「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町 昭和59年発行
食事
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。
米飯
化学肥料を使うようになるのは、大正後期からである。
カネゴエ(金肥・きんぴ)といえば、豆粕や、油粕といって菜種粕、ニシンの干鰯などであった。
ニシンは、押切で切って刻んで、水田の稲、四株の真ん中に押し込んだ。
四株に効いた。
魚肥を買う余裕のない家が多く、豆粕くらいであった。
牛の飼料には、畔草や山草を刈って与えた。
山で下草刈りおwし、葉が沢山ついている枝木を切ってきて、5~6寸の長さに押切で切る。
稲藁や麦藁などど交ぜて、厩へいれて敷きわらとし、フミコミをつくった。
月に1~2回、厩から厩肥をカド(前庭)に出して、積み上げ、よくくもした。
これが水田のハゼゴエで、肥料の主役であった。
肥料代を支払うと収益は微々たるものであった。
屑米と稲藁がのこればよいし、裏作の麦が自分のものであった。
米飯を食べたのは「正月三日に、盆踊り」が首であり、冠婚葬祭のときであった。
麦飯
麦飯にするのは裸麦である。
裸麦はヤス麦といっている。
ヤス麦の荒麦は唐臼でついて精白する。一遍では精白しにくいので三遍行ってシアゲ麦にした。
戦後ヒシャギ麦になった。
米とヒシャギ麦を交ぜて洗い、炊くことができたので、手間が省けた。
糧飯(かてめし)
麦飯または米飯に、大根とか大根葉、サト芋、ゴボウ、ニンジン、ネギなどを切っていれ、醤油で味付けしたものは、焚きこみ、煮込み、マゼ飯、味付け飯、などといっている。
大根だけとか、葉っぱだけ、あるいはソト芋、ジャガイモ、さつま芋だけ切っていれれば
大根飯,菜飯、芋飯、といった糧飯になる。
ハチの子
焚きあがった釜の飯にいれ、味つけしてまぜた蜂の子飯。
ハチの子を生のまま飲み、薬になるというところは多い。
クサギの虫
蒸し焼きにして子供に食べさすと癇の虫薬になる。
イチジクの虫、ナラの木の虫、イナゴを食べる。
マムシ
ハミという。
皮をむいて干した骨を、長さ2cmほどに切って焦がして食べる。
骨を粉にして炒り粉にいれた。
食事
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。
米飯
化学肥料を使うようになるのは、大正後期からである。
カネゴエ(金肥・きんぴ)といえば、豆粕や、油粕といって菜種粕、ニシンの干鰯などであった。
ニシンは、押切で切って刻んで、水田の稲、四株の真ん中に押し込んだ。
四株に効いた。
魚肥を買う余裕のない家が多く、豆粕くらいであった。
牛の飼料には、畔草や山草を刈って与えた。
山で下草刈りおwし、葉が沢山ついている枝木を切ってきて、5~6寸の長さに押切で切る。
稲藁や麦藁などど交ぜて、厩へいれて敷きわらとし、フミコミをつくった。
月に1~2回、厩から厩肥をカド(前庭)に出して、積み上げ、よくくもした。
これが水田のハゼゴエで、肥料の主役であった。
肥料代を支払うと収益は微々たるものであった。
屑米と稲藁がのこればよいし、裏作の麦が自分のものであった。
米飯を食べたのは「正月三日に、盆踊り」が首であり、冠婚葬祭のときであった。
麦飯
麦飯にするのは裸麦である。
裸麦はヤス麦といっている。
ヤス麦の荒麦は唐臼でついて精白する。一遍では精白しにくいので三遍行ってシアゲ麦にした。
戦後ヒシャギ麦になった。
米とヒシャギ麦を交ぜて洗い、炊くことができたので、手間が省けた。
糧飯(かてめし)
麦飯または米飯に、大根とか大根葉、サト芋、ゴボウ、ニンジン、ネギなどを切っていれ、醤油で味付けしたものは、焚きこみ、煮込み、マゼ飯、味付け飯、などといっている。
大根だけとか、葉っぱだけ、あるいはソト芋、ジャガイモ、さつま芋だけ切っていれれば
大根飯,菜飯、芋飯、といった糧飯になる。
ハチの子
焚きあがった釜の飯にいれ、味つけしてまぜた蜂の子飯。
ハチの子を生のまま飲み、薬になるというところは多い。
クサギの虫
蒸し焼きにして子供に食べさすと癇の虫薬になる。
イチジクの虫、ナラの木の虫、イナゴを食べる。
マムシ
ハミという。
皮をむいて干した骨を、長さ2cmほどに切って焦がして食べる。
骨を粉にして炒り粉にいれた。
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