女学校には制服があった。制服を着て通学していた。
靴も今の運動靴と同じようなのじゃった。
小学校の服装?・・・・なにゅう着ていっとったんじゃろう。おもいだせん。
おばあさんが雨の日に織ってくりょうた。それを着ていっとった。
卒業式の時町長と医者の子が洋服を着て来た
(母の話)
2001年1月2日
(元・義之尋常高等小学校 現・井原市立西江原小学校 写真・2022.3.30)
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西江原の小学校は城見より大きく二クラスあった。同級生は100人ちょっといた。
クラスは女性だけのクラス、でそれが6年間ずっといっしょだった。(男女別のクラスだった)
青い目のお人形
昭和初期、有名な「青い目をしたお人形」がアメリカから日本の小学校に送られてきているが西江原小学校にも、それはあったのか?
知らん。みたことは無い。
2001年1月2日
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昭和2年 義之尋常高等小学校1年生
昭和3年 義之尋常高等小学校2年生
昭和4年 義之尋常高等小学校3年生
昭和5年 義之尋常高等小学校4年生
昭和6年 義之尋常高等小学校5年生
昭和7年 義之尋常高等小学校6年生
昭和8年 井原高等女学校1年生
昭和9年 井原高等女学校2年生
昭和10年 井原高等女学校3年生
昭和11年 井原高等女学校4年生
昭和12年 井原高等女学校5年生
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(母より3学年上の方の手記)
「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行
不況 中途退学者多く
昭和5年の4月初め、入試を受けて晴れの女学生になった者は102名位だったと思います。
私達の在学中の昭和5年から10年は社会が大変な経済不況の時でございまして、
春・夏・冬の休暇明けに登校してみますと、3人とか5人とか 退学届けを出されて櫛の歯がかける様に生徒数が少なくなり、
卒業の時は65人になった事でございます。
昭和7年の5・15事件の時は3年生でしたが、
若い歴史の先生より、血気にはやった青年将校の事を昭和維新の志士の如くの熱弁を聞いて、うら若き乙女心にこの事件を美しい快挙と印象づけられて、
日本の軍国主義への道をスンナリと抵抗なく入って行った様な気が致します。
また、人見絹枝女史が女学校校庭に来て走られました。
私達も後をついて走りましたが、其の韋駄天にはとてもとてもついて行けなかった事を憶えています。
1年生から5年生までが一斉にする早縫い競争と常用漢字を書く大会がありました。
早縫い競争の方は、1年生は一ツ身、2年生3年生は三ツ身か四ツ身、
5年生は本裁という様に講堂と他の教室に集まって、同時に縫い始めて早く綺麗に仕上げる競争です。
常用漢字の方も同じ様にして沢山正確に書けた者の成績発表がありました。
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(井原高等女学校・昭和10年)
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(母の話)
2001年1月2日
井原女学校
西江原尋常小学校をでてからいった。
当時の(西江原小の)女の子の進路は小学校をでてそのまま高等小学校、その上の青年学校に行く人。
精研ができたばかりで・・同級生が一期生・・そこに行く人。
技芸に行く人
女学校に行く人
女学校に行くのは2割くらいじゃったろうか、授業料が高いんで、たいぎなというウチが多く受ければ皆んな入っていた。
町長や医者の子弟は面子をいい一女(現・岡山操山高)に行かせる親もいた。
一女は(受験が)難しいので頭もいった。
一女にいくひとは通学していた。
・・・井笠鉄道で笠岡、笠岡から国鉄で岡山まで。※
技芸は裁縫をおしえていた、当時どこの町にもあった。
技芸は今は全く消えてしまっている。
※管理人の妻は井原市から、(昭和50年頃)岡山市の学校に通学していない。下宿生活。戦前も戦後も井原から岡山は遠い。
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(西江原小を6年で卒業した女子の場合)
井原技芸が多かった。みな歩いて行きょうた。一番奥にあった。向町にあった。
女学校はお金がかかるので少なかった。6人ほど行った。今でいう特殊学級のような人でも入りょうた。(女学校の同級生は)全部で60人くらいじゃった。
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卒業後の母
井原にある技芸に2~3年通いながら家事・農業し、昭和17年父と結婚した。