
このお二人の名前を知ったのは、マーサ・ナカムラ氏の母上から送っていただいた同人誌「zuiko」第2号を拝見したときである。
母上は気仙沼出身で、私とは祖母同士が姉妹で、うんぬんという経緯は、ここでは脇道となる。
現代詩手帖のこの2月号が小特集「マーサ・ナカムラの世界」で、このブログでも紹介したところだが、お二人とマーサさんの対談が掲載されていた。この3人が、「zuiko」を立ち上げた仲間ということで、その出会い、創刊時のエピソードなど読むと、若々しく、前向きな気分に満ちて、大学のサークルにも似た交流をほうふつとさせる。最初に集まったのが、神保町の路地裏の喫茶ラドリオだったという。
そういえば、もはや半世紀も前に、「学生街の喫茶店」という流行したフォークソングがあった。その喫茶店は、神田神保町界隈にあった、という設定に違いない。何か、懐かしい思いが蘇ってきたかのようであった。
そんなこんなで、このお二人の詩集も読んでみたいと思ったわけである。
どちらのタイトルも、興味を引かれた。リズム感のよさ、みたいなものは感じられた。
【N.G.P. あるいは天国への階段】
『ノトーリアス グリン ピース』(2020.10)は、『ひとりごとの翁』(2017)に続く、田中さとみ氏の第2詩集。冒頭の詩は「天国への階段を買おうとしている彼女を知っている」。
詩のタイトルは見開きの左ページ1ページを使って、黒地に白抜きで横書きに配置されるという、遊びのあるデザインとなっている(装幀家は中島浩氏)。本文は、ふつうに白地に黒の文字で縦書きである。
「天国への階段」と言えば、レッド・ツェッペリンの名曲で、私も何度もバンドで歌ったし、ギタリストではないが、ギターで最初のリフを練習しようともした。ロバート・プラントが”she’s buying a stairway to heaven”とかなんとか歌っていることを踏まえたタイトルということになる。しかし、今になってみると、〈天国への階段を買おうとしている彼女〉というのは、歌詞の中の登場人物であると同時に、ツェッペリンの楽曲(が入っているアルバム)を買おうとしている人物のこととも読める。というか、はじめ歌詞を思い出す前には、そうだと思い込んだ。
冒頭は、
「私は美しい人の姿が土砂のように崩れはじめて海に浸かる
3月の鹿踊りをはじめて眺めていました」(8ページ)
と書き出される。
安倍公房に『砂の女』という小説があり、映画化もされた。山陰あたりの海岸の砂浜が舞台で、詳細は忘れてしまったが、美しい女性が砂の像のようにもろくも崩れてしまうという内容だったように思う。鹿踊り(読みは〈しか〉ではなくて、ししおどり)は、宮沢賢治の童話「鹿踊りのはじまり」もあって、岩手県花巻が有名だが、気仙沼の早稲谷という地区にも残っており、こちらの方が歴史は古いらしい。(さらには、南三陸町志津川の山間が発祥という。)
この2行を読んで、一見、1行目と2行目の連関がつかめるだろうか。
3月というのは、何を含意しているのか。海、崩れる、浸かる、3月というと、3.11東日本大震災の津波という連想にもなるが、どうなのだろう。
ここに、「はじめて」という言葉が2回出てくる。1行目は、崩れるという事態が始まるという動詞であり、2行目は、眺めるという行為が、人生で初回であるという副詞的用法である。だからこれは意味的には同じ言葉の繰り返しではない。しかし、ふつうは、こういう文字面で同じ言葉の繰り返しは避けるものだが、田中氏は、あえて避けなかった。どういうことだろうか。
タイトルから2行目までで、レッド・ツェッペリン、安倍公房、宮沢賢治と、3者の偉大なアーティストを連想させ、3.11という巨大な厄災まで連想させ、ふつうではない言葉の使い方も忍ばせ、となると、これはたしかにシンプルではない。そもそもシンプルなイメージの連鎖、意味の連鎖を拒絶している。読みやすさを拒絶している。拒絶することによって、複雑で重層したイメージ世界をつくり上げている、ということになるのだろう。
