しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

国民学校発足

2024年01月14日 | 学制150年

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「笠岡小百年史」

国民学校発足

昭和16.4.1
国民学校令施行により, 笠岡町男子国民学校・笠岡町女子国民学校と改称。


昭和16.9.15
粗食訓練をし, 麦飯を食べることを奨励。

昭和16.12.8
米英に対し, 宣戦布告の詔書渙発, 帝国必勝祈念のため,全児童笠神社へ参拝。

 

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「教育の歴史」  横須賀薫 河出書房新社 2008年発行

昭和16年(1941) 「国民学校令」が公布され、
明治以来広く市民に親しまれてきた小学校の名称が 「国民学校」に改められた。
国民学校令の第一条に「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」とあり、
この目的に向かって教育内容も大きく変革していった。
国民学校は初等科六年、高等科二年とし、その上に一年の特修科を認めた。
初等科の教科は国民科、理数科、体鍊科及び芸能科で改められたが、高等科はこれに実業科が加わった。 
国民学校の教育理念に基づき授業内容も大きく改められたが、従来の修身の授業内容に「礼法」を加え、国語には従来の「読方」「綴り方」「書方」のほか「話方」が加わった。 
国民学校の教科書は、低学年向けには色刷りの絵が多くみられた。
教育上の苦心がみられるが、内容は当時の社会情勢や思想を反映し国家主義的色彩が濃かった。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

日常の生活訓練
昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争に突入した。 
幼い子どもにも宣戦の詔勅と緒戦の戦果のニュースは、教師による訓話と相まって、かれらの生活意識を大きく変えた。
体錬科が重視され、時間数も倍増し、その傾向はいっそう強化された。

下校、家庭、社会
毎日の通学も、「通学新体制」の名の下に、きびしい指導が行われた。
町内会あるいは部落単位に各整列場を決め、一定時刻に集合、二列で登校、校門をはいる時は歩調をとって歩いた。
奉安殿に対する感謝のことばと誓いのことばを述べ、最敬礼をして教室に入るという状況であった。
毎月8日は「大詔奉戴日」として全校で学区内の神社に参拝し戦勝祈願をした。
隊列を整え正常歩による行進で、出発から帰着までいっさい無言であった。
校庭における閲童式や閲団式、分列式もよく実施された。
体操の時間にはこの基礎訓練が繰り返され、少年団活動と一体になって行われた。
少年団は、16年1月大日本青少年団として、文部省の直接指導下にお かれ
17年4月には大政翼賛会の管下にはいった。
この少年団は国民学校と一体のものであり、 
初等科3年以上の全児童が団員となった。
校長が少年団長を兼ね、訓練の内容は児童の校外生活のすべてにわたっていた。

当時は、多くの家庭に明治天皇や大正天皇、今上天皇・皇后の写真が掲げられ、
敬神崇祖と共に忠君愛国の思想を培う場になっていた。
運動会も強健な身体と不屈な精神を養う体錬科の趣旨にそい、内容は戦時色を濃くしていった。
団体訓練の最もよい機会として分列式や閲童式が取り入れられ、
武道も演じられ、天突体操や相撲体操なども行われた。
ダンスなども時間的なものに内容が変わり、優雅なものは退けられていった。
遠足は春秋二期行われていたが、名称も鍛練遠足と称して毎月行う学校が多くなった。
困苦欠乏に耐え、弁当は「日の丸弁当」に限り、おやつは許されなかった。
隊伍を整え、かなりの距離を歩いて帰ったが、児童は校歌や軍歌を高らかに歌い意気盛んであった。
日ごろの体操の時間にも半裸、はだしで鍛えることが多かったので、かれらの徒歩力は意外に強かった。


防空体制の強化に迫られ、昭和18年11月「岡山県学校防空指針」が制定され、
各学校の防空計画の基準が警戒警報、空襲警報の発令が日増しに頻繁となり、全国主要都市の空襲のニュースもたび重なるようになった。
燈火管制の徹底、防空要員の確保、待避施設の整備等防空態勢には多くの問題が残されていた。
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲にそなえて待避壕がほられた。
訓練警戒警報や訓練空襲警報のサイレンを合図に、毎日のように訓練が行われた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
ポンプ操法やバケツリレーの消火訓練も行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童生徒の保護が最重点であった。 
当時の学校日誌をみると、警戒警報も20年の4月ごろからは、連日昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、登下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空づきんを頭一ぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。
工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。


