しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

八甲田山の遭難

2018年06月20日 | 江戸~明治

今月末、東北3県(青森・秋田・岩手)に旅行する。

八甲田山にも行く予定にしている。

 

(夏でも雪が残る 2018.6.29)

 

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「青森県の歴史」山川出版2000年発行


八甲田山の遭難

日本の軍部は、対ロシア戦争の準備を進め、第八師団も訓練を行った。
寒冷地である満州での戦闘を予想し、青森の第5連隊と弘前の第31連隊に明治35年1月に厳寒期の耐寒訓練のため、八甲田山の雪中行軍を命じた。

1月23日、
青森を出発した第5連隊第二大隊の山口大隊長以下210名は一泊二日の予定で田代をめざした。
しかし、厳寒の中で案内人をつけずに出発して道に迷い、装備も不十分であったこともあり遭難し、救出後の死亡者を含め199人が凍死した。
最初に発見されたのは直立していた後藤房之助伍長であった。
その後、各地で遭難者や生存者が発見された。
生き残ったものも、凍傷のため肢体を失ったりした。
のちに後藤伍長の立像が、軍人らの拠金により遭難地の近くに建てられた。
なお、
同時期に弘前の第31連隊40人の一隊は案内人をつけ、弘前から八甲田山をこえ、青森までの雪中行軍に成功した。

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ウイキペディア

捜索方法

捜索は、生存者の証言と行軍計画を参照して行軍ルートを割出し、そのルートを重点として、横幅30m(およそ30人一列)になって、それぞれが所持する長さ10m程の竹棒を雪中に突き刺しながら前進し、少しでも違和感がある手応えを感知するとその下を掘削する方法が採られた。
また、捜索活動初期の頃、北海道から辨開凧次郎らアイヌ人一行を招き、および彼等が所有する猟犬(北海道犬)と共に捜索活動を行い、遺体発見でかなりの成果を挙げた。

遺体収容

粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕ける。衣服を剥いだ後、鉄板に載せられ直火にて遺体を解凍し、新しい軍服を着せてから棺に収容して本部まで運搬した。
水中に没した遺体川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。
腐敗がひどく身元がなかなか判明しない遺体もあった。
最後の遺体収容は5月28日であった。


遭難の原因

気象条件
貧弱な装備
指揮系統の混乱
極端な情報不足
認識不足
「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。

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(八甲田ロープエー 2018.6.29)

 

 

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「やわらかに柳あおめる北上の」

2018年06月19日 | 江戸~明治

今月末、東北3県(青森・秋田・岩手)に旅行する。
ぜひとも渋谷村の「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」の歌碑の場所に行ってみたいと思っている。
少年時代に聞いた「北上夜曲」とイメージが重なる。

石川啄木の歌は日本人の感性にぴったり合うような気がする。

・・・

「岩手県の歴史」 山川出版

(2018.6.30)


石川啄木は本名を一(はじめ)という。渋谷村に明治19年2月に生まれ、明治31年盛岡中学にはいり、3年の時にストライキの首謀者の一人となり、学校改革に活躍した。
翌4年退学して上京し、文学に志したが病をえてはたさず、帰盛して詩活動に従う。雑誌「明星」にのせられ、与謝野鉄幹の命名で”啄木”と称するようになった。
明治38年
「あこがれ」をだし、これによって結婚費用を支弁しようとしたが、収入は一文もなく、盛岡に新居をかまえた。
明治39年
渋谷村の代用教員をつとめた。
明治40年
校長排除のストライキを指導し免職となり、一家離散。
妹をつれて北海道函館にて小学校の代用教員となり、その後転々と北海道の新聞社を歩き、社会主義運動にひかれ、上京の志おさえがたく
明治41年
上京し
明治42年
朝日新聞社に入社。
明治43年
「一握の砂」を発刊した。
明治45年
4月13日死亡(26才)。6月に「悲しき玩具」刊行となる。

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「奸賊を誅滅して大儀を正す」

2018年06月17日 | 昭和11年~15年
大正のシベリア出兵から昭和の敗戦まで、この30年間ほどの日本の政治・軍事の出来事は国民として恥ずかしい。
神や精神が優先し、当時の国民が支持をした。

226事件を起こした陸軍は、政治的な反省もなく翌年戦争を起こし、その8年後の敗戦によって消滅した。

「帝国の昭和」有馬学著 講談社2002年発行より転記する。

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2・26事件

陸軍内部の皇道派グループはの間には、直接行動への意思が高まっていた。
中心メンバーの磯部浅一は、1936年1月には「武力解決の為に全力をそそいだ」という状況であり、最も先鋭といわれた歩兵一聯隊の栗原安秀中尉も部隊を固めつつあった。
2月26日未明、重機関銃、軽機関銃、小銃で武装した部隊は、降り積もった雪の中を出勤した。
1480余名の決起部隊は、警視庁、首相官邸、陸軍省、参謀本部など桜田門から三宅坂の一帯を四日間にわたって制圧・占拠した。

彼らは何を目指したのか。
「蹶起(けっき)趣意書」には、
「元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等」を「国体破壊の元凶」とし、「奸賊を誅滅して大儀を正す」とし、
これではテロによって「国体破壊の元凶」を除くと語っただけでしかない。

