しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

母の学歴

2024年01月06日 | 学制150年

女学校には制服があった。制服を着て通学していた。
靴も今の運動靴と同じようなのじゃった。


小学校の服装?・・・・なにゅう着ていっとったんじゃろう。おもいだせん。

おばあさんが雨の日に織ってくりょうた。それを着ていっとった。

卒業式の時町長と医者の子が洋服を着て来た

(母の話)

2001年1月2日

(元・義之尋常高等小学校 現・井原市立西江原小学校 写真・2022.3.30)

・・・

西江原の小学校は城見より大きく二クラスあった。同級生は100人ちょっといた。
クラスは女性だけのクラス、でそれが6年間ずっといっしょだった。(男女別のクラスだった)


青い目のお人形

昭和初期、有名な「青い目をしたお人形」がアメリカから日本の小学校に送られてきているが西江原小学校にも、それはあったのか?
知らん。みたことは無い。

2001年1月2日

・・・

 

昭和2年 義之尋常高等小学校1年生
昭和3年 義之尋常高等小学校2年生
昭和4年 義之尋常高等小学校3年生
昭和5年 義之尋常高等小学校4年生
昭和6年 義之尋常高等小学校5年生
昭和7年 義之尋常高等小学校6年生
昭和8年 井原高等女学校1年生
昭和9年 井原高等女学校2年生
昭和10年 井原高等女学校3年生
昭和11年 井原高等女学校4年生
昭和12年 井原高等女学校5年生

・・・


(母より3学年上の方の手記)

「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行

不況 中途退学者多く

昭和5年の4月初め、入試を受けて晴れの女学生になった者は102名位だったと思います。 
私達の在学中の昭和5年から10年は社会が大変な経済不況の時でございまして、
春・夏・冬の休暇明けに登校してみますと、3人とか5人とか 退学届けを出されて櫛の歯がかける様に生徒数が少なくなり、 
卒業の時は65人になった事でございます。
昭和7年の5・15事件の時は3年生でしたが、
若い歴史の先生より、血気にはやった青年将校の事を昭和維新の志士の如くの熱弁を聞いて、うら若き乙女心にこの事件を美しい快挙と印象づけられて、 
日本の軍国主義への道をスンナリと抵抗なく入って行った様な気が致します。
また、人見絹枝女史が女学校校庭に来て走られました。 
私達も後をついて走りましたが、其の韋駄天にはとてもとてもついて行けなかった事を憶えています。
1年生から5年生までが一斉にする早縫い競争と常用漢字を書く大会がありました。 
早縫い競争の方は、1年生は一ツ身、2年生3年生は三ツ身か四ツ身、
5年生は本裁という様に講堂と他の教室に集まって、同時に縫い始めて早く綺麗に仕上げる競争です。 
常用漢字の方も同じ様にして沢山正確に書けた者の成績発表がありました。 

・・・

(井原高等女学校・昭和10年) 

・・・


(母の話)

2001年1月2日

井原女学校
西江原尋常小学校をでてからいった。
当時の(西江原小の)女の子の進路は小学校をでてそのまま高等小学校、その上の青年学校に行く人。
精研ができたばかりで・・同級生が一期生・・そこに行く人。
技芸に行く人
女学校に行く人

女学校に行くのは2割くらいじゃったろうか、授業料が高いんで、たいぎなというウチが多く受ければ皆んな入っていた。
町長や医者の子弟は面子をいい一女(現・岡山操山高)に行かせる親もいた。
一女は(受験が)難しいので頭もいった。

一女にいくひとは通学していた。
・・・井笠鉄道で笠岡、笠岡から国鉄で岡山まで。※

技芸は裁縫をおしえていた、当時どこの町にもあった。
技芸は今は全く消えてしまっている。

 

※管理人の妻は井原市から、(昭和50年頃)岡山市の学校に通学していない。下宿生活。戦前も戦後も井原から岡山は遠い。

・・・

(西江原小を6年で卒業した女子の場合)
井原技芸が多かった。みな歩いて行きょうた。一番奥にあった。向町にあった。

女学校はお金がかかるので少なかった。6人ほど行った。今でいう特殊学級のような人でも入りょうた。(女学校の同級生は)全部で60人くらいじゃった。

 

・・・

卒業後の母

井原にある技芸に2~3年通いながら家事・農業し、昭和17年父と結婚した。

 

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父の学歴

2024年01月04日 | 学制150年

学校には藁草履に皮を張っていた。
草履は自家製、皮を張るのも自家製。
皮は竹の皮で、
ゴム草履などは想像もできない。
家では藁ぞうりをはいとった。

着物は文字どうり着物。洋服ではない。
男は帽子をかぶり、女はない。

一年時は着物で二年から洋服を着ていった。
三年になってもきてくるのはおったが。

女は着物のままが多い。


遠足
遠足はバス・汽車というのはなかった。すべてあるいていって、歩いて帰ってくる。
修学旅行 ? そんなもんはない。
行き先は茂平のさらやま、吉浜の天神さん、笠岡の城山など。