戦争末期の食糧増産運動・集団的勤労作業は、最初、生産的意義よりも教育的意義(生産的効果よりは精神的 効果)が強調されていたが、
しだいに労働力不足を補うようになってきた。
16年に文部省は、青少年学徒食糧 飼料増産運動実施に関する通達を出している。
戦争末期にいたると食糧不足は深刻となり、学校も総力をあげて 増産運動に取り組むこととなった。
昭和17年10月31日付で岡山県は、植物油の増産が急務として、前年と同じように児童・生徒による樹実の採集出荷の努力を要請している。
椿の実をはじめとして、トチ、ナラ、クヌギ、アベマキ、ブナ、カシ、シイ、カシワ類等の植物いっさいにわたっており、
農山村の児童が中心になって採集に努力した。
発送先は小田郡神島外村神島人造肥料株式会社神鳥工場となっていた。

 

学徒隊

昭和19年3月には体鍊科武道 (薙刀)教授要項が決まり、初等科5年以上の女子を対象に実施された。
その年8月には学徒征空体錬実施要綱がだされ、
航空適性強化のために国民学校と中等学校の男子児童生徒は少年航空兵として進むように強く要請された。
20年に入ると、決戦教育措置要綱により学徒体鍊特別措置要綱が決定し、 
その訓練項目は白兵戦技(手榴弾投擲、銃剣術、 剣道、柔道等)と歩走となっていた。
これは、主として国民学校高等科以上の男子を対象とし、
女子も手榴弾投 擲、薙刀、刺突法、護身法等の実戦的訓練が課せられた。
20年5月には戦時教育令が公布され、その第3条により学徒隊が編成されることとなった。
「教職員並=学徒ハ、当面セル戦時緊切要務タル食糧増産、軍需生産及国防、重要研究ニ挺身スル」とその性格を明らかにしている。


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「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

戦時下教育の一面
儀式や学校行事の教育的意義が重んじられるようになり、
戦争に勝つために「必勝の信念」と「堅忍持久」の精神の涵養につとめたのである。
神への戦勝祈願も重要なこととされ、毎月一度は全校をあげて戦勝祈願のための神社参拝もおこなった。
現人神である天皇を中心とした神国主義の形成のために、御真影を安置してある奉安殿や校内にある神祠の清掃は特に重要なことであった。
国民学校になって武道が新しくとり入れられ、児童の体力づくりと精神力の育成のための重要な教科として位置づけられた。
戦意の昂揚のために、日華事変以後は、新しい敵の陣地が陥落するたびに、日本軍の勝利を祝福するために昼は旗行列、夜は提燈行列、学校においてもそれそうおうの祝福をしたのである。


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昭和の尋常小学校・その2

2024年01月14日 | 学制150年

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫 福武書店 1991年発行


大きくなったら軍人になろう。

そしてせめて金筋一本の下士官になって、恩給がつくまで死に物狂いでがんばろうと心ひそかに思ったものである。 
軍隊には夢があった。食うこと、着ること、住むことの心配がないだけでなく、金持ちも貧乏人もなかったし、大学出も尋常出も一緒だった。
初めは二等兵でも、一年たてば一等兵になれたし、成績次第では上等兵だって夢ではなかった。 
再役を志願して下士官にでもなれば、もうしめたもので、苦しても百姓の辛さに比べたら、どんなことでも辛抱できると思った。
伍長、軍曹と進んで、曹長になればどえらい出世だ。



師範学校


師範学校で教育を受ける生徒には、不況の当時にあってはどれをとっても垂涎の的ともいえる、いくつかの特典があった。
それは学資の支給、教員免許状の附与、就職の保障、兵役の猶予ないし軽減などで、これには特に農村の優秀な人材が集中した。
師範の卒業生で身体が軍役に耐えれば、短期現役兵として徴集され、わずか五ヵ月の訓練を経て陸軍では伍長、海軍では三等兵曹に任官し得て除隊し、
しかも一般なら除隊しても予備役、後備役として長い年月を拘束されるのに、一足とび国民兵役となり、
事実上、永久に銃をとることはないと保証された。

