明治26年生まれの祖父は、平成4年に98才で亡くなったが、中学校のことを
死ぬまで「中学」とは言わなかった。
死ぬまで「新中」(しんちゅう)と呼んでいた。
祖父にとって中学校とは、分限者とか支配層の子弟に限定された学校であったのだろう。
昭和22年に誕生した「新制中学校」は、
”初等学校”か”中等学校”かで議論があり
衣・食・住、そのすべてが不足した時代に設立された。
・・・
新制中学校の発足とその悩み
中学校発足までの経過
昭和22年4月1日施行の学校教育法により、新制中学校が設置された。
文部省では、これに先立って同年2月、地方長官あてに「新制度実施準備の案内」を送り、
ただちに、新制中学校の設立 にとりかかるよう指示した。
新制度を円滑に実施するため、市町村部および県単位に、民主的に選ばれた人々によって「新学制実施準 備協議会」を組織すること。
昭和22年度には、第1学年(第7学年) だけ実施
第2学年(第8学年)は23年度から、
第3学年(第9学年)は24年度からそれぞれ義務を実施する。
22年度の編成は、次のとおりとする。
新制中学校第1学年(第7学年) は、現在の国民学校第6学年を修了する児童を収容する。
第2学年(第8学年) (非義務制)は、現在の国民学校高等科第1学年および青年学校普通科1年の希望者
第3学年(第9学年) (非義務制)は、現在の国民学校高等科第2学年、青年学校普通科2年および本科1年の希望者を収容する。
中学校、女学校、実業学校の第8学年、第9学年に相当する者は、併設中学校の相当学年に収容する。
男女共学を実施し、全日制のみとして、授業料無徴収であること。
新制中学校は、独立校舎をもち、専任の校長および教職員を任命すること。
これをうけて、岡山県では、次のような新制中学校設立の指導方針を定めた。
新制中学校設置の指導方針
学校の規模は、地域社会の実情に即して6学級以上20学級以下を標準とする。
通学距離は、片道6キロメートル程度をもって限度とする。
できるだけ組合立中学校を設置するよう指導する。
校舎は、独立建築を原則とする。
中学校の設立
22年4月1日付で教員の任命があり、各校それぞれ開校に着手した。
何もない白紙の状態で、食糧事情もきわめて悪かった時点で、各市町村一斉のスタートという作業であるから、
筆舌に尽くしがたい苦心の中を、4月28日までには一応準備を完了して新しく開校のはこびとなった。
旧制中等学校の2,3年は併設中学校という名で存続した。
校舎は、さしあたって小学校の高等科の教室があき、それを新二、三年に充当した。
不足するので、青年学校、旧制中等学校、公会堂、工場、兵舎、寺院等利用できる施設をフルに使用し、
独立の校舎をもったものは極めて少なかった。
「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
・・・
(福山市東中・昭和28年3月卒業アルバム)
・・・
「岡山県史第13巻現代Ⅰ」 岡山県 昭和59年発行
新制中学校の発足
新制中学 校の理念
1947年3月、
戦後の新しい学校教育の在り方を明示した学校教育法の制定によって、六・三・三四の単線型の学校制度が確立された。
新学制の第一の特色は、
初等教育としての小学校六ヵ年、
中等教育はこれを上下に分かって、中学校三カ年、高等学校三ヵ年、
その上に高等教育としての大学四ヵ年をもって、
学校の基本となる体系を決定した。
これは、在来のように入学した学校によっては、より上級の学校へは進学できなくなるという、
いわゆる袋小路の多い複線型の学校体系から、誰でもその努力と能力に応じて大学まで進学することができるという、
民主的な単線型の学校制度である。
新制中学校は、戦後の財政難、生活難の中であるにもかかわらず、
アメリカ合衆国教育使節団の勧告により、
言わば強制的に合衆国から押し付けられた学校制度であったと言える。
そのため校長は、新制中学校をより良く運営し、それを充実して行くためには多くの苦労があった。
・・・
「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
学制改革
昭和22年「教育基本法」「学校教育法」が制定された。
学校の名称も国民学校初等科は小学校に改められ、高等科は廃止された。
さらに三年制の中学校が新しく設けられ、22年4月1日小・中学校9ヶ年を義務教育とする六三制が発足した。
このことにより、従来の国定教科書制度が廃止された。
小学校では教育改革の一環として教科書に多様性をもたせ、各学校のカリキュラム計画に適合したものを選び創意工夫し教育を行っていくことが目的だっ た。
原則として検定教科書か、または文部省著作の教科書を使用することになった。
・・・
「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
序章 後戦の教育改革と
「学校教育法」により、新制の中学校および高等学校が成立し、
旧制の諸学校を解体して中等教育段階は中学校・高等学校として再編された。
新学制は教育の機会均等の原則により、
学校体系の民主的単線化を行い、
また中学校の義務制を実施して、
前期中等教育を義務教育とした。
そして中学校は昭和22年度から、高等学校は昭和23年度から発足した。
占領政策と中等諸学校
青年学校は勤労青年のための定時制の学校であり、中等学校とはみなされていなかった。
しかし生徒の年齢は中等学校段階に相当しており、
新学制の成立に際して中学校および高等学校の生徒として受け入れられる措置がとられた。
また青年学校の教員の多くは新制中学校の教員となった。
これらの点から青年学校は新制中等学校の一つの母体とみることができる。
青年学校には普通科と本科をおき、普通科は国民学校初等科卒業者が入学し、修業年限は二年、
本科は普通科修了者または国民学校高等科卒業者が入学し、男子は五年、女子は三年であった。
昭和14年に男子の義務制が実施され、その後戦時体制の強化にともなって青年学校は軍事教育を主体とする
新制の中学校の主要な母体となったものは国民学校の高等国民学校高等科であった。
新制の中学校は生徒の面からみると、国民学校高等科・青年学校普通科・中等学校低学年等を統合して編成されたが、
中でも国民学校高等科は同年齢層の国民の最も多くの者を収容していた。
また 新制の中学校は国民学校と同様に市町村に設置義務が課せられていたので、 新制の中学校の多くは実質的に国民学校高等科を中心母体として設置された のである。
国民学校は初等科(六年)と高等科(二年)から編制され、国民学校高等科は初等科と違って全国民に共通な課程ではなく、中等学校に進学しない大衆の ための学校であった。
したがって新制の中学校とは本来異なる性格の学校であった。
そこで国民学校高等科を主要な母体として新制の中学校を設置するためには、学校の性格を大きく転換する必要があり、そこに多くの困難な問題が横たわっていたのである。
・・・
「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会 昭和49年発行「岡山県教育史続編」
中学校創設当時の苦心
(当時岡山一中校長)
中学校は当時の町村長にとっては米のキョウシツ・供出と中学校のキョウシツ (校舎建築)はまさに命取りといわれ、
このために自殺した村長があったほどです。
新制中学校は、これまでの国民学校高等科と青年学校を合わせて作ったものですから
校舎はなく、市町村の財源もきわめて少なく、机もなければ教科書もない。
校長としてもっとも苦しんだのは、
よい教員を集めることで、
小学校・青年学校・中等学校からゆずってもらった寄せ集めの陣容でずいぶん困ったが、
先生がたはよく努力してくれたと思います。
・・・
毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一か月、
半数以上そろっていない各教科の教員を集めること、
三か所の小学校と青年学夜に分散して学校を開設する計画であったのを二か所にまとめる交渉から仕事を始めた。
学校の位置指定は三か町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず分裂寸前まで追いこま れたこともあった。
・・・