ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

霧笛135号 編集後記 およびお便りの紹介

2020-12-20 12:58:11 | 霧笛編集後記
◆前号の及川良子さんの「Nの目撃「天空ヒマラヤ部族」を見て」で、原文でほぼ一行分、欠落があった。校正で見落とした。
2ページ目、29ページ第2段12行目である。その少し前から再掲する。
「隔絶されたヒマラヤの山中に暮らす人々。400年もの間変わらぬ同じしきたり。同じ祈りの中で生き続けている。気持ちを強く結び合った。敬虔な祈りを中心としたその暮らしはゆったりとした時間感覚のもとに営まれている。さすがの欧州列強の触手もここには及ばなかったのだな。自然の有様に沿った、祈りに満ち満ちた暮らしは、侵されることもなく【いまに至っている。環境汚染とも原子爆弾とも無縁なこの場所。我々の】歩んできた道は、つまるところ際限のない欲望の希求ではなかっただろうか。ドルボ族と自分の暮らしのあまりの差。温帯に暮らす自分など、何ほどのこともないと思った。」
【 】内が欠落部分である。大切な場所であった。謹んでお詫び申し上げたい。
◆西城健一さんの短歌に感想を寄せていただいた。熊本吉雄さんは、霧笛に参加なさる以前から、河北新報の短歌欄の常連であった。西城さんも、昨年になるか河北歌壇に入選なさって、133号から掲載始めた。小野寺正典さんの五行歌もあり、というところで、枠にとらわれず自由に、ということになるのだろう。水上洋輔くんの「山行」は、一行詩なのか?ひょっとすると、これも短歌だろうか?
◆宮城県詩人会のポエトリーカフェ、千田担当の「気ままな哲学カフェ」を含め、今年は全て中止となった。残念だがやむを得ない。
◆この災難はいつまで続くのか。「新しい生活様式」の探求などという言説は、経済成長のための新たな隙間の探求にしか聞こえない。そうだとすれば本末転倒である。アメリカのことも日本のことも、どうにも本末転倒の浅はかな下らない言説に満ちている、と語り捨てたくなる。良子さんの語る「際限のない欲望の希求」から、人類がどう脱却できるのか。
◆小田亜希子さんの表紙、モノクロとなっても、なかなか面白いと思うが、如何?

〈霧笛へのお便りの紹介〉
◆金子忠政氏から、二〇一八年一二月発行の128号の作品について、翌一月に、お便りを頂戴していた。129号に掲載の旨ご了解いただきながら、ばたばたと編集作業を進める中、パソコン上のメッセージの形で置いたまま、失念してしまった。二年近くも経過したところだが、お詫びを申し上げつつ紹介させていただきたい。

【自分自身に照らし合わせざるを得ない作品に立ち止まる。高齢者の抱えた悲哀が、柔らかな言葉で優しく述べられている。そこには、追想(大文字ではない歴史、逝ってしまった死者への寄り添い)がある。
 例えば、菊池さかえ氏の「笛の音」、あるいは畠山幸氏の「あじさい坂」、さらには小野寺正典氏の「命日に思う」「五行歌」、西城健一氏の一連の作品、小野寺せつえ氏の「友達」。
 あるいはまた、そこには今日のシステムにとまどいながら抗う姿。例えば、日野修氏の「スマホのすごい機能と恐ろしさ」、続く照井由紀子氏の「ATM」、藤村洋介氏の「荒夜」。加えて、鈴木東吉氏の作品はそのまま介護・養護施設に向けられたものだ。
 何度も触れられなければならない沖縄に寄せた、及川良子氏のストレートな作品、「南風よ 吹け この島に」。イマジズムをちょっぴり思わせる川戸富之氏の短詩「月夜」、「赤とんぼ」、こういう言い方は他の同人の皆さんにには失礼かもしれませんが、千田遊人氏の作品群は、高齢社会の到来に憂鬱になりかかっている今日の若い世代の中にあって、溌剌としていて爽やかだ。
  最後に千田基嗣氏の作品。「曼珠沙華」に立ち止まった。一般化からかぎりなく逸れて行きつつ、あくまで個物(=氏自身が対峙した曼珠沙華)としての曼珠沙華を、視覚に加えて触覚・味覚によって記述しようとしている。】

 末尾に、リルケの詩句の抜粋を引用されている。

【待て……この味わい……はやくも逃げ去ってゆく。 ……音楽のほんの一ふし、一回の足踏み、一瞬の口ずさみ―― 少女らよ、おまえたち暖かな、物言わぬ少女らよ、 味わい知った果実の味を踊るがいい! 」 (リルケ「オルフェウスへのソネット」)】

◆小熊昭広氏から、詩誌回生し号をいただく。情報短信に久しぶりに霧笛の133号を紹介いただいた。

【この二年ぐらいの間、私は送られてくる詩誌や詩集には目を通していませんでした。理由は、自分が生きるということを否定していたからです。】

 ただならぬ言葉である。氏の定年退職前後のこの数年、具体的にはどんなことがあったのか詳らかにしないが、前号の「み号」が、ずいぶんと間を空けての発行だったのに対し、今回は日を置かず発行されているので、ひとつの状況は抜け出たものとは推測されるところである

【久しぶりに…読んだ感想は「変わらないな」というものでした。いつものとおりに「生」に対して肯定的な作品が並んでいます。】

 ふむ、なるほど。確かに、霧笛同人の仲間たちは、それぞれに生にポジティブに向かい合っているということなのかもしれない。
 しかし、変わったこととして、西城健一氏が、詩のほかに短歌を載せ始めたことに触れて書かれている。

【これまで美しい街を歌っていた西城氏が自分のことを歌っているからちょっと、あれ違うなと思ったのでした。西城氏の眼差しの先にある対象が詩と短歌で明らかに違っているのです。】

【短歌では、自分を、自分の生活を歌っています。言葉が詩における客観的な言葉から、短歌では主観的な言葉に変化しています。私には、堰を切ったように流れ出した自分という存在を表す言葉と言っても良いある変化を感じるのです。】

◆東京の坂井礼美さん、このところ最も心に残った作品として、133号の西城さんの「弁当箱 すみずみ洗い棚に置く定年退職静かに眠る」を取り上げ(この作品は、小熊さんも何篇かの短歌の冒頭に引用されている)、【とても心魅かれる神戸の画家「女神像」しか描かない石井一男さん】の【清貧の生活】を思い浮かべたとおっしゃる。

◆宮城県詩人会の大林美智子さん、お送りした霧笛は【必ず読】んでいらっしゃるとのこと。134号の私の「現在を楽しむこと」について、【私も同感です。人間の歴史は人間の手段化の歴史であったと言えると思います。全ての個は個であるだけで尊い。個が大切にされ、「今」が大切にされる世界にしたいものですね。】

◆図書館学の斎藤誠一先生も、この詩について【改めて考えさせられる作品を読ませていただきました】と記される。



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