しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「戦略爆撃調査団」自殺攻撃

2025年02月27日 | マッカーサーの日本

日本国内では、今でもトッコータイと呼ばれている”必死”の自爆攻撃、特別攻撃隊。
米国の言う”自殺攻撃”という言葉は、
日本人である我々にとっては、英霊に対してあまりに不躾であり、とても使えない。

しかし、特攻隊を発案し、命令・実行したのは日本人であり、
軍上層部の関係者の正当性を認めることも、とてもでないが、できない。

 

 


・・・

「ジャパニーズ・エア・パワー」 大谷内一夫訳 光人社 1996年発行


パイロット

日本軍は、熟練パイロットの価値を低くみていた。
その結果、飛行機の安全性は性能の犠牲とされた。
連合国軍のような海上に不時着したパイロットを救助するためのシステムは、
まったく計画したこともなければ、開発したこともなかった。

また、パイロットの第一線勤務をローテーションでおこなうことの重要さも考えたことがなかった。 
少数の熟練パイロットよりも、多数のパイロットをつくりだすことに全力をあげた。
このようにパイロットの質を量の犠牲にしたことは、自殺行為であった。

1942年末ころまでに熟練パイロットの大部分がうしなわれてしまったあと、のこったパイロットは充分な訓練をうけていないものばかりであり、
連合国空軍に効果的に対抗するのが不可能となった。
日本での航空機および航空機エンジンの開発は、連合国よりもはるかに遅れていた。
開戦時、日本は少数の高速かつ運動性能の優秀な戦闘機をもっていた。
これらの戦闘機の武装は貧弱であったが、対抗する連合国空軍機は旧式機、あるいは開発途上の戦闘機であり、日本機は全般的に質がまさっていた。
日本空軍はまた、実戦経験をもつ爆撃機や偵察機をもっていた。
しかし、戦争の最初の2年間、日本空軍は主として開戦当時の基本タイプに依存し、あまり機種の改良をおこなわなかった。
 

工場疎開
やがて、連合国軍は飛行機の質で日本を大きくひき離すことになる。 
1943年と1944年初頭、日本は一連の新型機を登場させた。
このころ、日本の航空機工業は急速に拡張しつつあった。
しかし、ほとんど同時に、連合国軍の空襲を回避するための工場疎開が計画された。
拡張と疎開の混乱のなかで、新型機は完成しなかった。
個々の機体の仕上がりの質やテストの質は、日を追って低下した。 
連合国軍機のもつ質的優位との差は、終戦の日まで拡大の一途をたどった。

 

レーダー
日本はまた、レーダーの分野でさらに開発がおくれていた。
レーダーは、連合国空軍の高能率な作戦に寄与した重要なファクターのひとつであった。
一方、日本では高性能レーダー・セットが量産できず、
日本軍は、近代的航空作戦を実施するために要求される整備、補給、施設の規模の大きさについて、まったく認識がなかった。

飛行場
飛行場の建設は粗末なものであり、作戦用飛行場の大部分は小さく、しかも舗装されていなかった。
エンジン交換や大修理のためのデポは数がすくないうえに、分散していた。
デポに送ることができないため、多数の飛行機が見捨てられた。
燃料補給は、通常はドラム缶からポンプをつかっておこなった。
給油トラックがつかわれたのは、 少数の大飛行場だけであった。
部品の大量補給の必要性を日本軍は考えなかった。

 

自殺攻撃と最後の大海戦

1944年夏、マリアナ諸島をうしなったのち、連合軍の進撃を遅らせる手段のひとつとして、
集団自殺的体当たりを大本営は考えはじめた。

1944年10月15日の有馬正文海軍少将、かれは台湾沖のアメリカ空母に自殺攻撃をかけたが、失敗におわった。
彼の死は愛国熱(パトリオティック・フィーバー)のスパークをおこした。
そして、在フィリピン陸海軍航空隊の正規部隊において、自殺部隊の編成がはじまった。
自殺部隊による最初の大規模攻撃は、10月25日の艦隊会戦たけなわのさいにおこなわれた。 
この攻撃は、護送空母一隻撃沈、他の数隻撃破というそうとうな成功をおさめた。
このあと特別自殺部隊は、日本本土にある部隊、主としてパイロット訓練部隊から編成された。 
日本軍がフィリピンから撤退するまでに、自殺攻撃に出撃した飛行機はのべ650機にたっし、
アメリカ水上艦船に174機が、命中あるいはニアミスによる損傷をあたえた。

