母の1学年上の人の手記
私の故郷 井原高校
私は昭和7年4月井原高等女学校へ入学、昭和12年3月に卒業させていただきました。
2年生の頃から新校舎の建設が実現できることになり、
私たち生徒も校地の整地、清掃作業に度々でかけ鍬をふるい木切れも運んだりしました。
新校舎へ移ってからは、机・椅子・柱・ガラス磨き、
校庭の芝生・庭木の植付け・花壇の造成、運動場に砂場・テニスコート等を作る等心を込めて作業に励みました。昭和12年卒
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母より2学年後輩の人の手記
師弟一丸の校地美化
入学して間もなく学校は移転することになった。
井原小学校の所の古い校舎より舞鶴山麓の現在地まで蟻の行列のように机等を運んだ。
移転はしても校内は整備されておらず、私たちは毎日のように河原へ砂利を拾いに行き、各自袋に入れて背負って持ち帰った。
運動場の土手に蔓バラが植えられ、校門脇には萩が植えられた。
たわわに咲く萩の花は井原高女の象徴とさえ思った。
入学して満州の国歌を習い愛国行進曲を習い、
勉強の合間に慰問袋を作って戦地に送ったり、
兵隊が着る毛皮の縫合作業を行ったり、
農家へ勤労奉仕の稲刈りに出掛けたり、在学中の奉仕作業は次第に外へ向けられていった。
(昭和15年卒)
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「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行
昭和16年春入学生
さて当時の女学生は、井原小学校同年女子70数名中、20名程度しか入学出来ないエリートであった。
教職員の質は高く、大学へ栄転される先生もあった。
礼儀や躾が厳しく、上級生は先生と同じくらい怖がられていた。
学校行事では、厳粛な四大節、
中でも皇后陛下の誕生日を寿ぐ優雅で気品溢れる地久節
全校生徒一斉参加の「書取」「速縫」競技
一糸乱れぬダンスに観衆を魅了した運動会など、
懐かしくも さわやかな想い出の一こまである。
このような学園生活は次第に戦時色濃厚となり、
4年生の夏から動員されていた軍需工場で、終戦まで働いた。
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