しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

井笠鉄道を押す

2016年07月13日 | 父の話
談・2004.6.13

井笠鉄道を押す
追分(大井村駅の手前)の坂道、
笠岡で乗る時(貨物と客車で編成)「今日は(貨物の)荷が多いのう」思うたら押しょうた。
「今日は押してくれにゃあいけんど」言わりょうた。めったに要請はなかった。


冷蔵庫がないとき
野菜・・・風通しのええへ置く。
さかな・・その日のうちに煮たり、焼いたり。
刺身・・正月ぐれい。


買い物
ちゃわん・・・(重いが)手に提げてもってもどる。
器をもって買う・・とうふ、さかな。
酒・・吉本がもってきょうた。



果物

昼の2時ごろまで集荷所に持っていかにゃあいけん。
それを過ぎたら自分で(福山の市場へ)もっていかにゃあいけん。時々もっていきょうた。
朝ちぎる、
昼ちぎる、
晩にちぎって明けの朝だす
済んだら、やれやれじゃ。


着る服・履物

百姓すると脛坊主がよう破れる。
継ぎ当てしながら着ようた。
百姓はそうでもせんともったいねぇ。


麦藁帽子と帽子
ふだんは麦藁帽子、つばが邪魔になる仕事のときは帽子。


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茂平の漁師の出荷

2016年07月12日 | 父の話
談・2000.6.24

茂平の漁師の出荷

毎朝海に出よぅた。網をあげに。
それで当番が伏越の市場へ持っていきょうた。
箱でちゃんと(個人別にわかるように)分けとる。
多い時は二隻、たいてい一隻じゃ。

(朝の仕事が終わると)
昼寝をしたり、網の修理・破れたのを縫い直し、畑仕事をしとった。

台風が来るとき
苫無の浜へ陸揚げしょうた。
みんなで綱でひっぱって



浜のりょうやん

りょうやんは漁漁組合の世話をやりょうた。
内海の守をしょうた。
内海へ魚がおろう、あれを捕る
こまい、伝馬、でだいしょう漁をしょうた。うなぎや魚をとりょうた。葦の番。
漁協から世話賃を貰ようた。
前は(昔は)
りょうやんの親父が茂平の魚をまとめて売りにいきょうた。あっちこっち持っていきょうた。



瀬戸の花嫁

(昭和30年、花嫁が神島から船で茂平の波止に着いた)

茂平から島へ嫁に行く、島から茂平に嫁に来る、
そゆうのは30年にいっぺんくらい。
島も神島までで、
白石、北木ゆうのはない。

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茂平、内海(うちうみ)のポンプ場

2016年07月12日 | 父の話
談・2000.6.24

「茂平改良区」(という組織があり)、けんきっつぁ
が責任者におった。
たーさんとまるしんの二人が管理して、
運転はまるしんがしょうた。

昔はポンプ場は無かった。
大潮の時は水が引いてしまうけど
小潮の時は海に水が出ょうらなんだ。
ほれでポンプ場を造った。

水門
水門の開け閉めは漁協がしょうた。
水門の板は荒神さんの松の大きな木を切って、引いて、水門の板をつくって乾燥して、ペンキを塗って、使ようた。
工事は城見村がした。

水門の開閉
日当は村からちいとばあ出しょうた。
堤防は国から補助がきょうた。

内海の洗い場
道具や野菜のドロを落としょうた。


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河豚(ふぐ)のドフ(はらわた)

2016年07月12日 | 父の話
談・2000.6.24

河豚の刺身を食べたらおいしいゆうて、ついでにハラワタ、どふじゃ、あれを食べた。
あれを炊いて食べた。汁が旨いんじゃ。
ハラワタでも悪いとこと、悪うないとこがあり。キモやこ食うちゃいけんゆうて棄ちょうた。
汁が美味いゆうて、余分に炊いたんじゃ。それで・・・当たったんじゃ。
よう焚いたんじゃけど、あたった。(ドフの量が多くて)

最初汁が旨ぅて、あんまり旨いんでもう一回炊いたらしい。
そしたら(家族みんな)あたった。
ひーちゃんも寝込んだ。
いちばんぼっこう食うたオヤジ(しずやん)に毒が多かった。

しずやんが死んだので(河豚を食べる注意の)宣伝にはなった。
それでみんな食わんようになった。
昔からあたることはありょうたが、ちょっと寝込めば治りょうた。


※この事があり、以降母は異常とも思えるくらい河豚汁に時間をかけて炊くようになった。

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達磨船(農船)

2016年07月11日 | 父の話
管理人が少年の時、茂平の波止にぶかっこうした手漕ぎの百姓船が一艘あった。
実は、その船は三軒が共同で使用する農船だった。

談・2000.6.24

やとうとさぶろうさと三人で船をもっとった。
水落の畑に行くもんが共同で買うとった。

芋を積んで帰ってきょうた。

芋を積んでもどるんで、
漁師の船のように長いんでなく、横に広い。
大きょうて低い。
ごちいんで、よう行かないのう(遅い)。
手漕ぎ。

とんまの土手で干して、船をつっぱってごみをもってきて焼きょうた。

漁師の船はスマート、網の間をまわらにゃあいけまあ。

使わんようになって(波止場に)ころがしとった。
そしたらじきに腐る。
ほっといたら腐る。
それで(船は)焼いた。

買うたのは・・・?
昔からあったからのう。
買い替えたりしょうたんで、いつからあったのかわからん。
おじいさんの時からあった。
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茂平の漁師

2016年07月11日 | 父の話

談・2000.6.24


(漁師だけで生活はできたか?)

