しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和の尋常小学校

2024年01月12日 | 学制150年

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(笠岡市立大井小学校100周年記念誌)

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奉安殿

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫 福武書店 1991年発行

白砂青松の中の奉安殿
天皇陛下と皇后陛下の御真影を奉安する建物を、奉安殿と呼んでいた。
運動場の東側に隣接した水田を埋めたてた敷地に、建坪三坪ぐらいの鉄筋コンクリート造りで建てられ、その頃では珍しかった手動式の鉄のレャッターがついたモダンなものだった。
この奉安殿は村の部落の酒造家が、千円という大金を投じて建立寄贈したものと聞かされていた。
敷地は、周囲に土塁を巡らし、土塁の上には榊に似た木の生垣が設けてあった。
内庭には石英の白砂が一面に敷き詰められ、植え込みの黒松の翠がこれに映えて、運動場の賑わいをよそに、森厳幽寂とまではいかなくても、いかに神々しい別世界を作っていた。
ふだんはこの聖域に立ち入ることはできなかった。
月に 二、三回、高学年の女の子が身を清め心を正して清掃に奉仕したが、作業はすべて厳冬を除いて素足で行なわれ、無駄口を聞くことはできなかった。 
なぜ女の子だけが当番になったのか。
たぶん神に仕える神子の例に倣ったものであろう。
運動場で遊んでいる子が、あやまってボールをこの聖域に飛ばすことがよくあったが、そういう時は担任か週番の教師に願い出て、正面の鉄の扉を開いて取ってもらうのである 。


朝夕の登下校の度に、この奉安殿の前では一旦停止、正面を向いて不動の姿勢をとり、そしておもむろに三秒間の最敬礼をして通り過ぎた。
やはりその頃は、天皇は現人神だった。
敗戦とともに、奉安殿は解体された。

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非常時日本の教育
国のため、大君のため
昭和6年(1931) 9月に満州事変が勃発してからは、学校教育も、それまでの国家主義的傾向がますます強まって、忠君愛国の軍国主義教育がより鮮明になってきた。
校長以下全教師全児童が支那軍の暴虐を憎み、断固膺懲の鉄槌を下すべしと力んだ。
暑ければ、炎熱地を焦がす満州の将兵の苦闘を偲んで耐え、寒ければ酷寒零下30度の満州の広野に戦う兵士の辛苦思って耐え抜いた子供たちであった。
天皇や国家に対する意識の高揚も、この事変を機にますます盛んになった。
何事につけても国のため、大君の御ためが罷り通った。
学校の諸行事に日の丸と君が代はつきものだったが、
これに皇居の遥拝と、皇軍将兵に感謝の黙が加わり、最後は必ず「大日本帝国万歳」が三唱された。

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修身の授業と内容
最もおもしろくなかった授業
修身は、児童の徳性を涵養し、道徳の実践を指導する教科で、教育勅語の趣旨に基づき、国民精神の涵養や、国民道徳 の実践普及を目的としていた。
この目的に応じ、古今東西の聖人偉人の言行を中心とした例話や訓辞、格言などが教材となった。
この修身の基本精神は、いうまでもなく忠君愛国の思想であって、
天皇と国家にとってよりよき国民になるためのものとされた。
したがって、いかに国のため、大君の御ためになるかが、道徳的価値観の基準になった。
だから子供たちは、こういう行いは国のためになるだろうか、こういう行為は大君に対し奉り不忠になるのではないかと常に考え、反省を求められたものである。
それにしても、このくらいおもしろくない勉強はなかった。

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(昭和8年「修身」の時間)

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行


興亜室
1931(昭和6)年に満州事変がおき日中戦争に入る頃から、各小学校には「日の丸教室」という教室が置かれるようになりました。
室内には大きな 「国旗」 が掲げられ、「支那」 (中国を侮辱した言い方) の地図と占領した場所には 「日の丸」
が掲げられていました。そのほか神話掛け図も飾られていました。

日中戦争が拡大すると地域から出征した兵士からの「戦利品」が飾られ、中国の子どもたちが書いたという作品 (写真) も展示されました。
1941(昭和16)年に国民学校に変わる頃からこの教室は「興亜室」と呼ばれるようになりました。
地図も東南アジア全体のものとなり、南方の島の「ヤシの実」やジャワ、ボルネオ島の民芸品も飾られました。
また、戦死した人の鉄兜や血染めの腹巻きなども展示され、
 「国のために命を捨てるほまれ」を教える場となっていました。 (渡辺)