川島陸軍相は「蹶起の趣旨については天聴に達せられあれ」「諸子の行動は国体顕現の至情に基ずくものと認む」という陸軍大臣告示を出す。これと同時に、暫定内閣成立の上部工作が行われた。

しかし事態を決定づけたのは、速やかに叛乱を鎮圧せよとの天皇の意思だった。

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捨て子

2018年06月16日 | 大正
中国残留孤児は捨て子だが、親がその事(子供を捨てる)で非難されることはない。
三橋美智也が歌った”男涙の子守唄”の詩吟「棄児行(きじこう)」も、似た状況だ。

いのちと帝国日本14 小学館2009年発行より転記する。

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捨て子の「作法」

捨て子とは、子供のいのちを粗末に扱う行為ではなかった。
親子共倒れを防ぐために、他人に子供の養育をゆだねるという感覚に近かった。
だから、育ててくれそうな人を探して、出生年月や氏神、捨て子に至った事情を記した書き付けを添えて玄関先に置いてくるのである。
こうした捨て子の「作法」が1910年代まで続いていたことが確認できる。
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サンデー毎日~「引き揚げ」に日本人の実存の弱さを見る

2018年06月05日 | 昭和20年(終戦まで)
北方領土問題は、日露の二ヶ国の問題だが、更に詰めると日本だけの、国内問題と思う。
理由の一つに、日本を支持する国家は聞いたことがない。

サンデー毎日に五木寛之の「ボケない名言」は、引き揚げを書いている。

以下、サンデー毎日2018年6・10号より転記する。

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「引き揚げ」に日本人の実存の弱さを見る  五木寛之
ステートよりもカントリー

「戦争の一つや二つに敗けたくらいでは引き揚げたりしないのが大陸の諸民族である」という内村剛介の言葉に、拳銃で胸を撃たれたようなショックを受けた事があった。シベリアから送還された内村の言葉だけに、なおさらである。
戦争に敗けたら誰でもが母国に帰る。それが当然だと思っていたのだ。
しかし、それは明治以来日本人の出稼ぎ根性の反映ではないのか。
アジア大陸の諸民族は、ステート(国家)の敗北におつきあいはしない、と彼は言う。彼らは自己の生活圏にロイヤリティを示す、と。

太平洋戦争の終結にともなって、日本人は旗を巻いて大陸や南方から”本土”へ引き揚げてきた。だがロシア革命に際してもシベリアの中国人は引き揚げはしなかった。

「彼らは現地にとどまり尼港事件の惨を見るのだが、それでもシベリアに居ついている。朝鮮人もそうだ。ステートよりもカントリーを採るところが彼らには強く残っている」と彼は書く。
グローバル化とは「落地生根(らくちせいこん」の志ではないのか。
いつの日か故郷へ帰らん、とうたう心情によりかかかっているだけでは、国際化はおぼつかない
あらためてそう思う。


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女工哀史②

2018年06月01日 | 江戸~明治
「人物日本の女性史」集英社・昭和53年発行
「女工哀史 津村節子」より転記
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細井和喜蔵(女工哀史・著者)は、女工募集方法変遷を三期に分け
一期、明治10年頃から(日清戦争の)27・28年頃まで。前借金制度もない、退社も自由。
二期、日清戦争~日露戦争頃まで。近代産業が急激に発展し、工場の数が増え、女工募集が困難になった。応募した人が待遇が悪いと、帰国して状況を訴える。そのため女工の拘束が必要となり、身代金、年期制度、強制送金制度、教育制度が生まれる。
三期、僻地の果てまで紡績工場の恐ろしさが知れ渡った。直接募集と嘱託募集に切り替え、女工を買いとる。ようするに女衒であった。都会では他の工場から、田舎では村長他世話役、警察まで買収し、娘のいる家につけ届をした。

労働条件については、勤務時間の長いことは紡績工場が最たるもので、12時間が平均で、これに夜業がある。
昼夜交替で作業する、疲労が激しく昼は騒がしく熟眠できない。運転を止めれば、清掃と段取り、止めなければ台から離れられない。
機械事故も多かった。

外出は成績のよい者だけが月に一度許され、部屋長・世話婦・舎監の検印を貰ってようやく門を出る。食べ物の買い物は門衛でとりあげられ、雑誌類は労働者意識には関係ないものだけを選択して与えた。
世話婦は自分の受け持ち区域から欠勤者が出るのを嫌い、叩き起こし、熱の女工は頭から水を掛けられ働いた。
建物は一畳一人分で、二交替のところは朝帰ったものが、昼業者のあとにもぐった。ふとんは湿気、雑菌の住みかとなった。

伝染病は隔離室を急造し、莚を敷いて患者を押し込めた。助からぬと断定し、余計な費用や手数をはぶいた。
臨終迫った者は、死体室という小部屋に連れていきグリスの着いた空き箱に詰め、火葬場へ運搬した。
病気の女郎を一室に閉じこめ干し殺しにした江戸時代の遊郭を思わせる話である。

文明開化、産業改革を支えた女工たちは人の扱いをされず、短い一生を心と体をすり減らして死んでいった。


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