1行おいて、アスタリスク(*)をはさんで、また1行空けて、第2連となる。
「マイクロプラスチックを食べた、歴史に回収されるまえの、色の黒い尉、
に接続されていく、
羽衣の菌糸が雪のようにしみていくのを感じていた
ニホンオオカミの 身体、
遠吠えする二つの目玉の 惑星に こびり咲く LACOSTEの花々が、
(木や花にも情けをかけることができる)
まんようしゅうの音色の川が流れていたところ テレビの馬の変形体が、
視線を遮る、
橋上に立っていた人は、
「岬に椿を植える人々がいたという話をあなた知っていますか」
と尋ねた
「いいえ。確か、ゲンズブールはランボーと同じ墓に眠っていたはずだけど」
もう別の景色に接続する、
白鷺が飛びたっている真珠の空、」(8ページ)
この後、1行空けてアスタリスクがあって、また1行空けて詩行が続いていくが省略する。
【マイクロプラスチックと能楽の尉】
マイクロプラスチックというのは、昨今、海洋汚染で魚も食べてしまっている、それをさらに人間が食べて、と問題にされている代物である。現在のテクノロジーの負の成果物である。これは、今、現在の問題であり、言うまでもなく未だ歴史に回収されてはいないというべきである。一方、黒い尉というのは、能楽に登場する老人で、また、その役で用いる能面のことであり、これは日本の歴史文化上の重要な登場物の一つである。だから「マイクロプラスチックを食べた、歴史に回収されるまえの、色の黒い尉、」という3つに区切られた文節は、ふつう素直には接続しないものである。不条理な文と言っても良い。素直に読み取られることを拒絶した一文である。過剰に単純化され、過剰な文脈が流れ込んで意味不明となった文章である。
〈これから歴史が進むと、青年がマイクロプラスチックを体内に取り込んだ海の魚を食べ続けて、老人となり、徐々に体調に変調をきたし、顔色が悪くなる、などという事態が起きてくるのであろう〉→〈顔色の黒い老人がマイクロプラスチックを食べた〉→〈色の黒い尉がマイクロプラスチックを食べた〉→〈マイクロプラスチックを食べた、歴史に回収されるまえの、色の黒い尉〉と並べると、前後を入れ替え、時制を変換し、省略化し、古典の知識を披瀝しなどという文彩の技術を駆使した経過が見えてくるような気がしてくる。ここにはもちろん、「能楽が日本の歴史文化に深く根付いている、歴史文化を形成した重要なファクターである。」という文脈が忍び込んでおり、そういう歴史文化が時の流れの中で変質していく事態も語られているわけである。
と、まあ、こういうふうに語り始めると、一行一行いくらでも敷衍して語り続けることができそうであるが、このくらいにしておく。
5編目で最後の詩となる「キミが最初の花だった」は25ページに、その前の詩らと同様、黒地に白の横書きでタイトル。次のページから92ページまで続く長編詩である。この1編だけで詩集のほぼ4分の3を占める。詩のなかに〈ノトーリアス グリン ピース〉というこの詩集のタイトルとなる言葉が登場する。
しかし、〈ノトーリアス グリン ピース〉とは、何なのか、どういうことなのか、どこにも分かりやすく説明されてはいない。〈悪名高いグリーン・ピース=エンドウ豆〉と翻訳してみても、ふつうの読者に何の意味も渡してくれない。しかし、ノに弱い拍、トーに強拍があり、リアスにはアクセントがつかないことを踏まえて〈のとーりあす・ぐりん・ぴーす〉と発音してみると、なんらかの心地よさはある。それでいい、ということかもしれない。
【ダンスする あるいは30過ぎた奴らは信用するな】
一方、山崎修平氏の、最初の詩集は『ロックンロールは死んだらしいよ』ということで、これも、私としては興味を惹かれるタイトルであるが、新しい方の昨年5月に上梓された第2詩集の『ダンスする食う寝る』を読んでみた。
冒頭は「旗手」。
「ベリーショートが街を離れて
許すことや許されることを思った
