しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「戦略爆撃調査団」 敗戦後間もなく、戦略爆撃調査団がやってきた

2025年02月26日 | マッカーサーの日本

戦略爆撃調査団は軍・民の約1.200人で構成された調査団。
終戦とほぼ同時に、対戦国だった日本国民の上から下までの人々を尋問した。
第二次大戦の戦勝国も、そして敗戦国も、
戦後すぐ、国家としてこういう調査をしたのは米国以外はないと思う。
当時の国際政治では国家のレベルが他の国と比べて、はるかに上をいっている。

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アンコン号

(画像・Wikipedia)

 

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「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行

 

敗戦後間もなく、戦略爆撃調査団がやってきた

 

敗戦後間もなく、トルーマン大統領の直属として編成され、戦時日本の内幕の調査にやって来た"隠密機関〟があった。
戦略爆撃調査団と呼ばれた彼らは、日本の政界、軍部の要人たちを次々に喚問し、戦前、戦中の日本の”真相"を問いただした。
呼ばれた中での最重要人物、近衛文麿元首相は、きびしい尋問に強烈な衝撃を受けた・・。 
ここに、今まで極秘とされていた、その尋問報告書の全貌をスクープする。


戦略爆撃調査団とは何か? 

戦争中、
アメリカでB29という航続距離の長い爆撃機が開発され、それを用いての徹底的な戦略爆撃によって、ドイツも日本も、生産力や士気を破壊されて降伏に至った。
そこで、これからは戦争というもののやり方が全く変って来る。
さっそく将来の戦略構想を立てるために、B29による空襲の実際の効果を、その被爆国で具体的に調べてみなければならない。
こうして、大統領直属の機関として生れた戦略爆撃調査団は、まず、その活動をドイツ降伏と同時に欧州で展開した。
「このあとすぐ、われわれは日本へ行かされることになる」
トル ーマン大統領からの手紙が置いてあった。昭和20年8月15日のことである。

日本で行うべき調査の目的はずっとふえていた。
原爆についてだけでなく、
〝真珠湾〟から終戦に至るまでの間に、日本の政治・経済人心などが、どう移り至ったかを詳しく調べ上げるという方針が決められた。


9月17日には、東京・日比谷の明治ビル7.8階を本拠に定めた。
10月2日、優秀な通信設備をそなえた上陸作戦指揮艦アンコン号(9946トン)が、四隻の駆逐艦を従え、
”浮べる司令部"として東京湾に碇泊した。
調査団が名古屋、大阪、広島、長崎などで仕事をする際には、駆逐艦はそれらの都市の沖合で通信の役割を果し、宿泊所にもなった。


10月24日、ドリエ団長がワシントンから東京に着くと、
1.150人の団員(注=民間人300、陸海軍将校350、下士官兵500人)は、
いっせいに「日曜返上の猛烈な仕事」にとりかかった。
「ドリエ以下〝団長室"の人々が、日本の重要人物たちに対する尋問を始めた。.....」

団長室と呼ばれる頭脳センターには、
当時『フォーチュン」誌の編集者だったジョン・ ガルプレイス氏(注=その後ハーバード大学教授、ケネディ政権の駐インド大使)を始め、
都市工学の 権威、商務省民間航空課長、 鉱業会社重役、農務省企画課長などが選抜されて集まっていた。

 

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「ジャパニーズ・エア・パワー」 大谷内一夫訳 光人社 1996年発行


調査団の団員はシビリアン300人、将校350、下士官兵500人で構成された。
軍人のうちの60%は陸軍から、40%は海軍から抽出された。 
陸軍も海軍も、人員、補給品、輸送手段、情報を調査団に提供するにあたってあらゆる援助を惜しまなかった。
調査団は、1945年9月上旬に東京に本部を設置した。
さらに、名古屋、大阪、広島、長崎に 地方本部を設置した。
日本の他の地域、太平洋の島々、およびアジア大陸は、移動チームがカバーした。

戦時中の日本軍の作戦計画と実施の大部分を、交戦のひとつひとつ、会戦のひとつひとつについ 再構成することが可能となった。
日本の経済と軍需生産については、工場ごと、産業ごとに、かなり正確な統計を入手することができた。

また、日本の全般的な戦略計画と日本が戦争に突入した背景、
無条件降伏受諾にいたるまでの国内討議と交渉、
一般市民の健康状態と士気の推移、
日本の民間防衛組織の効率、
原子爆弾の効果
についての研究がおこなわれた。

これらの面については、別々の報告書が作成される。
調査団は、日本の軍部、政府、および産業界の幹部700人以上を尋問した。
また、調査団はおおくの書類を再発見し、翻訳した。 
これらの書類は、調査団に役立っただけでなく、他の研究にも 貴重なデータを提供するであろう。

 

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「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行


