はるかなる山河に
昭和18年秋、戦局の悪化にともなって文科系大学生への徴兵猶予が停止され、全国で臨時徴兵検査が実施された。
10月21日、冷雨の明治神宮競技場で出陣学徒の壮行会が行なわれ、数万の角帽・学生服姿の隊列が分列行進した。
トラックの上にはねかえる泥のしぶきをうけながら、自分たちの運命をひとりひとり噛みしめるように、誰も黙々と行進するだけであった。
東大経済学部の一学生は、その真情を書き遺した。
「いよいよ自分も出陣、徴兵猶予の恩典がなくなり、まさに学徒出陣の時は来た。
自分は命が惜しい、しかしそれがすべてではないことはもちろんだ。
自分の先輩も、またこれから自分も、また自分の後輩も戦いに臨んで死んでいく。
いったい死とは何だろうか。
大義のための 大義なんて何だ。
痴者の寝言にすぎない。」
かれらはペンを銃にかえ、教師や親と別れ、陸軍に海軍に入隊し、大陸や太平洋の戦場へ急遽送り出され、
その多くはふたたび還って来なかった。
死んだ人びとは、還ってこない以上、生き残った人びとは、何が判ればいい?
死んだ人びとは、もはや黙ってはいられぬ以上、生き残った人びとは沈黙を守るべきなのか?
「教養人の日本史・5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行
・・・
「殉皇至誠」の文字を見つめる特攻隊員は何を思うか
(雑誌「丸」 昭和44年11月号 潮書房)
・・・
(Wikipedia)
太平洋戦争中の学生の徴兵猶予停止による兵役
昭和18年12月時点入隊者数推計が
旧制大学で28,877名、
専門学校で13,516名、
旧制高校で1,593名、
大学予科で3,895名。
総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、
大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
出征者は約10万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関しても正確な数は分かっていない。
・・・
(雑誌「丸」 昭和44年11月号 潮書房)
特別寄稿 田英夫 TBSニュース制作部長
(元震洋第37突撃隊 海軍少尉(兵科4期) 東京大学経済学部出身)
一夜明ければ“八階級特進"
昭和18年の9月だった。
高校がくりあげ卒業となり、真夏の大学入試で、東大への合格がきまった喜びの直後の私に「学徒出陣」のニュースが伝えられた。
しかし、そのころには、私たちの間ではそれはもう時間の問題のように思われていた。したがって、さして大きな精神的 動揺はなかった。
雨の神宮競技場で、東条首相みずからが、出陣学徒の分列行進を閲兵したとき私は、それには参加せず、静かに家にいた。
別に「出陣」を拒みたい気持がそうさせたのでもない。ただ、家にいたかっ だけだった。
そして12月、私は学生服の上に日の丸のタスキをかけ、家族や友人に送られ 東京駅をたった。
父が神戸まで送ってくれた。
私は広島県の大竹海兵団へはいったのである。
3ヶ月間の大竹での「二等水兵」の生活は、苦しいものだった。
しかし、わずか2ヶ月足らずの大学生活で、ここではじめておなじ経済学部の「学友」と「戦友」になった。
冬の冷い海でのカッター訓練、武装行軍も苦しかった、春になって、神奈川県の武山海兵団へうつり、すぐに海軍予備学生となった。
二等水兵から予備学生は〝兵隊の位”にして、ざっと八階級の特進であった。
それを一夜で飛び上がったのだから、飛びこされる側の教員の下士官はその夜ひと晩中荒れくるい、手当たりしだいにわれわれをなぐったのも無理はない。
「諸君のなかから、特別攻撃隊員を志願するものを募る」
昭和19年の秋のある日の夕方のことである。
突然、「予備学生、総員剣道場に集合」命令がでた。
白い作業服の学生は、すぐに剣道場に集まった。
ところが、そこの空気は異様であった。
紺の第一種軍装に身をつつんだ大尉、中尉クラスの教官が、入口から周囲の窓までを警備するかのようにかためていた。
その表情もかたかった。
やがて、校長が壇上に立った。
校長は静かな、低い声で話した。
「諸君のなかから、特別攻撃隊員を志願するものを募る」
物音ひとつしなかった。
隣で不動の姿勢をとっている者の息の音が 聞こえるような気がした。
校長はさらに言葉をつづけた。
「特別攻撃隊の種類は、潜水艦によるもの特殊潜航艇によるもの、魚雷による〝震洋"などで
志願するものは明朝、〇八〇〇までに 学校区隊長に申しでるように。
なお、当然”軍機” に属することである から、絶対に口にしてはならぬ」その夜は、だれも眠れなかった。
この第一次の特攻隊員の募集のとき、
志願したのは四百人の学生中、およそ一割の四十人前後だったが、そのほとんど全員が死んだ。
そのなかには、人間魚雷「回天」で死んだ者もおおい。
それから一ヵ月後、卒業の直前にふたたび特攻隊員が募集された。
私は、今度はすぐに志願した。そのときの気持のなかには、
「どうせ志願しないでいれば、軍艦に乗ることになる。そしていつかは死ぬ。」
こうして私は昭和19年の12月、長崎県の川棚にあった魚雷艇訓練所へ、少尉として赴任した。
震洋特別攻撃隊」の隊長としての訓練をうけるためであった。
「殉皇至誠」
終戦まぎわの八月はじめには、私たち所属していた特攻隊の「第三十三突撃隊」の隊長から、
「全艇爆装せよ」
という命令がだされ、私たちは徹夜で 全部の艇に三百キロの爆薬を積みこむ作 業をおわっていた。
終戦があと数カ月、いや数週間おそかったなら、私は、死んでいたかもしれない。
当時の「学徒兵」の心境を、いまの若い人たちにわかってもらうことは、たいへんに困難であると思う。
同時に、それをいまの六十歳を越えて いる人たちにわからせることも、よりいっそう難しい。
あの当時は〝国のために死ぬことは美しいことである"ということを、現在では想像もつかないことなのだが、おおくの国民が心の底からそう思っていた。
「特攻隊」の場合は、若く尊い生命と、そして純真な心を、あのような方向へ追いやった指導層の責任こそ、
もっとも責められねばならないのは明らかである。
・・・
「教養人の日本史・5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行
特攻隊
それは、極限状況において「死」を超越しえた時点でのみ考えられるものにすぎない。
ゼロ戦(海軍零式戦闘機) に250キロ爆弾をいだいて乗員もろとも敵艦隊に体当たりを敢行させた。
アメリカ軍は一 時、恐慌状態におちいった。
大本営はこの戦法を日本武士道の「玉砕」の精神とむすびつけ、「神風特別攻撃隊」と称揚し、
以後、兵力の不足を補う基本戦術として採用した。
アメリカ側は、「自殺飛行機」とよび、
対空砲火の弾薬と洋上遠く戦闘機を派遣して早期に撃墜するという方法で、被害を最少限にくいとめるよう になった。
・・・