アメリカ軍がレイテ島に上陸してからの10日間、日本空軍の損失は大きかった。
しかし、11月になると1000機を越える増強があり、上陸軍追いおとしに全力をあげた。
しかし、日本の未熟練パイロットたちにとって、船団をアメリカ機の空襲から守るという任務は重すぎた。

 

ウルシー

日本の自殺部隊があげたもっともめざましい偉業のひとつは、
1945年3月11日、日本海軍の中型爆撃機24機が九州から発進し、ウルシー環礁にあるアメリカ艦隊に攻撃をかけたときにあげられた。
整備不良のため士気が低下し、5機がとちゅうで引きかえした。
計画のまずさもたたって、日没後のウルシーに到着できたのは15機だった。
このうち1機は空母ランドルフに体当たりして、同艦を大破させた。1機は環礁中の島のひとつに墜落した。 
しかし、他の機は目標地域ふきんに到達しなかった。
かくしてこの攻撃は、自殺部隊の絶望的な性格を極端なまでに表示したものだったが、
同時に、日本のパイロット、整備員、航法士、そして作戦計画者の質が、きわめてプアーであることを立証した。

 


沖縄

フィリピンから航空部隊を撤退したのち、大本営は台湾と沖縄への上陸にたいする防衛準備を開始した。 
大本営は、上陸は3月か4月にあるものと推測した。 
この推測にもとづいて、九州の航空兵力の大増強が計画され、海軍の第5航空艦隊は急速に拡充された
第5航空艦隊も、その指揮下の陸軍航空部隊も、主要攻撃兵器として自殺部隊をつかう方針であった。
しかし、未熟練な自殺パイロットたちや、目標をさがすための偵察機には戦闘機の護衛が必要であることも認識していた。
また、オーソドックスな爆撃や雷撃ができる熟練パイロットも、まだ少数がのこっていた。

そこで、自殺攻撃ではなく、オーソドックスな作戦をおこなうためのエリート部隊が、のこっていたベスト・パイロットを結集して編成された。
3月15日から沖縄本島上陸 (4月1日)までの間、
アメリカ第五艦隊は九州に一連の攻撃をかけた。これに対抗したのは、主として前述したエリート部隊であった。
そのうちの1機の急降下爆撃機は、雲のすき間から空母フランクリンにラッキーなヒット1点のスコアをあげた。
他の艦船にもヒットがかぞえられた。
アメリカの主要艦艇が、 日本機によるオーソドックスな航空攻撃によって大打撃をうけたのは、開戦以来はじめてのことであった。

一方、日本側は接近してくる水陸両用部隊に、集団自殺攻撃をかけるため、使用可能な飛行機とパイロットのすべてを九州に集結した。 
数週間前からオーソドックスな訓練はほとんど中止状態になっていた。
教育機関にいた訓練途上のパイロットと彼らの飛行機は、大いそぎで部隊に編成された。

 

集団自殺総攻撃

4月7日、この日、日本軍は36時間にわたる期間に、のべ350機以上の自殺攻撃機を出撃させ、
ほぼ同数機を掩護や偵察、そしてオーソドックスな爆撃に出撃させた。
この結果、すくなくとも25隻の連合軍艦船に自殺攻撃機が命中した。
これ以後、1週間以上にわたり、2日の間隔で9回の集団自殺攻撃を日本軍はおこなった。
どの攻撃も第1回より規模が小さく、しだいに小規模となり、間隔も大きくなった。
集団自殺攻撃の合間は、小規模攻撃で埋められた。
これには、自殺攻撃隊と雷撃および爆撃隊の両方が出撃している。 
沖縄作戦3ヵ月のあいだ、このようなかたちで435回の自殺攻撃がおこなわれた。

このうちの250回は、第5航空軍が定期的に1月中旬以来、主要航空基地を攻撃したのにもかかわらず、台湾から出撃したものだった。
沖縄作戦中、飛行学校をまだ卒業していないパイロットの実戦使用数が増加した。 
出撃あたりの命中率は、フィリピン作戦時よりも低かった。
フィリピン作戦でのパイロットの大部分は、訓練が不十分とはいえ、
すくなくとも飛行学校を卒業し、戦術部隊でいくらかの経験をつんでいたのであった。