(父の話)
2000年06月14日

 

(大正12年頃の父)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

大正13年 城見尋常高等小学校1年
大正14年 城見尋常高等小学校2年
大正15年 城見尋常高等小学校3年
昭和2年 城見尋常高等小学校4年
昭和3年 城見尋常高等小学校5年
昭和4年 城見尋常高等小学校6年
昭和5年 深安実業学校1年
昭和6年 深安実業学校2年
昭和7年 深安実業学校3年
昭和8年 深安実業学校4年

 

(父の卒業写真・城見小)男子は全員学生服・学帽、女子は洋服が1名いる)

・・・


「目でみる岡山の昭和」 蓬郷巌 日本文教出版 昭和62年発行

学童服が普及

大正末期から児島で始まった学生服の大量生産で、
学童たちの服装が、和服から学生服へと急速に変わっていった。
昭和3.4年後頃の児島の学生服生産量は百万着を越え、昭和13年頃には一千万着と、
全国の90%のシェアを誇り「学生服王国」となった。
なお女子学童の和服姿も、少し遅れて洋服への転換が進み、
昭和4年頃にはほとんどが洋服になった。 (昭和4年、城見小は1名のみ)

 

・・・

※父は自分が行った学校のことを”深安実業”と呼んだことがない。
「かんなべ」「神辺の農学校」「神辺実業」、終生このどれかで呼んだ。

・・・

みんな神辺実業へ


とにかく皆、神辺へであった。気の利いたのは高松に行っていた。

自転車で行きょうた。
道は茂平を出て大門を通って、引野へ回って。
(大門)駅前を通って山を通る、下へ降りて。
「こうざき」ゆうとこから、こんどは春日へ行きょうた。
神辺まで行くのに約1時間かかりょうた。


女(おなご)は女子部で校舎が違うとった。
家庭科じゃ。男は農業科じゃ。
男の校舎は北側、女の校舎は南側。
女がエエ南側じゃった。


寄宿舎
遠いのは神石から来とるのもいた。そのため、学校の中にちいさな寄宿舎みたになのがあった。

農業
実習場をもとった。
授業・行事は
授業内容はいまとほとんどからわん。運動会もあった。

生徒の出身
こっち(岡山県側では)の方面では、井原・大江・岩倉・陶山・城見。
笠岡でももう東のほうからは来るのはおらなんだ。

卒業後の父

昭和9年3月に神辺実業を卒業
最初役場に行ったが、
県技師の試験をうけてとうった。ちょっとお金が余分にもらえたんだ。
岡山で言えば「高松農」広島で言えば「西条農」が双璧で農業関係は牛耳っていた。
戦争に向かう時代じゃけぃ、軍事訓練や、男にゃ戦争に関することばぁ、はやりょうた。

2000・5・6

・・・


父は保育園・幼稚園には行ってない。城見村になかった。

父の城見小学校の同級生で卒業後の進路は
男子は

①中学・福山中学校、金光中学校。
②実業・笠岡商業・福山工業・盈進商業・神辺実業
③城見尋常高等小学校の高等科
④進学せず。

女子は
笠岡高等女学校
②城見尋常高等小学校の高等科
③進学せず

等であったと思える。
太字は特に多い人。

・・・

父は農家の跡取で、当然のように神辺実業に進学した。

 

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中学校への進学者

2024年01月03日 | 学制150年

戦前は東京や大阪を除いて、ほとんどが農山漁村で
しかも、その長男となれば親の職を継ぐのが生まれた時からほぼ決まっていた。
中学校へは立志者や金持ちに限られ、しかも男性限定。


城見村では、城見小学校から毎年2~3人の中学進学者がいたようだ。
その進学先は福山中(ふくちゅう・誠之館)または金光中学(こんちゅう)。
地域の県立中学校だった矢掛中学や、距離的に近い興譲館には進学してない。
これは大門駅から通えるのは福山中と金光中しかなかったからだろう。


城見小学校から中学校へ進学した人は、その多くの人が目指すのは
海兵・陸士、師範学校。
高等学校は次に大学という前提なので、貧しい城見村の親ではいかすことができなかった。

 

・・・


元・福山中学「広島県福山誠之館高等学校 第八回卒業記念 昭和三十一年三月」

 

・・・


岡山中学

難関を突破して入学した生徒達は「中学校を卒業したからとて、別に之といふ資格があるでなし、上級学校に入るには必ず全科の試験を受けるのでしたから、別に卒業する必要もなく、実力さへつけばよいのと、一年でも早く上級学校に入学せんとの考えから、自ら進んで、自発的に勉強して実力の増進に努めた。
そこで、卒業を待たずに上級学校に入学する者も多かったので、 明治十二年に第一回の卒業生を出してから、四回も卒業生の出ない年があった」のである。