 

代用教員

昔の高等小学辛だけの学歴の教師もいた。
しかし、いちばん多いのは中等学校卒業者であった。
これらの人で検定に合格して、一定の資格をしてから就任する場合は別だが、無資格のままで教職につく場合は代用教員といわれた。
小学校教員では、免許状を有する者を任命することが原則だったが、特別の事情がある時、小学校準教員に代用することができると、当時の制度にあったそうである。

これより少し後のことになるが、昭和14年(1939) 師範出の短期現役制が廃止され、日中戦争に続いて昭和16年に太平洋戦争が始まると、若い教師も一般の若者と同じ ように銃をとって戦場に出るようになった。
そのために教師の不足が生じ、大量の代用教員の登場となった。
各小学校でその中等学校卒業生が代用教員として活躍していた。

終戦前後の教員不足の頃は、履歴書一本、校長の一存、
「明日から来てくれんさい」のひとことで翌日から出勤、正式手続きはあとからでよかった。
だが、いったん採用された代用教員は、優秀な人材が多かった。
それだけに年数を重ねても、はるか年下の師範出の若い教師が、いつでもどこでも上位を占めていくのは口惜しかったことであろう。

 

「愛国第〇号」機

五銭や十銭の貯金が国防献金に変わり、飛行機が次々と軍に献納され、「愛國第何號」とそのつど命名された。
非常時、非常時、前代未聞の非常時来ると叫ばれ、教材として鎌倉時代の元寇の史実がよく取り上げられた。
あの時の国難も、満州における日本の生命線を侵すこんどの事変もまったく同じだから、
全国民が一丸となって、元寇の時のように、国難排除に当たらなくてはならないと教えられた。
元寇は元軍が来襲し、こんどの事変は日本軍が支那の国土を侵して戦っているのに、誰もこれを咎めなかった。
それを口にできる世の中ではなかった。
三年生以上のどの教室にも、満州国の大きな地図が貼られ、教師の口からやたらと満州の話を聞かされたが、
つまるところは、この地で戦う皇軍将兵の労苦に感謝し、これに報いるにはどうすべきかに落ちついた。


一礼

きちんと挨拶することを怠らなかった。
学校に着くと校門で 一礼、
顕彰した校長頌徳碑に一礼、
さらに五、 六歩進んで二宮尊徳少年像に一礼、
また三十歩ほど進んで郷土の戦没軍人の武功を称えた忠魂碑に敬礼、
そして運動場の中央では奉安殿に向かって最敬礼して、ようやく教室に入れた。

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「笠岡小学校百年史」

男子校時代の思い出

どんな教育を受けたか

スパルタ教育の一話につきる。
半ズボンで校内はすべて裸足で走り回ったものだ。
当時、先生はみんなネンプチ (竹の根)を持っていて、悪いことをするとこれでこつんとたたいた。
すると、こぶが3つぐらい一度にできた。
入学式のとき、笠神社へお参りして修身の教科書をもらった記憶があるんだ勧学祭といって、昭和初年頃からはじまった。
昭和4年ごろからかな、毎月はじめに笠神社へそろって参拝しはじめたのは。
太平洋戦争にはいってからは毎月8日に変わったと思う。(興亜奉公日→大語奉日)。
学校神社ができたのは昭和5年だった。
遠足はあったよ。 高島へ行ったことがある。 (高島宮建跡へおきよ丸で行った。)
海洋少年団ができたのは昭和8年ごろだった。
40名ばかりの団員がカッターをこいだ。
泳げない者は、先生が海へ投げこんだりした。その後、航空少年団ができた。
運動会は女子校の運動場を借りて合同でやっていた。1分もくるわずに演技をした。
学級編成は、忠・孝・敵の3組だった。

(笠岡町立男子尋常高等小学校校門・昭和2年)

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