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「笠岡小百年史」
国民学校発足
昭和16.4.1
国民学校令施行により, 笠岡町男子国民学校・笠岡町女子国民学校と改称。
昭和16.9.15
粗食訓練をし, 麦飯を食べることを奨励。
昭和16.12.8
米英に対し, 宣戦布告の詔書渙発, 帝国必勝祈念のため,全児童笠神社へ参拝。
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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
昭和16年(1941) 「国民学校令」が公布され、
明治以来広く市民に親しまれてきた小学校の名称が 「国民学校」に改められた。
国民学校令の第一条に「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」とあり、
この目的に向かって教育内容も大きく変革していった。
国民学校は初等科六年、高等科二年とし、その上に一年の特修科を認めた。
初等科の教科は国民科、理数科、体鍊科及び芸能科で改められたが、高等科はこれに実業科が加わった。
国民学校の教育理念に基づき授業内容も大きく改められたが、従来の修身の授業内容に「礼法」を加え、国語には従来の「読方」「綴り方」「書方」のほか「話方」が加わった。
国民学校の教科書は、低学年向けには色刷りの絵が多くみられた。
教育上の苦心がみられるが、内容は当時の社会情勢や思想を反映し国家主義的色彩が濃かった。
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「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
日常の生活訓練
昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争に突入した。
幼い子どもにも宣戦の詔勅と緒戦の戦果のニュースは、教師による訓話と相まって、かれらの生活意識を大きく変えた。
体錬科が重視され、時間数も倍増し、その傾向はいっそう強化された。
下校、家庭、社会
毎日の通学も、「通学新体制」の名の下に、きびしい指導が行われた。
町内会あるいは部落単位に各整列場を決め、一定時刻に集合、二列で登校、校門をはいる時は歩調をとって歩いた。
奉安殿に対する感謝のことばと誓いのことばを述べ、最敬礼をして教室に入るという状況であった。
毎月8日は「大詔奉戴日」として全校で学区内の神社に参拝し戦勝祈願をした。
隊列を整え正常歩による行進で、出発から帰着までいっさい無言であった。
校庭における閲童式や閲団式、分列式もよく実施された。
体操の時間にはこの基礎訓練が繰り返され、少年団活動と一体になって行われた。
少年団は、16年1月大日本青少年団として、文部省の直接指導下にお かれ
17年4月には大政翼賛会の管下にはいった。
この少年団は国民学校と一体のものであり、
初等科3年以上の全児童が団員となった。
校長が少年団長を兼ね、訓練の内容は児童の校外生活のすべてにわたっていた。
当時は、多くの家庭に明治天皇や大正天皇、今上天皇・皇后の写真が掲げられ、
敬神崇祖と共に忠君愛国の思想を培う場になっていた。
運動会も強健な身体と不屈な精神を養う体錬科の趣旨にそい、内容は戦時色を濃くしていった。
団体訓練の最もよい機会として分列式や閲童式が取り入れられ、
武道も演じられ、天突体操や相撲体操なども行われた。
ダンスなども時間的なものに内容が変わり、優雅なものは退けられていった。
遠足は春秋二期行われていたが、名称も鍛練遠足と称して毎月行う学校が多くなった。
困苦欠乏に耐え、弁当は「日の丸弁当」に限り、おやつは許されなかった。
隊伍を整え、かなりの距離を歩いて帰ったが、児童は校歌や軍歌を高らかに歌い意気盛んであった。
日ごろの体操の時間にも半裸、はだしで鍛えることが多かったので、かれらの徒歩力は意外に強かった。
防空体制の強化に迫られ、昭和18年11月「岡山県学校防空指針」が制定され、
各学校の防空計画の基準が警戒警報、空襲警報の発令が日増しに頻繁となり、全国主要都市の空襲のニュースもたび重なるようになった。
燈火管制の徹底、防空要員の確保、待避施設の整備等防空態勢には多くの問題が残されていた。
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲にそなえて待避壕がほられた。
訓練警戒警報や訓練空襲警報のサイレンを合図に、毎日のように訓練が行われた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
ポンプ操法やバケツリレーの消火訓練も行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童生徒の保護が最重点であった。
当時の学校日誌をみると、警戒警報も20年の4月ごろからは、連日昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、登下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空づきんを頭一ぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。
工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。
戦争末期の食糧増産運動・集団的勤労作業は、最初、生産的意義よりも教育的意義(生産的効果よりは精神的 効果)が強調されていたが、
しだいに労働力不足を補うようになってきた。
16年に文部省は、青少年学徒食糧 飼料増産運動実施に関する通達を出している。
戦争末期にいたると食糧不足は深刻となり、学校も総力をあげて 増産運動に取り組むこととなった。
昭和17年10月31日付で岡山県は、植物油の増産が急務として、前年と同じように児童・生徒による樹実の採集出荷の努力を要請している。
椿の実をはじめとして、トチ、ナラ、クヌギ、アベマキ、ブナ、カシ、シイ、カシワ類等の植物いっさいにわたっており、
農山村の児童が中心になって採集に努力した。
発送先は小田郡神島外村神島人造肥料株式会社神鳥工場となっていた。
学徒隊
昭和19年3月には体鍊科武道 (薙刀)教授要項が決まり、初等科5年以上の女子を対象に実施された。
その年8月には学徒征空体錬実施要綱がだされ、
航空適性強化のために国民学校と中等学校の男子児童生徒は少年航空兵として進むように強く要請された。
20年に入ると、決戦教育措置要綱により学徒体鍊特別措置要綱が決定し、
その訓練項目は白兵戦技(手榴弾投擲、銃剣術、 剣道、柔道等)と歩走となっていた。
これは、主として国民学校高等科以上の男子を対象とし、
女子も手榴弾投 擲、薙刀、刺突法、護身法等の実戦的訓練が課せられた。
20年5月には戦時教育令が公布され、その第3条により学徒隊が編成されることとなった。
「教職員並=学徒ハ、当面セル戦時緊切要務タル食糧増産、軍需生産及国防、重要研究ニ挺身スル」とその性格を明らかにしている。
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「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
戦時下教育の一面
儀式や学校行事の教育的意義が重んじられるようになり、
戦争に勝つために「必勝の信念」と「堅忍持久」の精神の涵養につとめたのである。
神への戦勝祈願も重要なこととされ、毎月一度は全校をあげて戦勝祈願のための神社参拝もおこなった。
現人神である天皇を中心とした神国主義の形成のために、御真影を安置してある奉安殿や校内にある神祠の清掃は特に重要なことであった。
国民学校になって武道が新しくとり入れられ、児童の体力づくりと精神力の育成のための重要な教科として位置づけられた。
戦意の昂揚のために、日華事変以後は、新しい敵の陣地が陥落するたびに、日本軍の勝利を祝福するために昼は旗行列、夜は提燈行列、学校においてもそれそうおうの祝福をしたのである。
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