「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

・・・

 

「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


中学校の歴史  明治から大正

明治11年~明治40年の教育


明治20年代後半から、30年代にかけ中学校も次第にその増設の速度を早めた。
主として府県立中学校の増加であった。
なぜこのように府県立中学校が増加したのか。
その理由の第一は小学校教育の普及・発達であろう。明治35年には90%を超えた。

ところで、こうした中学校の急増は、当然その卒業生の急増をともなっている。
中流社会の構成員としての一般的教養を身につけただけで、何の職業的訓練もなく、ただ気位のみはかなり高い中学校卒業生は、社会へ出てもただちに就きうる適当な職業が容易には見つからなかった。
せいぜい郡役所や村役場の書記とか、小学校の代用教員ぐらいのものであったが、これらの職場もきわめて限られたもので、中学校卒業生の就職口としては焼け石に水であった。
いきおい多くの卒業生が上級学校進学をめざして、その狭き門に殺到し、しのぎをけずる結果となった。

 

・・


中学校の制度的変遷をあとづけてみよう。 大正7年12月「高等学校令」が制定公布された。
高等学校は大学予科であることをやめ、男子の高等普通教育を完成するところとされ、七年制高等学校を本体とするものとなった。
それにともなって、入学資格は中学校第四学年修了程度に改められた。

・・

中学校入学難
入学者の「入学前学歴」をみてみると大正前期にはむしろ尋常小学校の過年度卒業者が高い比率を占めており、
大正後期の中学校増設等によってようやぅ尋常小学校卒業者の比率が前者を上まわるに至り、昭和期にかなりの程度事態の改善をみる。

つぎに入学者の社会的背景の変化を知るために、家庭の職業とその構成比の変化をみておきたい。
社会構造の変化を反映し各職業分野の構成比が総体的には向上し、家庭の職業構成が多様化していることがわかる。 
入学者の家庭の職業構成は、まず「農業」が30%台から10%台に急落しているのに注目せざるをえない。

 

・・・

 

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第六高等学校

2024年01月02日 | 学制150年

「一高→東大」というのが長く日本の超エリート指導者層だったが、
年月を経て「いっこうとうだい」という言葉も、最近は聞かなくなった。

旧制第六高等学校が、1900年(明治33年)3月に岡山県岡山市に設立された。略称は「六高」(ろっこう)。
戦前の岡山県民の誇りの学校が「六高」と「岡山医大」。

 

(撮影日・2013年10月14日岡山駅前)

 

六高生は大変なエリートで、肩で風を切るのは当たり前。
富士製鉄の社長だった永野重雄さんは、柔道部員で警官を旭川に投げ込んだことを自慢していた。
それは六高生にとっては岡山市では、大目に見てもらえる範囲の行動だった。

 

・・・


第六高等学校の設置


明治31年12月第十三回帝国議会で高等学校増設の声がおこった。
当時高等学校は、第一高等学校(東京) 二高(仙台)三高(京都) 四高(金沢)五高(熊本)のほかに山口(後高等商業に改組)の六校があったのみである。 
政府も高校増設の議を決したため、岡山、広島、香川、愛知の四県は高校誘置の運動を展開した。 
なかでも、岡山県と広島県の争奪戦はすさまじかった。
岡山市議会議員中から七名を選んで、六高創立委員会を組織し、時の岡山県知事高崎親章は岡山市長小田安正等と共に、岡山県に関係の深い小松原英太郎(当時司法次官)坂谷芳郎(当時会計局長)馬越恭平等を介して六高誘置のためのはたらきかけを熱心におこなった。
委員会は、県、商工会議所とも一丸となって運動し、市の世論も大いに高まっていった。

広島県側の運動の様子を「六稜寮史」は次のように伝えている。
「当時岡山県に対抗して最も劇烈な運動をしたのは広島県であった。
岡山県に劣らず県当局も議員も熱心にその運動に努めた。
両県の新聞も互いに負けず劣らず高等学校設置問題について劇烈な論争をつづけ、両県の代議士間の感情も可なり険悪であった。
同じ政友会に属して居た岡山県選出の代議士石黒涵一郎氏と広島県選出の代議士井上角五郎氏が衆議院の廊下に於て格闘したのもこの議会中の出来事であった。
以て当時両県の高等学校設置問題に対する白熱化を窺ふ事が出来やう」
かくして32年2月遂に六高の岡山設置が決定した。