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 (大正元年~昭和10年) 
尋常小学校・高等小学校
義務教育修了者の高等小学校への進学率の上昇および学齢人口の急速な膨張によって、
高等小学校の普及は尋常小学校への併置という形で増加した。
義務就学が六年に延長され、その就学率も100%に近づき、従って次の段階としての高等小学校の著しい拡充である。

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この時期盛んに小学校制度問題として政策の俎上にのぼり、また一般に論ぜられたのは義務教育年限の延長であった。
臨時教育会議でも、これについて審議され、その延長が希望されながらも、市町村財政の負担、教員の供給難、児童保護者の負担増等を理由に、時期尚早であるとの答申がなされた。
しかしその後義務教育延長は政府においてもその具体案がしばしば検討され、帝国議会でも決議・建議が行われた。
大正13年、江木文相は、義務教育八年制実施案を立案し、文政審議会に「小学校令改正件」を諮詢したが、撤回となった。
さらに昭和11年平生文相は、高等小学校の義務化を内容とする義務教育法案を準備したが、これも内閣更迭に遭って挫折した。
このように義務教育年限の延長は実現をみなかったが、
当時すでに就学率はほぼ99%に達し、高等小学校への就学者も著しく増加し、その内容も拡充の段階に達していた。


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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

戦争第4期の国定教科書

満州事変後に改訂された第4期の「尋常小学読本巻一」は「サイタ読本」と呼ばれました。
サクラの絵のページをめくると
「ススメススメへイタイススメ」という内容となり戦時色が強くなり、神話も教材として重視されました。

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「吉田小学校百年史」 笠岡市立吉田小学校  平成12年発行 

藁草履をはいて通学
吉田小学校の思い出

昭和6年3月吉田尋常高等学校の卒業生です。
当時の教育は、知的教育は素より, 明治天皇の教育勅語を基本とした, 修身科道徳教育 が主体であり、校長先生が担任しておられた。 
特に忠君愛国, 親孝行, 忠孝は一つである事を教えられた。
純真な少年時代に,この様な教育を受けて奮起しました。 
丁度在学中に満州事変が始まり, 出征兵士が出発される時は, 先生の引率で吉田駅までお見送りしました。 
勇しい兵隊さんを送る度に, 大きくなったら, 御国の為に尽くす事を少年の心に誓ったものです。
12名の同級生は, 校長先生の教えを真面目に守って, 先きの大戦に戦死されました。

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「小楠公の母」像(笠岡町立女子尋常高等小学校「笠岡小学校百年誌」)

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結核で死ぬ

2024年01月12日 | 学制150年

母はたまに女学校時代の同級生で、自分よりも頭も容姿も良い人が、何人も
「結核で若い時に死んでしまった」
と、ぽろりと話すことがあった。
気の毒なという意味と、美人でなくてもよいことがある、と思っていたのかもしれない。

それは自分への慰めだけでなく、美人は早く死ぬと信じていたようにも感じた。
しかし実際は、容姿に関係なく”不治の病”で若くして、男性も女性も死んでいった。

 

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「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫 福武書店 1991年発行


「ハイビョウ」を恐れる子供たち

都会に出ていった少年少女たちは、中途で胸を結核に冒さ れる者が多かった。
その頃の奉公人は、いったん発病したら最後、すぐ解雇されて親元に帰されるのがおちだった。
今のように、雇い主が役に立たなくなった病人を、長いこと面倒を見てくれる時代ではなかった。
いわゆる社会保障や福祉に類するものはいっさいなく、
クビになれば仕方なく、こっそりとふる里のうす暗い我が家に帰ってきた。
そして破れた障子が揺れる奥のひと間で、時たま訪れる村医者の形ばかりの診察を受けながら、春がいつくるかわからないままに、季節の移ろいに身を委ねた。

