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(笠岡市立大井小学校100周年記念誌)
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奉安殿
「尋常小学校ものがたり」 竹内途夫 福武書店 1991年発行
白砂青松の中の奉安殿
天皇陛下と皇后陛下の御真影を奉安する建物を、奉安殿と呼んでいた。
運動場の東側に隣接した水田を埋めたてた敷地に、建坪三坪ぐらいの鉄筋コンクリート造りで建てられ、その頃では珍しかった手動式の鉄のレャッターがついたモダンなものだった。
この奉安殿は村の部落の酒造家が、千円という大金を投じて建立寄贈したものと聞かされていた。
敷地は、周囲に土塁を巡らし、土塁の上には榊に似た木の生垣が設けてあった。
内庭には石英の白砂が一面に敷き詰められ、植え込みの黒松の翠がこれに映えて、運動場の賑わいをよそに、森厳幽寂とまではいかなくても、いかに神々しい別世界を作っていた。
ふだんはこの聖域に立ち入ることはできなかった。
月に 二、三回、高学年の女の子が身を清め心を正して清掃に奉仕したが、作業はすべて厳冬を除いて素足で行なわれ、無駄口を聞くことはできなかった。
なぜ女の子だけが当番になったのか。
たぶん神に仕える神子の例に倣ったものであろう。
運動場で遊んでいる子が、あやまってボールをこの聖域に飛ばすことがよくあったが、そういう時は担任か週番の教師に願い出て、正面の鉄の扉を開いて取ってもらうのである 。
朝夕の登下校の度に、この奉安殿の前では一旦停止、正面を向いて不動の姿勢をとり、そしておもむろに三秒間の最敬礼をして通り過ぎた。
やはりその頃は、天皇は現人神だった。
敗戦とともに、奉安殿は解体された。
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非常時日本の教育
国のため、大君のため
昭和6年(1931) 9月に満州事変が勃発してからは、学校教育も、それまでの国家主義的傾向がますます強まって、忠君愛国の軍国主義教育がより鮮明になってきた。
校長以下全教師全児童が支那軍の暴虐を憎み、断固膺懲の鉄槌を下すべしと力んだ。
暑ければ、炎熱地を焦がす満州の将兵の苦闘を偲んで耐え、寒ければ酷寒零下30度の満州の広野に戦う兵士の辛苦思って耐え抜いた子供たちであった。
天皇や国家に対する意識の高揚も、この事変を機にますます盛んになった。
何事につけても国のため、大君の御ためが罷り通った。
学校の諸行事に日の丸と君が代はつきものだったが、
これに皇居の遥拝と、皇軍将兵に感謝の黙が加わり、最後は必ず「大日本帝国万歳」が三唱された。
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修身の授業と内容
最もおもしろくなかった授業
修身は、児童の徳性を涵養し、道徳の実践を指導する教科で、教育勅語の趣旨に基づき、国民精神の涵養や、国民道徳 の実践普及を目的としていた。
この目的に応じ、古今東西の聖人偉人の言行を中心とした例話や訓辞、格言などが教材となった。
この修身の基本精神は、いうまでもなく忠君愛国の思想であって、
天皇と国家にとってよりよき国民になるためのものとされた。
したがって、いかに国のため、大君の御ためになるかが、道徳的価値観の基準になった。
だから子供たちは、こういう行いは国のためになるだろうか、こういう行為は大君に対し奉り不忠になるのではないかと常に考え、反省を求められたものである。
それにしても、このくらいおもしろくない勉強はなかった。
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(昭和8年「修身」の時間)
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「ビジュアル版 学校の歴史」 岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行
興亜室
1931(昭和6)年に満州事変がおき日中戦争に入る頃から、各小学校には「日の丸教室」という教室が置かれるようになりました。
室内には大きな 「国旗」 が掲げられ、「支那」 (中国を侮辱した言い方) の地図と占領した場所には 「日の丸」
が掲げられていました。そのほか神話掛け図も飾られていました。
日中戦争が拡大すると地域から出征した兵士からの「戦利品」が飾られ、中国の子どもたちが書いたという作品 (写真) も展示されました。
1941(昭和16)年に国民学校に変わる頃からこの教室は「興亜室」と呼ばれるようになりました。
地図も東南アジア全体のものとなり、南方の島の「ヤシの実」やジャワ、ボルネオ島の民芸品も飾られました。
また、戦死した人の鉄兜や血染めの腹巻きなども展示され、
「国のために命を捨てるほまれ」を教える場となっていました。 (渡辺)
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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
(大正元年~昭和10年)
尋常小学校・高等小学校
義務教育修了者の高等小学校への進学率の上昇および学齢人口の急速な膨張によって、
高等小学校の普及は尋常小学校への併置という形で増加した。
義務就学が六年に延長され、その就学率も100%に近づき、従って次の段階としての高等小学校の著しい拡充である。
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この時期盛んに小学校制度問題として政策の俎上にのぼり、また一般に論ぜられたのは義務教育年限の延長であった。
臨時教育会議でも、これについて審議され、その延長が希望されながらも、市町村財政の負担、教員の供給難、児童保護者の負担増等を理由に、時期尚早であるとの答申がなされた。
しかしその後義務教育延長は政府においてもその具体案がしばしば検討され、帝国議会でも決議・建議が行われた。
大正13年、江木文相は、義務教育八年制実施案を立案し、文政審議会に「小学校令改正件」を諮詢したが、撤回となった。
さらに昭和11年平生文相は、高等小学校の義務化を内容とする義務教育法案を準備したが、これも内閣更迭に遭って挫折した。
このように義務教育年限の延長は実現をみなかったが、
当時すでに就学率はほぼ99%に達し、高等小学校への就学者も著しく増加し、その内容も拡充の段階に達していた。
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「ビジュアル版 学校の歴史」 岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行
戦争第4期の国定教科書
満州事変後に改訂された第4期の「尋常小学読本巻一」は「サイタ読本」と呼ばれました。
サクラの絵のページをめくると
「ススメススメへイタイススメ」という内容となり戦時色が強くなり、神話も教材として重視されました。
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「吉田小学校百年史」 笠岡市立吉田小学校 平成12年発行
藁草履をはいて通学
吉田小学校の思い出
昭和6年3月吉田尋常高等学校の卒業生です。
当時の教育は、知的教育は素より, 明治天皇の教育勅語を基本とした, 修身科道徳教育 が主体であり、校長先生が担任しておられた。
特に忠君愛国, 親孝行, 忠孝は一つである事を教えられた。
純真な少年時代に,この様な教育を受けて奮起しました。
丁度在学中に満州事変が始まり, 出征兵士が出発される時は, 先生の引率で吉田駅までお見送りしました。
勇しい兵隊さんを送る度に, 大きくなったら, 御国の為に尽くす事を少年の心に誓ったものです。
12名の同級生は, 校長先生の教えを真面目に守って, 先きの大戦に戦死されました。
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「小楠公の母」像(笠岡町立女子尋常高等小学校「笠岡小学校百年誌」)
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