しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学徒動員(青年学校)

2024年01月15日 | 学制150年

青年学校は戦後まで全国に存在していたが、もはや幻の学校と化している。
国が法律で決めた義務教育の学校だったが、戦時で生まれ、戦時が終わると消えていった。

今、数少ない卒業生が世を去りつつあり、あと数年もすると、
「青年学校」が存在したことさえ消えてしまうだろう。

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「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

小学校の校門には、高等小学校、実業補習学校、青年訓練所の三つの看板がかかげられ、
青年は書類上、高小卒・補習学校後期二年卒のかたちで教練以外の時数を消化し、
さらに青年訓練所二年在所によって教練の時数をこなしたと説明されるものもあれば、
青年訓練所だけの籍をもって普通学科、職業学科は、補習学校と併せて行うと説明されるものもあるといったように、
教育制度体系に混乱の種子を落した。
青年訓練所もまた愛郷心の涵養、郷土の理解、自然への親しみを強調したし、農業実習すら教練の一手段としようとしたなど、
農業補習学校の農村教育的側面を強化する役割を果した。

昭和10年4月に誕生した青年学校は、今まで述べてきた実業補習学校・青年訓練所を一本化し、
より訓練所よりに兵士予備軍、忠誠なる 国民育成の使命を帯びていた。

公立青年学校のほとんどが小学校併置であり、施設・設備はゼロに近いとされていた
昭和13年には全国の青年学校生徒数約221万であるが、
不満点として、
「一、青年 学校は働く者がその余暇に訓練を受ける施設であるといふ、補習学校時代の性格そのまま踏襲されてゐる制度上の不徹底さである。
二、次に相も変らず小学校への寄生的存在である点が少しも反省されてゐなかったことである。
三、青年学校へ出す保護者及雇傭主に理解と熱情の乏しきことである」等々を指摘している。


青年学校の設置数は、昭和11年段階で郡部と市部との比率は94対6であり、
本科において、職業科に農業だ けをおいているのが69.5%を占め、何らかと組み合わせて農業をおいているのを総計すると86.3%にものほり、
まさに農業主体の青年学校であったといえよう。

昭和14年4月 「青年学校令」を改正し、
年齢満12歳から満19歳に至るまでの男子は、上級進学者を除いて就学せしむべき義務を保護者に課し
青年学校義務化は、形式的には教育の機会拡充といえるのかもしれないが、実業教育の進歩発展とはいえず、逆に学校教育の完全な軍部への屈服を象徴する制度改革であったというほうが妥当であろう。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行


青年学校の統廃合
義務制実施に伴って、昭和16年度から各地方につぎつぎと青年学校が設立された。
学校数の増加に伴い、最大きな問題は教員の不足ということであった。
これは発足当初からの問題で、これまで実業補習学校には専任 の教員がほとんど置かれず小学校の教員が兼務していた。
青年学校には特に相当数の専任教員を置くべきことが規定されていたが、現実はほど遠かった。
実際には教練科の教授及び訓練を担当する者として在郷軍人のうちから指導員が選ばれたのである。
青年学校における教練科の重要性からみて指導員の果たす役割は極めて大なるものがあった。 
教員の不足は応召する教員の増加によって、ますます教員組織を不安定にした。
そのため、政府は17年小規模校を統合して教育効果をあげるよう指示し、
岡山県においては、昭和16年491校であったのが、20年には302校に減少している。

 

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行


青年学校教育の柱となった軍事教練は、陸軍の強い指導のもとにますます重視され、在村の軍隊教育といってもよかった。
湯原青年学校にみるように「兵農一如の錬成道場」と自他ともに称していたのが偽わらざる姿であった。
学校兵営訓練が行われて、不寝番勤務なども厳格に行われた。 
銃架防具棚や炊事場もつくられており、女子の宿泊訓練も実施され、20年4月からは校長が学校に宿泊している。(湯原町史)
勤労青年教育の青年学校が生産増強に大きな役割を果たしたことはいうまでもない。
18年ごろの農村における青年学校生徒の日常生活は、普通科の授業時間が大きく減少し、
軍人遺家族の勤労奉仕(麦刈、田植、稲刈等)、
土地生産力増加のための排水工事、開墾作業、製炭、木材搬出、食糧増産、松根採集、植林等に動員され た。
出征軍人の歓送迎、軍人援護活動、町村葬、慰霊祭奉仕もかかせない行事であったし、炭坑奉仕隊を編成し出動したり、被服工場へ勤労奉仕にでかけている。


