しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

北川の薬師っさん

2016年07月08日 | 暮らし

母の話・2001.1.1


北川の薬師っさん

七日市の天王さんは夏祭りで、
あそこは賑やかじゃった。
買うたり、食べたりして帰りょうた。

北川の薬師っさん、あそこにも参りょうた。
夏祭りで、歩いて行きょうた。

井原の郷社、下町にある。
桜が咲く前に祭りがありょうた。

茂平のもんは瘡守(かさもり)さんへ子供がこずかいをにぎって参りょうたそうな。


霞座(かすみざ)
新町の霞座、
よう見にいきょうた。
よう流行りょうた。


七日市駅

西江原には「軽便(けぇべん)」がなかった。それで七日市駅に出ようた。
小学校がある今市の人は木之子駅へ出ようた。
興譲館があるので七日市の駅はにぎやかじゃった。
(通りから離れ)不便なとこにある。
駅のそばにiいう煙草屋があった。友達の家で寄るようにしょうた。
今は同窓会にも腰が痛い、ほかにも痛いゆうて出てこれんようになった。


女学校の同窓会

矢掛の山野上から通学しょうた人がいて、その人が同窓会の世話をしょうる。
会が終わると「来年も私が世話をします」と大きな声で参加を募る。
今はでっぷりとして、着物を着てくる。
お化粧もしてどこも痛いところはなさそうじゃ。
それで次の年も行った、
「今年で最後じゃなあ」いいながら集まった。
そしたら「来年もやるから来てださい」言われた(笑)。
世話好きな人じゃ。
その人は興譲館の近くに住んどる。結婚の世話もしとる。
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賀山のおばあさん

2016年07月08日 | 暮らし
母の話・2001.1.1


賀山のおばあさん

おばあさん(母の母)は高等小学校を出て裁縫を習いに技芸にいっとる。
岡山から先生が来ようた、その先生の弟がいて「弟の嫁にきてくれ」言わりょうたらしい。
親が「岡山は遠ええ」ゆうて行かさなんだ。


賀山の(深い)井戸

七夕が来れば井戸掃除をする。
きょうていけど、(おじいさんが)降りょうた。
縄をつとうて、
底をこさげて深うしょうた。
それから歳をとって「もう出来ん」言い出した。
その頃水道が普及しだした。
七夕はどの家にも掃除をしょうた。
共同井戸もそうしょうた。
この方でも尾越の井戸をみんなでしょうた。


茂平の観光船

鞆の祇園さんや阿伏兎へ、四国にも行きょうた。
慰安旅行、大勢乗れるんで便利じゃった。


大掃除

畳をあげて、大騒動じゃった。
ノミが出てきょうた。
することにしてしょうた。


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山下館長、「興譲館から六高へ行かす」

2016年07月08日 | 暮らし
母の話・2001.1.1



興譲館の山下館長は「わが子を興譲館に来させんで、誰に向かって来てくれと言わりょうか」と、途中で大阪からわが孫を戻しちゃった。
山下とつきさんようた。
「興譲館からでも六高へ行かす」と
よう勉強しょうたが興譲館へ入れた。
それで興譲館から六高へ入った。
じゃけど病気で死んだ。
その頃結核が流行りょうた。

(母の同級生で)一中へ行った二人もそうじゃった。
二人も結核で死んだ。


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西江原高等小学校の進学先

2016年07月08日 | 暮らし
母の話・2001.1.1


小学校は二クラスで男クラスと女クラスがあった。

(高小、青年学校を出てから)技芸学校が多かった。
洋裁や和裁を教える、そこへ2~3年行く人が多かった。
今はあがぃな学校はのうなっとる。
和裁をようおしえてくれる。