明るい鳥葬は
宣戦布告のない今を象徴していて
俺たちはかつての天使を呼び出して朝まで話し込んだ
冷めきったピザ、もったいぶったパーティーの始まり
ダサいなそして臆病でも誠実でもあるのだろう友よ
さっさと自分の言葉を拾いなよ
白鳥に懺悔させるテーブルクロスの下のやり取りさえも
俺たちは余裕の笑みで笑って見過ごせていた
代償としたものはデカいだろう
それでも俺たちは旗手の最後を、旗手の最初を見届けたかった
過去形が間違えているもっと広がりのある照明にしてください」(第一蓮 8ページ)
それぞれの詩の、最初の1ページは黒地に白抜きで印刷されている。見開き2ページで終わる詩なら、次のページは次の詩の冒頭で黒くなるし、終わらない詩は次の見開きは、通常通り、白地に黒字となる。
この装幀も、同じ中島浩氏であった。
この詩には、ビートがある。ヒップホップめいた。バックに重いリズムが通奏低音のように響いている。たたみかけるように早口で歌うように歌わないように語る語り口で語りたくなる。でも、音楽のヒップホップは、もっと分かりやすく脚韻を踏んで、拍に乗るよう音数も一定の範囲に整える。この詩は、そう簡単には歌わせない。脚韻を踏む形式の分かりやすさ、リズムへの乗りやすさをあえて拒絶している。
現代詩とは、分かりやすさを敢えて拒絶した詩のことをいうのだろう。そう簡単には乗らせない。しかし、無重力で重い、クールに熱い、ぼそぼそとつぶやきながら疾走するみたいなグルーブ感は表現できているかもしれない。
4編目のタイトル・チューン「ダンスする食う寝る」。
これは、〈食う寝る遊ぶ〉でもいいし、〈食う寝るたれる〉でもいいし、いずれ人間が生きるということの兪である。ただし、〈ダンス〉ということばには特別の寓意がある。悦ばしく肉体を動かすこと、お祭り騒ぎすること。人間が良く生きることの中核にダンスがある。ダンスにこそ、本来の生とでも呼ぶべき何ものかがある。
そういうふうに、私は思っているし、かつ、私ひとりの思いではないはずである。
「DON’T TRUST OVER THIRTHYの始末に時間がかかっている冷蔵庫を買って電源を入れて何もいれないまま箱として使って平たいのっぺりした道にいつものように集まった俺らは持ち寄っていた
夏の朝のきつい朝にどうして運ぶのか分からないまま運び終わって笑うようなもの
鉄塔に焼べて滑走するその先に真理がありうんざりする
月夜の晩のラザニア、傷つけてはいけません、よくにているということだけでことが進む
水蒸気に乱反射する彼らの仲間が俺の大切なドンペリニヨンを明け透けに語るというから君が壊した万引き自慰メンのことを三日月がガサツだからと呼ぶことにしたこれは博打だねと言うから樹々」(18ページ)
ここまでが、見開き右側のページ、黒地に白抜き。このあと
「の樹皮を液の垂れるところまで…」
と、散文詩のように行替えなしに、左側19ページの1ページ分続いて終わる。
DON’T TRUST OVER THIRTHY(三十過ぎたやつらは信用するな)とは懐かしい言葉である。私が十代の頃、どこで読んだのだったろう?ザ・フーだったろうか?ストーンズだろうか?ドアーズか?当時のロックバンドのアルバムのライナー・ノートに、一度ならず書いてあったはずだし、ニュー・ミュージック・マガジンやらミュージックライフやらにも繰り返し記されていたはずだ。その言葉は、30過ぎたらおれの人生は終わる、くらいの勢いで深く私の心に刻まれた。30歳過ぎて人の親にはなったが、人生が終わることはなかった。そして今でも、その言葉を始末などしていない。抱え込んだまま、その倍を超えて生き延びている。ひょっとすると抱え込んだ私という人間ごと始末されつつある、ということかもしれない。
と、また、2冊の詩集の紹介のふりをして、好きなことを書き散らしてしまった。反省。
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