「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

・・・

六高の生徒気質


六高の第一回卒業式は明治36年7月3日同校講堂で挙行された。
卒業生合計60名、内訳は法科生9名、文科7名、工科16名、医科28名。 
出身地は岡山県10名、大阪府9名、兵庫・岐阜各5名、愛知・和歌山4名、広島3名、京都・福岡・愛媛・奈良・三重・静岡・ 東京・滋賀・鳥取・高知・富山・島根・茨城・ 山梨・香川各1名であった。
明治30年代は日本資本主義の急速な発展期にあたり、古いものの衰退しつつあった時代でもあり、生徒はこれにとってかわる新しい思想や、モラルなり精神の根底となるべきものを求めてやまなかった。

「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

 

・・・
大正7年12月「高等学校令」が制定公布された。
それにともなって、高等学校高等科への入学資格は中学校第四学年修了程度に改められた。

「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行
・・・

 

(旧制第六高等学校は昭和20年6月の空襲で焼け落ち、戦後の学制改革で消滅した。昭和23年から岡山朝日高校が跡地を使用している。
撮影・2022.12.20)

 

・・・


(Wikipedia)


1918年(大正7年)12月に公布された2つの「学校令」

一つは高等学校令の全部改正(第二次高等学校令)であり、
大学進学課程(高等科)としての高等学校の性格が明確化された。

もう一つの大学令では、
帝国大学以外の大学、すなわち官立(単科)大学・公立大学・私立大学の設立が容認された。
以降、数多くの官・公・私立専門学校が大学昇格運動を展開し、大学令準拠の(旧制)大学への改編を達成した。
これらの結果、それまで言論界・教育界を騒がせてきた「学制改革」論議には一定の決着が与えられ、戦前期日本における高等教育制度の確立を見るに至った。

当該期にはまた、それまで公教育体系の外部に位置づけられていた就学前(幼児)教育と障害者教育が初めて制度化されるに至った。

・・・

 

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明治40年、尋常小学校6年・高等科2年 (義務教育6年)

2024年01月02日 | 学制150年

明治40年の学校令で義務教育は6年となり、
従来の高等小学校の1年生、2年生は、尋常の5年生、6年生となった。

祖父母は明治40年以前の対象者で、
父母は明治40年以後の対象者となった。これが昭和21年までつづいた。

 

・・・

・・・

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


明治40年、尋常小学校6年・高等科2年

高等小学校の普及は尋常小学校への併置という形で増加し、
尋常高等小学校が小学校全体のなかで占める割合は、大正期にはこの傾向がより顕著に現れているのである。
明治40年に義務就学が六年に延長され、その就学率も100%に近づき、従って次の段階として高等小学校の著しい拡充である。

明治37年38年の日露戦争後小学校教育は著しく発展拡充し、就学率も急速に上昇した。 
こうした状態に応じて、明治40年(1907)に小学校令を改正して、
尋常小学校の修業年限は6年となり、義務教育年限が2年延長された。
これに伴って高等小学校は2年となり、3年まで延長することができるものとされた。
義務教育年限の延長は、明治41年から施行されたが、これによって義務教育六年間が国民の共通基礎課程として成立するとともに、
義務教育から直接に中学校や高等女学校等の中等教育に接続することとなった。
このことはとくに高等小学校の性格に重要な変化をもたらすこととなった。
すなわち高等小学校は、一般大衆の子どものための完成教育機関としての性格をもつこととなった。

・・・

 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 第1期 (最初)の国定教科書

最初の国定教科書は 1904(明治37)年から5年間使用されました。
そのなかの「尋常小学読本 巻一」 を見てみましょう。
いすの絵にイの字、木の枝にエの字、すずめにスの字、石にシの字が書かれているページから始まっ ています。
ですからこの教科書は「イエスシ読本」と呼ばれました。どうしてこんな学習からはじまったのでしょうか。 
この時期は日本が統一国家づくりを急いでいた頃でした。
しかし、地方は方言が中心で標準語が確立していなかったためにコミュニケーションが難しい状態でした。 
そこで教育をとおして方言を標準語に統一することをめざしました。
方言では「イ」と「エ」と「ス」の区別がつきにくかったためこうした学習が求められました。

・・・

 

「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
義務教育の充実
大正元年(1912)の就学率は男子98.8%、女子97.6%、 
平均98.2%で就学における男女の差はほとんどなくなっていた。
また尋常小学校入学児童の卒業比率では大正2年度入学、7年卒業の場合80.3%と
大正期ではまだ20%近くの児童が中途退学もしくは留年していたと思われる。

・・・

 

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ダイヤモンド青佐

2024年01月01日 | 令和元年~

場所・岡山県笠岡市笠岡・古城山公園から
日時・2024年1月1日 am7:31

今年も新年の初日は「ダイヤモンド青佐」を見ることが出来た。
雲一つない空に初日は出た。

 

 

両手を合わせて初日を拝む人、
わー、きゃーとにぎやかな人、
いろんな人がいた。


古城山公園の山頂は今年もほぼ満車だった。

 

 

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