しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「少女たちの戦争」めぐり来る八月

2022年05月06日 | 昭和16年~19年
旧制女学校の、工場への動員は”軍服”と”兵器”に分かれるが、
兵器に派遣された人たちは戦後も、何年かは口を閉ざしている。
機密の呪縛や、造った物の使途への自責の念がつづいたようだ。





めぐり来る八月 津村節子

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行


女学校に入学した年に太平洋戦争が始まり、
旅行と言えるのは、三年生の夏の赤城山登山で、
目的は心身の鍛錬である。
体操服にもんぺをはき、杖にすがって、あえぎながらただ歩き、ただ登る。
それでも山頂で写した写真は、日焼けした顔に白い歯をみせてみな笑っている。


まだその時には、戦争に負けるなどとは思ってもいなかった。
私たちの目標は、心身を鍛え、銃後の守りを固め、東洋平和のためのいくさに勝つことだけだった。
軍国思想の教育が,真っ白な頭の中にたたき込まれていて、
反戦思想など芽生える隙もなかった。
列強の侵略からアジアを解放し、大東亜共栄圏を築く聖戦だ、と教え込まれていた。
これまでに負けたことのない神国日本は、神風が吹いて必ず勝つ、と大人たちは言っていた。


昭和19年5月16日に、学校工場化が通達された。
東京都立第五高等女学校では、その年の8月15日から、
5年生は中島飛行機、
4年生は立川飛行機と北辰電機へ動員された。
勤務時間は8時から6時まで、休日は一月一度だけだった。
昼食は高粱(こーりゃん)めしか、虫のついたにおいのする古米。
おかずは大根葉の煮物か、イモやカボチャの煮物。
軍需工場だからまだましだったらしい。


各班が一部分をやっているので、一体何を造っているのか誰にもわからなかった。
部屋の入口には「軍機保護法により許可なく立入禁止」の札が出ていた。
自分たちの造っている物は何か教えて欲しい、
それがわかれば張り合いが出て、もっと頑張れる、
とある日みなで班長に迫った。
とうとう特殊潜航艇用の羅針儀を造っているのを聞き出した。
自分たちの作っている羅針儀を装備した人間魚雷で、若者たちが死んでいく。
無論親にも秘密を守り、戦後だいぶたってから話した。

神にすがる思いだった神風は吹かなかった。
私たちが造っていた羅針儀を積んだ特殊潜航艇に乗って、
若者たちが自爆して行ったのである。



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