5月25日の最高裁判決で在外邦人が最高裁判所の判事の国民審査に投票できない現法律を「違憲」と結論付けた。国は投票用紙の作成や送付に時間がかかり困難だと主張していたが、”現行と異なる方法を採る余地が無いとは言い難い”、すなわち工夫すればどうにでもなると退けた。これを改善する為には国会の立法が必要であるが、最高裁は国会が検討を怠っていたと国会の不作為を指摘した。
最高裁が国の方針に対し違憲と断定するのは意外である。三権分立の立場から違憲は違憲と断定するのは当然であるが、国に忖度することはままある。典型は1955~57年の砂川事件である。この事件に関する訴訟において、自衛隊は違憲であるとの主張に対し、最高裁判所は高度な政治的な判断は出来ないと判断を避けた。
さて最近の国会の不作為の別の例は総選挙における1票の格差問題に関してである。昨年10月の衆院選において格差が2倍以上になっているのは投票価値の平等に反し違憲だとして、弁護士グループが選挙無効を求めた訴訟の判決で、高松高裁は違憲状態と判断した。
判決は“最大格差が2倍以上になると、到底看過できない程度の投票価値の著しい不平等状態にあると解される”と指摘し、2021年の選挙では29選挙区で格差が2倍を超えたとして違憲状態と認めるのが相当としたのだ。
同様な訴訟に持ち込まれた選挙はこれまでに何回もある。その度に裁判所は違憲ではなく違憲状態にあると国の行政に忖度した曖昧な表現の判決を下してきた。
これに対し国会は選挙区画の変更や定員の変更でお茶を濁してきた。少子高齢化に伴い、地方の過疎化、都会の人口集中等によりこの程度の変更では間に合わないことは目に見えているが、このような変更ですら国会議員は自身の当落に関係するとなると必死に抵抗する。裁判所もこのような社会情勢の変更に耐えるような抜本的な改正を示唆しているが国会は一向に動かない。
不作為とは行動すべきと分かっているのにあえて積極的行為をしないこと、である。先述の国民審査の件は国会議員にとって直接の影響が無いため消極的な不作為であろうが、投票権の格差問題は自身に直接関係するため積極的な不作為であろう。
更に積極的な不作為は文書通信交通滞在費(文通費)に関わる問題である。国会議員に月100万円支給される文通費を巡り、与野党は日割り支給への変更に合わせ、名称と目的を変更する法改正案をまとめた。文通費は議員の国会での活動を支えるための経費であり、税金で賄うため領収書の添付は当然と思われるが、手続きが煩わしいとの理由で見送られた。税金の使い道を明確にせよとの国民の声に対し議論を避けるのは不作為以外の何物でないが、これは不作為よりもっと質の悪い作為である。2022.05.28(犬賀 大好ー817)
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