「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

学校報国団

作業は軍人遺家族留守宅を含めて農村では米麦増産の作業全般に協力した。
このような集団作業を進める組織が、学校報国団の結成である。
学校の生徒が学業を捨てて勤労作業を行うことには種々の論議もあったが、当時の時局が強く要求したこと 反主知主義的教育思想に基づく労作教育による理論的裏付けが行われたことによって実施された。
食糧増産運動の第一線で活躍したのは、農業学校と青年学校の生徒たちであった。
農業学校生徒が開墾して作った農場を学校特設農場といい、各校とも広大な山野を開墾した。 

 

戰後
青年学校の義務制は、非常時局を背景とした当局の強い拘束がなければ、とうてい維持できるものではなかった。
終戦とともに、男子生徒の出席率が極めて悪くなったのは当然のことであった。
これまでの異常な拘束から急に解放された青少年の風儀は著しく悪化の傾向をたどるところが少なくなかった。
学校では家庭訪問、レクリエ ーション、スポーツ、講演会等とくふうをこらして、男子生徒に登校を奨励したが実績はあがらなかった。

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学徒動員(国民学校)

2024年01月15日 | 学制150年

 

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

軍隊的規律
15,16年ごろから児童・生徒は二列縦隊にならび、上級生の引率のもとに通学するようになった。
教師に対しては一せいに挙手の礼を行い、職員室に出入りするときは、氏名を名乗り、命令を受けたら必ず復唱していた。
女子の学校でも、体育に武道 (薙刀)が採用され、体操も教練式で閲兵、分列なども男子と変わらなかった。 
国民学校も女子に武道 (薙刀)を指導するようになり、男女の閲兵、分列行軍演習など、中等学校と変わらないようになった。

団体訓練はあらゆる機会をとらえて強化された。
毎月8日は「大詔奉戴日」として全校で学区内の神社に参拝し戦勝祈願をした。
隊列を整え正常歩による行進で、出発から帰着までいっさい無言であった。
校庭における閲童式や閲団式もよく実施された。
体操の時間にはこの基礎訓練が繰り返され、少年団活動と一体になって行われた。
少年団は文部省の直接指導下におかれが、昭和17年4月には大政翼賛会の管下にはいった。
この少年団は国民学校と一体のものであり、初等科3年以上の全児童が団員となった。
国民学校長が少年団長を兼ね、児童の校外生活すべてにわたっていた。
敬礼のできる子ども、わきめもふらぬ真剣な態度、相手を射る注目、足先指先まで気をつけた堂々たる姿勢など、
軍国の子どもに欠かせない訓練内容として少年団活動はこれによくこたえた。
当時は、多くの家庭に明治天皇や大正天皇、今上天皇・皇后の写真が掲げられ、
敬神崇祖と共に忠君愛国の思想を培う場になっていた。

運動会も強健な身体と不屈な精神を養う体練科の趣旨にそい、内容は戦時色を濃くしていった。
遠足は春秋二期行われていたが,名称も鍛錬遠足と称して毎月行う学校が多くなった。
弁当は「日の丸弁当」に限り、おやつは許されなかった。
児童は校歌や軍歌を歌い意気盛んであった。
日ごろの体操の時間にも半裸、はだしで鍛えることが多かったので、
かれらの徒歩力は意外に強かった。


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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

戦時期の小学校と国民学校

昭和13年以降、勤労奉仕作業がひろく行われるようになった。
学校内では、学校園、教材園、家畜舎(鶏や兎、豚、牛など)の運営等に教師も児童も一致協力していそしみ、
学校外では、出征軍人遺家族への農繁期手伝いや、社寺の清掃奉仕作業や郷土の道路修理作業などが実施され、
その勤労作業を通じて、児童に勤労愛好と相互扶助ならびに奉仕の精神を養おうとした。