結核患者のいる家は、真冬の寒い日でも障子を開け放していて、夜もこうこうと電灯の光を放っているのが遠くからのぞめたから、「肺病やみ」がいる家だとすぐにわかった。
寒くても絶えず外の空気にさらして、菌が家の中にこもるのを 防いだのであろう。
これは同居の家族への伝染をおそれてのことで、患者自身、構ってくれない家族への不満は、もうあきらめの中に消えていたし、
その家族の方も、何の役にも立たない者を、いつまでも構うだけの余裕はなかった。
肺病はうつる病気なのに、どうして遊病院に入れないのだろう。
田圃の中にいくから見える幾棟もの避病院は、白いペンキ塗り、四面がガラス窓のモダンな建物で、生い茂る草の緑に映えて美しかった。
空気はいいし、日光がふんだんに差し込む温室のような病室に入れたら、肺病など直ぐ治ってしまうのにといつも思ったが、この建物に人が居るのを見かけたことはついぞなかった。
倹約、倹約とうるさく言う大人たちは、なぜこういう無駄なことをするのだろうと、先生に聞いたら、
「肺病は伝染病とはいうても、赤痢やコレラなどとは違って簡単にうつるもんじゃないから、わざわざ避病院に入れる必要はないと法律で決まっとるんじゃ。
だいいち、肺病やみをいちいち入院さしようたら、避病院がなんぼあっても足りや せんのじゃ」

尋常科の子供には、発病する者はあまりいなかったが、高等科に進むと肋膜炎ということで、長期欠席をする児童がいた。
もともと家族の患者から感染する例が多いことは、親子や兄弟姉妹で発病する家が多いことでわかった。
これは患者と生活を共にすることにより、感染の機会が多く、
それに当時の食生活の貧しさからくる栄養不足が、病気に対する抵抗力を弱め、発病に拍車をかける結果となっていたのである。
結核に関する医学の進歩発達は戦後特に著しく、優秀な医薬品の開発による化学療法によって、結核で貴い命をおとす者はいないといわれるまでになったが、戦争前は実に多くの人々が結核で死んでいったのである。


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「梶原山のくらし」  梶原山(福山市引野町)のくらしを記録する会  2012年発行

福山回生病院会長 村上貞夫さん(大正10年生まれ)

結核

病院勤めをしていても、内科の患者で主に手のいるのはほとんど結核なんよ。
戦争中、国民はほとんど栄養失調になってしまっていた。
結核が感染していても無理をするもんじゃけえ、こじらせて本当の肺結核に移行してしまった。
そんな人がいっぱいおった。
どこでも、ほとんどの家に一人や二人はいた。
結核にかかると、皆死んでいった。

内科医として仕事をするには、
結核をなんとか処理しなければどうにもならん、と思うた。

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「新修倉敷市史第六巻」 倉敷市 平成16年発行


疾病と医療施設

結核は、結核菌の感染による慢性伝染病で、肺結核・腎結核・腸結核などを総称した名称であるが、特にことわらない限り肺結核をさす。
第二次大戦後の結核医学の著しい発展をみるまで決定的な治療法のない病気であった。 
病気そのものは古くからあるが、イギリスの産業革命期に多くみられて注目された。
わが国でも産業革命の進展に伴い、都市化・集団化した生活の中で流行しており、農村にまで及んだ。
『女工哀史』は劣悪な労働条件で結核に冒され解雇されて帰宅させられていく女工の姿を描 いている。
決定的な治療法のない結核への対応は、予防と伝染防止に主眼が置かれた。

患者発生の場合、学校・病院・製造所・船舶発着待合所・劇場・寄席・旅店などが地方長官の指示に従うことが規定された。
これをうけて倉敷警察署では関係の業者を同署に召集して注意を喚起した動きが見られる(「新報」明治34.9)。

大正2年(1913) 北里柴三郎が首唱して日本結核予防協会が設立された。
さらに旧「結核予防法」(大正8)が制定された。
これは患者発見の場合の医師による届出、消毒などによる取り締まり的役割を重視したものであった。 
このような施策の動向の中で県下では赤十字社にかかわる肺病患者療養所設置問題、笠岡町の古城山の地が浮上し、翌年1月から着手することになった。


結核患者には繊維産業における女子従業者の罹患率が高かった。
児島・都窪地域には他の地方から働きにやってきた人も多く、結核罹患が判明すると解雇のうえ郷里に帰された。
そのため帰郷した罹患者が農村部で結核の温床となった。
また農村は多くの兵士を供給しており、労働力と兵力確保の障害となることから結核は「亡国病」と呼ばれその対策が急がれた。
浅口郡都窪郡でも結核予防検診を地区別に行っており、官民あげて撲滅の宣伝に取り組んだ。
大正12年4月17日より結核予防デー(週間)としてポスター・宣伝ビラを接客場・工場に配布して注意を喚起した。
昭和3年の春にも結核予防週間が行われており、倉敷警察署では学校へ啓蒙取り組みを依頼して
児童作文募集、予防宣伝ビラの配布を企画している。
この企画はのちまで行われ、岡山では芸者・活動写真常設館(映画館)の音楽隊も街頭に出て協力した。
県下の患者は農村に多く、約2万人で男性が女性より多く、年齢別では20歳~30歳。