ちいと足らんような子でも(井原)女学校には入りょうた。

男の子はようする子が岡山一中へ二人へいた。
三番の子は誠之館へかようた。
二中へ一人、二中はできえたばあじゃった。
その次の子は矢掛へ行った。

興譲館が私立じゃけえ、お金持ちでかっこを付ける家がそうしょうた。
普通の子は興譲館へいかしょうた。

林原の健さんを見りゃあ、お母さんを思い出すようじゃ。
林原の健さんの(母の)家は小角にあった。土橋を渡ったっばあのところへ大きな家がある。Iという大分限者の家じゃ。
あっこの子はみな頭がよかった。顔もあかぬけとった。
それで井原から大勢カバヤヘはいっとる。

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小学生の洋服

2016年07月07日 | 暮らし
母の話・2001.1.1


(母は昭和7年頃、現在の井原市立西江原小学校を卒業)

6年生を卒業する時、(洋)服を着てきた人が2~3人、・・・5~6人おったかなあ。
町ほど洋服は早かった。
ええウチの子。(西江原では)医者をしょうる家や商売して大分限者の人や町長の子供から洋服を着てきだした。

(家に)機織があった。
雨が降ればおばあさんが機を織りょうた。
おばあさんが織った着物を着て行きょうた。
それから柄がついた木綿の布ができだした。きれいじゃなあ思ようた。
式があるときやこ、その木綿のを着て行きょうた。

着物をきて草履を履いて学校にいきょうた。

女学校はもう、洋服で、制服があった。
井原女学校は5年、
他の町には実科女学校ゆうのがあった。増川やこ・・4年。

精研はおばあちゃんの一級下が一期生。
技芸へ2~3年行く人も多かった。

(女学校へ進学しない女子は)
2年、高等科へ行く。
その後、補習科、青年学校へ行く。
男は百姓、
女は、
和裁、洋裁を習ようた。
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産婆さん

2016年07月07日 | 暮らし
母の話・2001.1.1


産婆さん

産婆さんが大流行りじゃった。
産むときは、家のもんが湯をわかしょうた。
隣のhくんまで家で生んだ(昭和35年頃)

産婆さんは城見をぜんぶ持っとった。
陶山にゃあ代用教員しょうたmさんの奥さんが(産婆さんを)しょうた。
小学校の先生をしょうたy先生がお産で亡くなった。
井原では(茂平から嫁いだ)tさんの妹が、3人目を死んで産んじゃった。親子死んじゃった。

よくよくのことがなきゃあ医者を呼びょうらなんだ。
伏越に産婦人科の医者がおった。


ご飯を炊く

朝と晩、
家族が多いとこにゃあ朝昼晩炊きょうたで。
丸山やこ、ぜっぴご飯を炊かなきゃあいけんゆうて帰りょうた。
晩に研いでしかけて、やわしゅうなる。どこにもそうしょうちゃった。

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徐州戦争・スランコの話

2016年07月06日 | 父の話

談・2000.4.30

塘沽から天津、それから部隊へは
自動車や汽車で移動した。

部隊についたら、そこからは皆あるきょうた。

大釜で炊いた飯をもろうて食びょうた。
弁当箱へ詰めて歩く。
便所は穴を掘ってそれでやりょうた。
陰だけはつくりょうた、尻が隠れるくれいの。(山はなく)平たん地ばかりじゃ。
行進中は別じゃ。
ささっと済まして隊へ戻る。わやくそじゃ。
(戦闘を避けて留守の)家の便所を使う。赤柴隊が通た後はきたないゆう評判じゃった。
鳥取や神戸はまじめじゃった。
姫路の師団でも岡山は強い言わりょうた。
岡山県のがいちばんスランコじゃようた。
敵に対する機転が利く、それで強い。

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ピー屋で遊ぶ話

2016年07月06日 | 父の話
談・2000.4.30


師団長は篠崎さんがおって赤柴部隊がおって、
赤柴さんが(外地から内地へ)帰って毛利部隊になった。
姫路の下へ岡山の連隊があった。

兵隊が下士官になったらいろいろ変わる。
伍長からが下士官。
給料もあがる。

ワシは県の技術員をしとったら30円、
軍曹なったら35円。貯金もできる。
外泊もできる。
営舎外のところへ寝泊まりできる。
奥さんでももろうて外へ家でも借りると、営外手当てをもらえる。


