占守島の戦いは、それを記した本のどれもが、戦車で戦った連隊長と、札幌にあった方面軍司令官の英雄視した話が多い。
この門田隆将の本は軍使だった長島大尉のインタビューが中心になっている。
彼の本に限らないが、もう10年早く記録に着手すれば「占守島の戦い」は多くの事実が残ったであろう。
今となっては濃い霧に覆わたままで、本当のところはよくわからない気がする。
・・・・・
「占守島の戦い」は、戦後何かの理由で隠されていたのだろうか?
それとも全員シベリア送りのため世にでなかったのだろうか、
いや昭和31年といえば生きている人は、全員が復員している。
知識人・荒垣秀雄が、そして朝日新聞社が知らないはずはない。
不思議だ。
「天声人語」 1956(昭和31)年8月9日 荒垣秀雄
11年前のきのうきょう、日ソ中立条約はまだ有効だった。
それを反古にしてソ連は、無抵抗の日本人を満州の野にけちらして、
参戦わずか一週間で”戦勝国”となった。
ソ連の兵士は血一つ流さずに、千島も何もとってしまった。
・・・・・
「太平洋戦争最後の証言」 門田隆将 小学館 2011年発行
ソ連軍急襲「占守島」の激闘
・・・
真っ先にソ連軍と交戦したのは、村上少佐が率いる独立歩兵大隊の約千名である。
占守島を一望できる四嶺山で激しい戦いが始まった。
明けて8月19日になっても戦闘はつづいた。
村上隊長は旅団本部に打電した。
「四嶺山は全員玉砕する」
だが、旅団本部は、村上大隊の玉砕を許さなかった。
「玉砕は許さない。撤退を命ずる」。
・・
千歳台にいた竹下少佐が率いる大隊は銃撃戦を開始したがソ連軍戦闘機から波状攻撃でばたばた死者が出た。
大隊本部の竹下大隊長が負傷した。
・・
戦車聯隊の池田連隊長
連隊長は両軍が撃ち合っている四嶺山へ進んだ。
ソ連の猛火はすさまじく、装甲の薄い日本戦車は貫かれていった。
池田連隊長は最前線で戦死した。
戦車隊の戦死者は95名を数えた。
・・
第91師団の堤師団長は停戦交渉の軍使を派遣する決意をした。
第73旅団の杉野巌旅団長の作戦指導補佐の長島厚大尉が命じられ、
8月18日午後2時ごろ20名弱で出発した。
満90歳を迎えた長島本人は述懐する、
「戦闘は激しく、私たちは白旗を掲げ、走ったり、ほふく前進を繰り返して、敵弾の中を進みました」
「上陸指揮官のアルチューフィン大佐に停戦文書を手渡しました」
ソ連軍軍使6名を連れた長島たちは2時間後第73旅団の司令部に戻った。
長島がソ連軍の軍使を杉野旅団長に紹介した。
「本日午後3時に竹田浜において、日本側高級軍使と会いたい」
ただちに電話連絡によって堤師団長にそのことが伝えられた。
・・
それから、紆余曲折を経て両軍の間で停戦が合意したのは、その三日後の
昭和20年8月22日のことである。
それまで日ソ両軍の衝突は各所でつづいたが、この日午後2時、
ソ連警備艇のキーロフ号にてソ連軍カムチャッカ防衛区のグネチェコ司令官と堤第91師団長との間で合意された。
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この門田隆将の本は軍使だった長島大尉のインタビューが中心になっている。
彼の本に限らないが、もう10年早く記録に着手すれば「占守島の戦い」は多くの事実が残ったであろう。
今となっては濃い霧に覆わたままで、本当のところはよくわからない気がする。
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「占守島の戦い」は、戦後何かの理由で隠されていたのだろうか?
それとも全員シベリア送りのため世にでなかったのだろうか、
いや昭和31年といえば生きている人は、全員が復員している。
知識人・荒垣秀雄が、そして朝日新聞社が知らないはずはない。
不思議だ。
「天声人語」 1956(昭和31)年8月9日 荒垣秀雄
11年前のきのうきょう、日ソ中立条約はまだ有効だった。
それを反古にしてソ連は、無抵抗の日本人を満州の野にけちらして、
参戦わずか一週間で”戦勝国”となった。
ソ連の兵士は血一つ流さずに、千島も何もとってしまった。
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「太平洋戦争最後の証言」 門田隆将 小学館 2011年発行
ソ連軍急襲「占守島」の激闘
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真っ先にソ連軍と交戦したのは、村上少佐が率いる独立歩兵大隊の約千名である。
占守島を一望できる四嶺山で激しい戦いが始まった。
明けて8月19日になっても戦闘はつづいた。
村上隊長は旅団本部に打電した。
「四嶺山は全員玉砕する」
だが、旅団本部は、村上大隊の玉砕を許さなかった。
「玉砕は許さない。撤退を命ずる」。
・・
千歳台にいた竹下少佐が率いる大隊は銃撃戦を開始したがソ連軍戦闘機から波状攻撃でばたばた死者が出た。
大隊本部の竹下大隊長が負傷した。
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戦車聯隊の池田連隊長
連隊長は両軍が撃ち合っている四嶺山へ進んだ。
ソ連の猛火はすさまじく、装甲の薄い日本戦車は貫かれていった。
池田連隊長は最前線で戦死した。
戦車隊の戦死者は95名を数えた。
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第91師団の堤師団長は停戦交渉の軍使を派遣する決意をした。
第73旅団の杉野巌旅団長の作戦指導補佐の長島厚大尉が命じられ、
8月18日午後2時ごろ20名弱で出発した。
満90歳を迎えた長島本人は述懐する、
「戦闘は激しく、私たちは白旗を掲げ、走ったり、ほふく前進を繰り返して、敵弾の中を進みました」
「上陸指揮官のアルチューフィン大佐に停戦文書を手渡しました」
ソ連軍軍使6名を連れた長島たちは2時間後第73旅団の司令部に戻った。
長島がソ連軍の軍使を杉野旅団長に紹介した。
「本日午後3時に竹田浜において、日本側高級軍使と会いたい」
ただちに電話連絡によって堤師団長にそのことが伝えられた。
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それから、紆余曲折を経て両軍の間で停戦が合意したのは、その三日後の
昭和20年8月22日のことである。
それまで日ソ両軍の衝突は各所でつづいたが、この日午後2時、
ソ連警備艇のキーロフ号にてソ連軍カムチャッカ防衛区のグネチェコ司令官と堤第91師団長との間で合意された。
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