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実業学校

2024年01月12日 | 学制150年

昭和の初期、父の4人兄弟の学歴。


①父(農家の長男)尋常小→神辺実業学校
②おじ(農家の次男)尋常小→福山工業学校
③おば(農家の長女)尋常高等科→増川高等女学校
④おじ(農家の三男)尋常小→笠岡商業学校


管理人が城見小学生の時、家族の調査表に親の学歴の欄があり、
「高小」「神辺実業」が多かった。
「笠岡商業」は稀、田舎では笠商は最高学歴の感じで、ほとんどが「高小」卒または「神辺」卒だった。


おばは高等小学校高等科を卒業しているが、
「(笠岡)女学校に行きたかったが、おばあさん(母親)が行かしてくれなんだ。
高小の時に、行ってもいいと言われたが、同級生に遅れて入るのは抵抗があり(県外の)
増川に行った。」と話していた。
増川には3年生で入学となる。

 

(相撲部・昭和5年 「創立90周年記念誌」 笠岡商業高等学校 平成3年発行

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「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 実業学校

実業学校は、
農業学校・工業学校・商業学校等の中等教育段階の職業教育機関の総称である。

昭和期の実業学校

昭和期は第一次大戦後の反動としての不況から始まり、金融恐慌とともに輸出貿易の杜絶を生み、産業全体が極度の不振となった。
就職難は上級の学校ほど激化し、中等学校生徒の中退が増加してきた。
このような状況に対して、文部省は昭和5年に実業学校の修業年限を最低3ヵ年から2ヵ年に短縮して低度実業教育の振興を図る中等実業学校の諸規程の改正を行っている。
従来の実業教育振興策が、修業年限の延長と学校数の増加という教育総量の拡大をめざしてきたのに対し、この規程改正は逆の方向を示したのである。
しかし、低度実業教育の振興というのは、結局実業教育の衰退を招き、甲種実業学校に比し乙種の落ち込みが著しかった。
世界恐慌の影響による農村の慢性的不況、工業生産の低落、失業者の増大等の状況には、教育制度の改革の論議が起こってくる。
昭和十年に設置された実業教育振興委員会の答申は実業学校制度の改革についてはふれていなかったが、低度実業教育の振興のために、社会教育的な機会を活用することについて、大胆な提案を行った。

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日中戦争の勃発により、文部省は実業教育振興委員会に、再度実業教育の方策を諮問した。
委員会の答申は前回の社会教育的な低度実業教育の振興策を改め、軍需産業の拡充のための実業学校の全面的増設という積極策を示した。
戦争が進展するにつれて、軍需産業の必要に応じて、実業学校なかんずく工業学校の増設が行われ、学校は産業に従属して人材を確保する機関としての性格をあらわにしていく。
この時期の実業教育問題の中心は、工業教育の拡大であった。

 

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文部科学省HP

実業学校の新しい位置づけ
昭和10年代にはいってからは時代の傾向と国家の新しい情勢に対応して実業学校は重要な改編をする時期に当面することとなった。
この時期の教育政策全般を方向づけたものは教育審議会であったが、中等教育に関する政策の具体的なあらわれは18年に公布された「中等学校令」であった。これによって実業学校は中学校、高等女学校とともに新しい中等学校制度のなかに統一されることとなった。
このように新しく位置づけられた実業学校については、同年に公布された「実業学校規程」によってその種類は、農業学校・工業学校・商業学校・商船学校・水産学校・拓殖学校その他実業教育を施す学校とした。
また修業年限は国民学校初等科卒業程度を入学資格とするものは4年、高等科卒業程度を入学資格とするものは3年と定めた。

なお、この際の改革において実業学校と中学校および高等女学校との間の生徒の転学について相互に便宜を図るべきことを規定した。
従来全く切り離されて構成されていた普通教育と実業教育とを結びつけようとする方策を示したものであった。
このことは、明治30年代における学校制度の基本方策において、中学校の性格を高等普通教育を施す場所として規定し、そのなかから実科教育の思想を排除していた。
それ以来、長い間の伝統によって分離していたことに対して、一つの新しい問題を提供したものとして注目される。


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