(外地での給料は)
日本円。
占領地は使える。占領してないところは使えん。
交換はいつでもできる。

休み(駐屯地では)
駐留地ではオイッチ、オイッチにでおしまい。
連係を重点の訓練。

自由時間は
食うて遊ぶだけ。
あんまり食うところも遊ぶ場所もない。
それでピー屋へ行く。
ピー屋は女郎屋じゃ。よおけえできるんじゃ。
それでそこへ行って遊ぶ。
日本人が3円、朝鮮が2円、支邦人が1円。
へいから、そのへんのころびょうる女としたら50銭や70銭。おばんじゃ、日本語は話せん。
10代が多かった。
日本人はおばあばあじゃ、20代じゃ。
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茂平水落のサッポロビールの浄水場

2016年07月06日 | 父の話
談・2000.4.30


茂平水落のサッポロビールの浄水場

茂平の地権者は10人ほどいた。
市でなく県の工事で、
水をきれいにして札幌に売り込むつもりじゃった。
今は笠岡港へ(水を)送っとるはずじゃ。


茂平のラブホテル建設反対運動

業者が上手なんじゃ。
地区の役員を(坂里に)呼んで、部屋をいろいろ見せてもろうて、いっぱい飲ませて食わせて・・・(それでもう)反対できゃあへん。


昭和44年頃・スモン病

神辺や高屋で流行りょうた。そこから出身の人がなりょうた。


昭和48年のオイルショック

(農家にはどうゆう影響があったか?)
べつに、コレゆうもんはなかった。


昭和38年越県合併

(岡山県から兵庫県になった)福浦に行った。
それから県会議員の中川のところに行って、市会議員を世話してもろうた。


昭和33年赤線が消える

戦後の伏越遊郭には行ったことがある。


昭和31年ごろ、笠岡駅の花売り娘

知らん。


農協理事の仕事は?

合併が主(おも)じゃった。
次々に合併した。
最初が金浦と、
次に笠岡と
次に矢掛と
次に倉敷と
企業合併と同じじゃ。
合併メリットがあるんで文句をゆうもんはおらん。


茂平生産組合

農協や市からは何の援助も補助もない。
県くらい、
県と国がおんなじとこにあった。(振興局)
みんなワシがやったんじゃ。


オキシダント広報

放送があるだけじゃ。
行政からもNKからもなんも(補助も寄付も)ねえ。

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(城見小の)疎開児童

2016年07月06日 | 父の話
談・2000.4.30


(城見小の)疎開児童

こん。きてない。


闇市

ようすなやこから
船で来て、
魚を出して、芋をくれ、麦をくれ、あるもんをくれ。
(金でなく)ぶつぶつ交換して帰りょうた。


天皇の全国巡回

福山には来た。笠岡には来とらん。


シベリアからの帰国者

(城見にも)おったけど死んでしもうた。


妹のこと、吉林のこと

吉林は(義弟の)のぼるさんの部隊があった。
仕事も吉林で、妹もそこへ行った。
(戦争に負け)
逃げ駆けりょうて子供は死んだ。
みな、そんな状態だった。
戻らんので(甥を)見た事はない。
帰る時は鍋を背中に背負うてじゃ。
服は兵隊のを着て帰った。


物々交換

着るものが無い時分は町から売りにきょうた。
芋をやったり、麦をやったりして替えことをしょうた。


食用蛙

食用蛙はおおけえ、この方のもんも食ようた。
食うてみたら美味かった。


パラチオン

最初軍がびらん性で開発した。
稲の予防に使ようた。薄めても、きつかった。
呼吸困難になる。
よう手(ちょう)洗うて食ぇようたが、洗わん人が病気になりょうた。


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