しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

(昭和20年)八月十七日の開戦  

2021年08月15日 | 占守島の戦い
占守島(しゅむしゅとう)の軍の最高責任者は、笠岡市ゆかりの杉野巌旅団長であるが、物の本には登場しないことが多い。
最大の理由は、本人が書き残したり、語ったりすることがなかったからであろう。
北海道分割を阻止した功績から離れ、戦後は笠岡市で隠遁的な生活をされた。



「歴史街道 令和2年9月号」  PHP 2020年発行
八月十七日の開戦  早坂隆




樋口季一郎

8月15日を迎えても、戦争は終わったわけではなかった。
8月17日、
北海道に野心を持つソ連が、千島列島の占守島に上陸したのである。


占守島での自衛戦争

「ヤルタ密約」
米英ソによる「ソ連はドイツ降伏後3ヶ月後に対日参戦する」という密約が交わされていた。
日本はこのような国際社会の奸計に翻弄された。
占守島への不意打ちも、こした流れの中で始まった。

当時、第五方面軍の司令官となっていた樋口は、ソ連軍の侵攻を札幌の方面軍司令部で知った。
「断固、攻撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と打電した。
ソ連の最高指導者であるスターリンは、釧路と留萌を結んだ北海道の北半分を占領する野望を有していた。
占守島を占領した上で、千島列島を南下し、一気に北海道に上陸する構想を有していたのである。





戦車隊の神様・池田末男
こうして占守島での戦いが始まった。
18日、午前1時過ぎソ連軍の上陸部隊は艦砲射撃の援護の下、占守島北端の竹田浜に殺到した。
竹田浜でソ連軍を迎え撃ったのは、村上則重少佐率いる独立歩兵第282大隊である。
竹田浜一帯は熾烈な戦場と化した。
村上少佐は四霊山への後退を余儀なくされた。
その後、ソ連軍は四霊山へ肉薄、日本軍は押され気味であった。
そんな戦況を一変させたのが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊である。
同隊は、満州から移された虎の子の精鋭部隊であった。
午前5時30分、池田戦車隊は出撃。
占守街道を北上し四霊山へと向かった。到着したのは午前6時20分ごろである。
この池田戦車隊の活躍により、ソ連軍は大きな打撃を被り、深刻な混乱に陥った。
天候不良のため、ソ連軍は航空兵力を十分投入できなかった。
結局ソ連軍は竹田浜へと後退、池田大佐の戦死はあったものの、日本軍は以降も総じて同島での戦いを優位に進めた。

大本営の決定によって「終戦後の戦闘行為は、それが自衛目的であっても18日午後4時まで」と定められていた。
日本軍は優勢のまま、18日午後4時をもって積極的な戦闘を控えた。
以降も散発的な戦闘は起きたが、最終的な停戦が成立したのは21日であった。
武装解除は23日から行われた。
同島で捕虜になった日本兵はその後、シベリアなどに抑留された。

分断国家となる道から救った戦い

占守島の激戦によってソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐した。
こうしてスターリンの「北海道の北半分占領」という計画は完全に頓挫した。
樋口が自衛戦争としての抗戦を命じず、占守島が一挙にソ連軍に占領されていたとしたら、その後の日本はどうなっていたであろうか。
占守島における兵士たちの奮闘と犠牲がなければ、戦後日本はドイツや朝鮮半島のような分断国家になっていたはずである。
占守島の戦いは小さな島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘であった。








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