自殺攻撃のエスカレーション

フィリピン作戦後にたてられた日本軍の作戦計画は、自殺攻撃をかけ、
連合軍の戦闘機と対空砲火による防御の効果を低下させることだった。
しかし、実際に運用された兵力は、そのような目的を果たせるほどに大規模でなく、集中されてもいなかった。
その理由は三つあった。
第一は、4月1日までに、十分な兵力を九州に配備できなかったこと。
第二は、アメリカ空母機とB29超重爆撃機による攻撃により修理施設を破壊され飛行機の散開をよぎなくされたこと。
第三は、自殺攻撃パイロットたちはあまりにも経験があさく、大編隊の集合を、こころみることすらできなかったことである。

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本土防衛

 全般

待ちうける自殺攻撃部隊
日本軍は6月22日ごろ、沖縄での敗北を認めるようになり、日本本土侵攻にたいする防衛に注意をむけはじめた。
アメリカ軍の上陸がもっとも可能性の高い地域は九州とされ、上陸の時期は当初は8月と予測された。
アメリカ統合参謀本部が実際に計画したオリンピック作戦では、上陸予定日は1945年11月1日に仮決定されていた。

日本側の計画
日本空軍は、沖縄作戦の場合とおなじように、集団自殺攻撃によって本土侵攻を撃退しようと計画した。
しかし、作戦距離が短いことと基地の数がはるかに多いことから、もっと多数の飛行機を出撃させ、短期間に攻撃を集中できると、日本空軍は信じていた。
彼らは、300機から400機の自殺攻撃機の大群が、一時間おきに一波また一波と飛行するありさまを想像した。
そして、自殺攻撃機6000機とそのパイロットを、11月までに実戦配備に間に合わせようと望んだ。

計画の進捗状況
日本軍の諸計画は、終戦時までにかなりの進捗をみせた。
とくに日本海軍は約2700機の小型複葉練習機をそろえ、自殺攻撃用の装備をほどこした。
そして、これらの大部分を、舗装あるいは未舗装の小型飛行場や地下格納庫に散開させた。
陸軍の計画はおくれ気味だったが、約900機の戦闘機と約1750機の高等練習機を自殺攻撃機に改造し、
初等練習機の改造にも 着手したところだった。

 

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成功の可能性

日本は最大の努力をつくした。

まず、連合軍の封鎖線をやぶって燃料を輸送するために、輸送潜水艦と主要艦船をつかった。
つぎには、航空燃料の代替品としてアルコールの使用を増大した。
しかし、南方地域からの補給線が1945年の初頭に阻止されたため、備蓄燃料が消費しつくされるのは、単なる時間の問題となった。

燃料不足の見とおしにより、学校でも他の機関でも、訓練を目的とするパイロットに割りあてられた飛行時間は、短縮をよぎなくされた。
この短縮により、日本空軍が希望をもてる作戦は、自殺攻撃しかないことがいっそう明白になった。
ただし、燃料不足が訓練の制限因子になる以前でも、連合軍パイロットに太刀打ちできなかったのはもちろんのことだった。

鉄道網や道路網もはげしく攻撃され、補給物資を前線飛行場や地上軍へ輸送することは事実上、 不可能になるであろう。
侵攻時には、侵攻軍の上空にはもちろんのこと、日本の主要飛行場の上空にも、たえまなくエア・パトロールがおこなわれるであろう。
自殺攻撃機の命中率は、沖縄作戦ではフィリピン作戦よりも低くなった。
使用されるパイロットの訓練がしだいに粗雑になっていったことを考慮すると、
命中率はさらに低下したと思われる。

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「岡山県の百年」 柴田一・太田健一  山川出版社 1986年発行


たびたび空襲をうけたが、迎撃する戦闘機はみえず、高射砲の音さえ聞こえなかった。
ときの岡山県知事小泉梧郎は、
「岡山市がやられたからといって県全体の戦力から見れば大した影響はない。
われわれは広大な農村をもっているし多くの工場を保持している」と県民をはげましたが、
県民の多くは心のなかで敗戦の日の遠くないことを予知していた。
その県民が敗戦 「終戦の詔勅」を耳にしたのは、最後の空襲から20日後のことであった。 

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日本全国の学校が動員された。
近代の20世紀になっても、国策として松から油脂を採取した日本国は、世界史のなかの奇妙な史実となってしまった。

中等学校の高学年は航空機工場へ学徒動員。
中等学校の低学年は松根油。
小学校の高学年は松脂を採取した。

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