昭和18年6月、内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定し、 学生生徒を労働力として勤勞動員勤労動員する体制を確立した。
この通牒以降、国民学校高等科児童も、農林水産業や工場等の生産現場において労働力として期待されることになったのである。
なお高等科の児童のみでなく、初等科の児童も食糧増産業の軽易な勤労作業に参加した。
国民学校高等科の学童は、食糧増産の農作業に従事したところが多かった。 
「応召家庭や〝誉の家"に対する農作業の手伝い、山林・荒地の開墾作業を行ない、また学校園(校外や運動場)を経営して甘藷、大豆、 麦、そばなど 増産した」。 
山村の学校では、松根油を採取したり、 「炭焼き用材の搬出、炭焼き作業、薪炭の山出し、植林作業 等を行なった」。

昭和19年3月には「決戦非常措置要綱二基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定された。
この決定で、中等学校程度以上の学生生徒の通年動員の態勢がとられることになったわけである。
昭和19年7月になると、労務需要はますますひっ迫したため、
国民学校高等科児童も継続動員できること、
国民学校高等科児童も、農林水産業や工場等の生産現場において労働力として期待されることになったのである。
なお高等科の児童のみでなく、
初等科の児童も食糧増産業の軽易な勤労作業に参加した。

国民学校高等科の学童は、食糧増産の農作業に従事したところが多かった。
「応召家庭や”誉の家"に対する農作業の手伝い、山林・荒地の開墾作業を行ない、
また学校園(校外や運動場)を経営して甘藷、大豆、麦、そばなど増産した」。 
山村の学校では、松根油を採取したり、「炭焼き用材の搬出、炭焼き作業、薪炭の山出し、植林作業 等を行なった」。
漁村や漁港では、網引きや沖釣りによる漁業実習に従事したり、
「その他防空壕掘り、軍用道路の整備、農業用水の暗渠や堤防の修築などの土木作業」、
航空基地の近くでは、「飛行場の整地、草刈、石拾いなど」

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学校神社  「笠岡小学校百年史」

 

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「岡山の教育」 秋山和夫 岡山文庫 昭和47年発行


戦時下教育の一面
儀式や学校行事の教育的意義が重んじられるようになり、戦争に勝つために「必勝の信念」 と「堅忍持久」の精神の涵養につとめたのである。
神への戦勝祈願も重要なこととされ、毎月一度は全校をあげて戦勝祈願のための神社参拝もおこなった。
現人神である天皇を中心とした神国主義の形成のために、御真影を安置してある奉安殿や校内にある神祠の清掃は特に重要なことであった。
国民学校になって武道が新しくとり入れられ、 児童の体力づくりと精神力の育成のための重要な教科として位置づけられた。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行


防空体制の強化に迫られ、昭和18年11月「岡山県学校防空指針」が制定され、
各学校の防空計画の基準が警戒警報、空襲警報の発令が日増しに頻繁となり、全国主要都市の空襲のニュースもたび重なるようになった。
燈火管制の徹底、防空要員の確保、待避施設の整備等防空態勢には多くの問題が残されていた。
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲にそなえて待避壕がほられた。
訓練警戒警報や訓練空襲警報のサイレンを合図に、毎日のように訓練が行われた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
ポンプ操法やバケ ツリレーの消火訓練も行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童生徒の保護が最重点であった。 
当時の学校日誌をみると、警戒警報も20年の4月ごろからは、連日 昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、
登下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空づきんを頭一ぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。
工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。

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「創立百年記念小学校誌」 笠岡市立大井小学校 昭和52年発行


 (昭和20年度卒業)

私達の入学は,昭和15年4月で,この年から学校の名前も国民学校と呼ばれるようになりました。
その年の12月8日に,第2次世界大戦 (当時は大東亜戦争と呼んでいました。)が始まり、戦争、戦争の毎日が続き, 勉強どころではなかった小学校時代であったかと思われます。

4年生の頃には,戦争も激しくなり、授業は午前中ぐらいで午後は空襲にあった時の避難訓練をよくしたように思います。
また土地におられる若いお父さんやお兄さん(当時16歳位) 達が毎日のように戦争に狩り出されて行き、
その出征軍人さんを大井村 (今の追分)の駅まで国防婦人の皆様と見送りに行くことが度々いや毎日のようにあったと思います。 
全校生徒で先生につれられてお宮に参っていました。 
5年生の頃は海外の戦況も悪化して、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。 
上級生と共に六道の山へ開墾に行き、戦争に勝つため、食糧増産にと切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしたものです。 
そればかりか、運動場も大半は耕して,それにも芋、麦、稲 どを作っていたような訳で、もちろん運動場で遊ぶ事も楽しい運動会もありませんでした。
6年生の頃には、戦況も最悪となり、本土決戦を叫ぶ声も一段と強まって、初等科以外の学校では授業を4月から1ヵ年間停止されました。

