しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

元独立臼砲十八大隊の元隊員の話し

2021年08月16日 | 占守島の戦い
「黒崎の郷土史」 遠藤堅三 岡文館  平成19年発行

甲谷照正さんの太平洋戦争
(抜粋)

昭和19年 
4月15日
赤紙来る。
4月22日 
御前神社で歓送式。父・弟、金光駅より付き添いで和歌山市まで同行。
4月25日 
和歌山の独立臼砲第18大隊第一中隊に入隊。
5月11日 
隠密裏に和歌山を出発。
6月16日 
温禰古丹島(おんねこたんとう)に上陸。

昭和20年
7月30日 
内地より最後の郵便物来る。
8月4日 
占守島長崎海岸に上陸。
8月13日 
後続の船団、米艦隊の攻撃を受けことごとく海没と知る。
8月15日 
この日、天皇の重大放送ありと聞くも僻地の陣営では、その放送聞くすべなし。時局の重大さを憂い全国民一大奮起を促すお言葉であろうと思っていた。

8月16日 
長崎海岸より使役で帰りたる者の話では15日の天皇陛下の放送は終戦詔勅といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日 
朝、貴志小隊長より終戦詔勅の確報を聞く。



8月18日 
未明、ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ。我が方、敵を水際に押すも大本営よりは抵抗ならずの命令、彼我膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三にわたり軍使を出して交渉に入れども事態は妥結せず。見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日
我々23名は孤立。
食料なく天神山中隊に食料受領に行く、中隊本部の所在も不明のまま3名出発する。帯剣は3,小銃は1、途中敵弾の雨霰、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命ぜられ帰隊する、敵弾の飛来は漸く治まる。
8月22日
現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日
漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍終結、武装解除される。
8月24日
我が大隊は三好野付近に集結し翌日現地で戦没者の慰霊祭を行う。
9月5日
ソ連軍の指揮下に入り作業に従事す。
9月18日
日ソ激戦地跡の戦場を整理、ソ連軍の戦死者は埋葬して白木の墓標を建てるも、日本軍の屍は半ば朽ち放置されたまま、惨め。
10月10日
ソビエト船に乗船、占守島を出航。




10月20日
マガダンより奥地80キロのフタロヒに着く。約4.000名。
10月22日
森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、日本衣類はぼろぼろに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさ凍傷にかかる。
栄養失調、体力は日々衰える。
11月3日
激しい吹雪の朝、作業は続行。
収容所の広場に整列し南に向かって故国への遥拝、黙祷。
大隊長の訓示、今日、故国では菊薫る明治の佳節である。
その後、鋸となたを持って雪の途を山へ。
11月下旬
下痢患者続出、死者も出る。
12月中旬
凍傷にかかる、右手親指、人差し指、中指三本の指、凍傷。
忽ちにして爪は抜ける、痛み激しいい凍兵休をくれる。


昭和21年
3月25日
この頃明け方、オーロラが美しい。
4月中旬
日増しに日が長くなり午後11時頃でも明るい。
6月初旬
作業優秀者のグループに入る。

昭和22年
3月2日
初めて捕虜用郵便葉書が渡され、郷里に健在と便り認める。
5月
この頃ダモイ(帰国)の噂、濃厚なり。

昭和23年
7月下旬
衰弱してマガダンに移る。油送菅配管の作業員として草原に出る。

昭和24年
4月
大工要員として出る。
7月
帰国の噂、濃くなる。
9月15日
シベリア寒気を覚える頃となり、また越冬か。
その日の作業を終えた頃収容所から使いがくる。
作業は今日で打ち切り、私物は持ち帰るようにと“ついに帰るれ”
丸4年間、瞬時も心から去らなかった帰国、一同喜色溢れる。
9月21日
マガダン港を出港。
9月24.25日
海上時化る。船は宗谷海峡に入る。
9月26日
夕刻ナホトカ港に入る。下船して収容所に入る。
9月27日
厳しい私物検査、前歴職業が警察、憲兵の人は列を外された。
9月30日
ソ連を去る式が行われた。
岸壁で名前が呼ばれると2人1組でスクラム組んでタラップを上がるのである。
午後3時、船は出港二度と来ないぞソ連港。



(舞鶴引揚記念館)

10月3日
鳥居が見える。シベリアで日本の神社は全て取り壊したと聞いていたので鳥居が見えた時意外に思った。
桟橋に降りる。舞鶴援護局の庭にはコスモス咲き乱れ、金木犀の芳香漂い秋陽さんさんと照り注ぐ。
10月4日
援護局内で東舞鶴青年団の慰労の夕が催され歌謡曲、映画あり。
10月11日
帰郷の日、夕方6時頃京都駅に着く。妻、叔父来てくださる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘、親類の方がたも来てくださる。
11時頃、金光駅に着く。
黒崎村よりも部落の人達が大勢迎えに来てくださり、郷関を出て5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。


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