しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

浜子像

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・広島県福山市松永町  JR松永駅前


入浜式塩田は昭和30年頃まで、およそ300年間つづいた。
寄島塩田では、↓下記だが、松永塩田もほぼ同じだったと思える。


塩田で働いた人たちの労働は厳しかった。
天候が相手で、やけつく夏も、凍りつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回の飯を食べるきつい仕事であった。

塩田は1町5反、2町を短冊型に区画し、これを1塩戸とし経営された。
塩戸毎に
棟梁(2交代で塩を焚く、夜勤を夜釜という)
上浜子(ばんこ)浜子の頭
浜子 1戸5~6人。作業の中枢となって晴雨にかかわらず出勤する。
きっぷ 女や子供・老人で寄せ子といって浜持ち作業の日だけ出勤する。
計約10人くらい。
「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行



砂を沼井にすこいこみをするのが、特に
重労働中の重労働であったそうだ。








「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

広島の製塩業

近世の製塩業は17世紀半ばに瀬戸内海沿岸部で入浜式塩田が開発されて以来、一気に活気づいた。
以前のように人力ではなく、潮の干満を利用するという当時としては画期的な手法の塩田だった。
これにより塩田の経営の効率化に成功し、生産性が向上したのである。

県内の製塩業にこの新手法が導入されたのは、慶安3年(1650)からだ。
福山藩は万治元年(1658)に赤穂から技術者を招いて、沼隈郡松永に入浜式塩田を完成させている。
この時、松永の入浜式塩田を主導した藩士・本荘重政は、その後の松永の発展の基礎を築いたから「松永の父」と呼ばれるようになったという。

作られた塩は海運を通じて日本中に運ばれるようになり、芸備地方は江戸時代を通じて国内有数の塩の一大産地として知られるようになった。









撮影日・2013年1月7日

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