「戦略爆撃調査団」
終戦の直前には、64%の人が負けると思っていた


明治ビルでの重要人物たちに対する尋問は、一日当り10人から20人を対象に、能率的に行われた。
一例を(昭和20年)11月26日にとると、
午前9時から陸海軍の将校2人に司法省の役人1人を呼び、9時半からまた別の3人、
10時からは児玉誉士夫氏をふくむ9人を尋問している。
午後1時半から7人・・・島津日赤社長、三井財閥の池田成彬氏、河辺虎四郎陸軍中将などの名前が見られる。
池田成彬氏には、ドリエ団長がじきじきに尋問している。 
尋問の記録はすべてその日のうちに完全な英語でプリントされ、翌朝には、3局15部に分けられた各専門デスクに配布されているといったシステムだ。
調査団の組織は、団長の下に〝団長室"が高級参謀の形で従い、軍事、経済、民事の三局に分れる。
〝編集局〟が大きな部分を占めている。
編集局は、編集部、原稿作成部、写真部などに分れ、ちょっとした新聞社並みの機能を持っていた。

 

民事局の一つ、"士気"調査部は、200人の大所帯だった。
爆撃が、日本国民の戦闘意欲にどんな影響を与えたか。
その変遷を津々浦々の庶民のレベルについて調べ上げようという、心理調査活動である。
部長のB・フィッシャー教授以下、人類学者、コロム ビア大学の学生などで編成されたこの部の調査員たちは、
各地方に分散するのに先立って、 1日あたり40人の面接に耐える体力、調査技術などの特訓を受けた。
そのうちの一班10名は、10月25日から25日間の予定で秋田県の片田舎にはいった。
 
持物はガソリンをドラム罐五つ、毛布、タイプライター、食糧、石ケンなど。
すべてジープに積んで出かける。
万一の用心に、ピストルと弾薬も携行した。
なるべく占領軍の駐とんしていない地方を選んで、普通の日本の旅館に泊り、日本人とジカに接触する努力から始める。 
そして標本抽出、名簿作り。
インタビューは1人2時間、ジープで旅館に連れて来て、帰りも送る。
どうしたら、西洋人など見たこともない日本の地方人からリラックスしたナマの話を聞くことができるか・・・。

すべての面接記録はその場でマイクロフィルムに収め、10人に1人は、声を録音盤にとった。
すぐに輸送係が東京へ運ぶ。
そうすると東京ではフィッシャー教授以下が待ち受けていて、ただちに集計分類、分析をして、ワシントンへ送る。
今ならさしずめコンピューターがやるような作業を、人の手と、そして組織の力でやったわけだ。
全国縦断で3.500人が 面接対象となった。
標本の数は多くないが、その密度の濃さで、かなりの統計学的価値はあったという。


その心理調査の結論として出された、戦時日本の”最大の強味”は「ヤマトダマシイ」。 
天皇と祖国のためなら、生命をふくむ犠牲を惜しまぬ精神である。
そして”弱点”は、物質的な乏しさにあった。


開戦時の国民の反応は、不安と希望が混然としたものであった。
対中国十年の戦争に疲れていた反面、真珠湾奇襲、シンガポール陥落など、緒戦の勝利に楽観した。
日本軍の後退が始まってからも、サイパン陥落までは、まだ「最後には勝てる」自信があり、
栄養不足、インフレに耐えた。
しかし、昭和19年7月、サイパンが落ちると、インテリ層がまず「敗けるだろう」と感じ出し、
それは国民の2パーセントに達した。
19年12月には10パーセントが「敗け」、
20年3月、夜間空襲が始まると19パーセント、
6月には46パーセント 
終戦直前には64パーセントがそう思っていた――という。

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玉音放送を聴いて、皇居外苑で「陛下に申し訳ない」と泣き崩れる写真は、どの程度信憑性があるのだろう?
茫然自失とか、そういう人は多くいたとは思うが、
終戦によって頭を垂れた人は、終戦によって踊った人よりも少ないと思える。

昭和20年8月15日の外苑の写真は史書には不適切と思う。

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かくて、「マッカーサーの舞台」すなわち、敗戦日本に登場したインテリ忍者集団は、
終戦の年の12月5日までに現地でのすべての仕事を終えてサッと引揚げ、故国でクリスマスを楽しんだ。

極東裁判の始まったころ(21年5月)には、
日本の開戦、作戦展開、終戦のいきさつについては、とっくにその全貌を分析しつくしていたというわけである。
すばやい展開であった。
副団長のポール・ニッツ氏自身が当時、「調査団の作業は迅速で、急所をバッシパシッと押えて行った」と、いささか自讃的に演説している。


戦略爆撃調査団は、その報告書の結論として、「将来の米国戦略への勧告」を次のようにまとめた(昭和21年7月)。

「日本は、われわれの弱点を正確に知っていたから、攻撃をしかけて来た。
もし、目につくような弱点がなかったら、真珠湾攻撃は行われなかっただろう。
またアメリカが、日頃から、万一攻撃されたら力いっぱいやり返すのだぞ、という戦意を見せていたら、
日本人は攻撃しかけて来なかっただろう。
戦争防止のためには、"力"を持つことを無視してはいけない。 
かといって軍事力だけに頼るのもよくない。
軍備拡張競争は、相互不信を増すばかりだ。
要は外交、国内政策と軍事政策の統合、そういった政府組織が必要となろう。
命令系統の統一明確さ、トップの決断力、文官支配の確立が重要である。
国連による安全保障を、将来の方向として考えるべきである......」
文官支配、国連による安全保障など、22年前の結論としては、かなり進歩的な意見といえよう。

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