漁師だけのはもとやんだけ。
あとは皆、百姓と兼務じゃ。

朝はよう(海へ)いき、
茂平の場合はほとんどが坪網。
壺網が岬にみなあった。
それで泳いできたやつをかかるようにしとった。
ほとんど年中網をしとった。

一年来たら場所を変えるんじゃ。
クジを引いて場所を変ようた。

苫無の釜
てっつぁん方の前にもあった。
こーちゃん方の下、にも二つあった。
網が腐らんように釜へ入りょうた。


コールタール
端の方のロープをコールタールをつけとった。
網をひっぱるところ。
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城見漁業協同組合

2016年07月10日 | 父の話
談・2000.6.24

組合長はまあさんが長いことしとって、その後は“はなや“にしとった。
(漁協の建物・事務所は)組合長の自宅じゃった。
事務は専門でたーさんがしょうた。

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昭和32年の資料では組合員が32人、漁船が14。

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組合員は一軒に二人づつおったウチがある。
組合員を増やせゆうことがあったんで。

隣じゃあ、かーさんとお姐さん(かーさんの妻)が組合員になっとる。

本当の漁師のほかに、
漁師をしょうらん組合員が
とっさん
まーさん
漁業をせずに灘を管理しょうた。
せいで多ゅうなっとる。

(他にも)
昔は船をもって漁師をしょうたが今はしょうらなんだ“おか”がおった。
いわさん
しょうちゃん
等じゃ。

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蚤(ノミ)を捕る

2016年07月10日 | 暮らし
母の話・2001.1.1

ノミを捕る

(母は蚤捕りの名人と思えるほどノミを捕るのが上手かった)
ノミは今はおらんようになったけぇようなった。


履物

女学校はズックじゃ、それより前は・・・もう、おぼえとらん。


米と麦

5部と5部なら「おお麦飯」じゃ。
7と3なら食べられる。

米の飯

隣の野々浜の親類のおばさんが、
「だまされた思うて米の飯を焚いてみなされい
麦飯は2杯も3杯もメシを食べんと腹がふくれんけど
米の飯は一杯で腹が膨れ、結局その方が安ぅつきます」

ほんとうじゃった。
(桃やビワの)袋掛けにきてくりょうちゃった。
そのたびに思いだしょうた。


乗り物で行く遠足
旅行の時は汽車に乗って笠岡の城山に行きょうた。
遠足は
嫁要らずの観音さま。ちょうどええ距離で定番じゃった。
美星の方まで歩いていきょうたこともある。


賀山の摩利支天さま
戦時中には、あれに大勢参りょうた。
それで、拝む人が要るゆうて
あがりこぐちのよねやんゆう人が専属で拝むようになった。
戦争の神様じゃゆうて、
「元気に帰れますように」拝みょうた。
郷の方からも拝みにきょうた。

今は正月3日に棟上げをするようになった。

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祖母の束髪

2016年07月10日 | 暮らし

母の話・2001.1.1


祖母の束髪

(祖母の写真は髪が束髪だが?)
あれが流行りょうた。
賀山にも(母の母も)ああゆう髪形じゃった。
なんか中に紙でもいれとるんじゃろうな。


櫛や簪(かんざし)

使わんようになったらみなしてた。
ろくなもんは(持って)なかった。


どんぐりやバッタ

おいしいゆうが食べたことはないでぇ。佃煮にするようたが、したことはない。




こってぃを産んだんじゃあ金にならん、メスじゃないと。


茂平のやなべ

真田を組みょうた。
裸麦を早ように採るりょうた。雨が降ったけらいけんのじゃ。
うむし小屋はみんなかたにこしらえとった(一軒に一小屋)。
2~3年こしらえとった。
外で干して、(うむしたのを)長屋のうえにとらげておいた。
間の時に出して(真田を)こしらえとった。


戦後の女性の初めての選挙。

割にみんなよう行きょうた。(棄権しなかった)


青年学校の先生

師範は一部と二部があった、
一部は小学校の高等科か、女学校をでてからゆく。
やや貧しいウチの子が行く。
二部は中学や女学校の4年か5年で受ける。二部の方がちいと難しい。
だいたいが二部へ行く。
(青年学校の先生は)
青年学校がのうなったら中学の先生になった。

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昭和20年、茂平の赤痢

2016年07月10日 | 暮らし
母の話・2001.1.1

伝染病はおそろしいなあ思うた。

おばあさん(管理人の祖母)と利三郎じいさん(管理人の曽祖父)がなった。
(※祖母は治り、曽祖父は亡くなった)
役場の人が来て、石灰をもってきて家の下や便所へ粉を撒きに来た。
あの時きゃあ、そりゃあ怖かった。
(長女)ひろ子を背負うて、(隔離所まで)行きょうた。

おおぜい死んだけえなああの時は。
かずっさん方のむねさんゆうお爺さん、
観音堂の先生方の親、
隣のかあさんとおばあさんが二人行ったが治って戻ちゃつた。
いわさん方のおばあさんが行った。
いわだにのおばあさんも死んだ。

大冝にも流行って(長女の同級生の)kさんのお母さんも死んだ。

うちにや福山まで伝染(うつ)って、あいちゃんの妹が死んだ。
可哀想に、まだ女学校に行きょうる時じゃった。
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