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日本は食糧も兵器も将兵も不足した。
初等・中等学校の生徒は、
食糧増産・工場動員・志願兵に励んだ。

いっぽう、
内地で不足する食糧や労働力は、本土外から半ば強制的に移入された。

 

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「教養人の日本史・5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行

強制連行の記録

太平洋戦争期間中、昭和14年から20年にかけて日本に強制的に連行された朝鮮人労働者は72万余名といわれている。
すでに日中戦争開始後は、産業の戦時体制化にともなって、とくに石炭・土木などの部門で朝鮮人労働力の吸収が計画的に進められ、
14年7月には国民徴用令が施行され、〝募集"という名の徴用による朝鮮人労働者の内地への強制連行が本格的に開始された。 
昭和14年の運行は、石炭山・金属山・土建業などに許可され、
事業主の代理人が南朝鮮の七道の地域に出張し、割当人員の狩り立てにつとめた。
その連行ぶりは、「憲兵とともに釜山に上陸し、トラックをもって、
町を歩いている者、田圃で仕事をしている者なども手当たり次第、
役に立ちそうな人を片っぱしからそのままトラックに乗せて船まで送り、日本へ連れてきた」という。

内地に連行されたかれらは、厳重な監視の下に集団生活をさせられた。 
逃亡防止のためである。
かれらはもっとも危険な場所--坑道開鑿、岩石掘進、水現場など--に駆りたてられた。
軍隊や 憲兵のきびしい監督の下で働いた。
作業現場での事故死、
墜落、爆発などの事故死と病死ならびに溺死。
逃亡に失敗したもののみせしめのリンチ、虐殺は日常茶飯事となった。

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「千田学区地域誌」  福山市千田学区町内会連合会  2008年発行


学校・家庭の様子


校庭では碁盤の目のように四列縦隊で、駆け足や行進が出来るだけの通路を残し、
残りは掘り起こして畑とし、甘藷を植えて食糧増産の一助としていました。

山の松に鋸で切り目を入れて松ヤニを集めたり、よもぎ・わらび・なずなやどんぐり等を食料不足のため採集したり、
桑の木やカズラを剥いで繊維とする手助けをしていました。
学校に炭焼き釜を作り木炭の生産をしました。
唱歌は軍歌一辺倒になり、体育はみな裸足でした。
縁故疎開も多く千田国民学校の各クラス20%位いました。


男性(昭和8年生)

私は千田尋常に入学し、2年生の時に千田国民学校と名前が変わりました。
それとともに教育内容も皇国民育成を目的にするものに改められました。
宮城遥拝・・・全校生徒が宮城の方向に向かい「天皇陛下に対し奉り最敬礼」という号令で最敬礼をするのです。
奉安殿・・・昭和3年に建設されまた。式典当日の朝には校長先生が白手袋をはめて、うやうやしく奉持して式場に運んだものでした。
増産・・・校庭でのサツマイモ、峠山の学校農園での増産。農繁期の出征兵士の農家や遺族の農作業などに、高学年の児童が派遣され授業の一環とみなされました。
天皇の名を覚える・・5年生の国史では、初代から124代まで、全部間違えずに言えるものが優秀だと評価されました。
教育勅語は4年生で覚えました。
軍人勅語は難解で長いものでした。皆で斉唱し、皆覚えていました。
終戦の直前、最もよく歌っていた歌は「勝ち抜く僕ら小国民」でした。
その頃、国民によく歌われていたのは「予科練の歌」でした。
近所のお父さん、お兄さんたちの戦死、横尾駅への遺骨のお迎えも毎日のようで、悲しみの心がマヒしていました。

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「百年誌」 笠岡小学校  昭和48年発行

昭和20年6月15日
学徒出動 (女子校高等科2年)
昭和20年6月28日
学徒出動 (男子校高等科2年) 大塚工場への入所式 8月27日に退所式
昭和20年7月6日
製塩用砂採集 (5,6年)(女子校)
昭和20年7月23日
学徒出動(報国鉄工所) (女子校高等科1年)

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