ぼくは行かない どこへも
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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

柄谷行人 柳田国男論 インスクリプト

2014-05-03 16:10:20 | エッセイ

 

 柄谷行人は、一般的にどういうイメージで捉えられているのだろうか?

 肩書は、文芸評論家になるのだろうか?しかし、ずいぶんしばらく文芸評論からは遠ざかっている。政治学、経済学、歴史学、そして哲学に関係する分野の著作を、長く書き続けていると言っていいのだろうと思う。

 とても、難解な本を書く人、と思われているかもしれない。

 しかし、この本は分かりやすい。とてもシンプルに柳田国男の学問について紹介してくれている。

 分かりやすいというのは、この本のことばかりではない。

 「哲学の起源」だとか、「世界史の構造」だとか、最近のハードカバーの分厚い本を読んでも、難解なことはひとつも書いていない。理解の困難な術語は出てこない。アクロバティックな論理の展開もない。いたってシンプルに道筋を説いている。わたしは、そう思う。

 この「柳田国男論」に収めた文章は、1974年に書いたものと1986年に書いたもの。柄谷は1969年に群像新人賞を受け、72年に最初の評論集を出したと言うから、74年のものは評論家としての出発から間もなくの時期に書いたものということになる。彼は、ごく早い時期から、柳田について関心を持っていた。

 86年のころには「柳田に対する世間の見方が、七〇年代初めのころとは、だいぶ変わってきていた。それまでは、柳田は、知識人が知らなかった大衆存在を把握しその思想を汲み上げるような思想家として見られていた。ところが、この時期には、逆に、柳田は均質的な「常民」の世界のみをとりあげ、そこから逸脱するような存在を排除する思想家として非難されていた。このような変化の背景には、経済の高度成長がある。それが『知識人と大衆』というような問題意識そのものを形骸化したのである。そのことは、一九八〇年代のバブル経済の時期に極まった感じがある。」(序文 3ページ)

 柳田国男は、日本の民俗学の創始者。あえて、私が紹介するまでもないビッグ・ネームだが、世の中、物事を知っている人ばかりではないし、若い人々には、折に触れてだれかがその名前を伝えていく必要もある。最も有名なのは「遠野物語」だろう。岩手県遠野郷のひと、佐々木喜善が採集した遠野に伝わる昔話を、本の形に纏めた人。

 その遠野には、ほかのまち、ほかの地域とはまったく違う空気があった。大学を終えて戻ってきて、遠野市を訪れる機会があった。陸前高田、住田と北上して、遠野市に足を踏み入れた瞬間、何か全く違う世界に足を踏み入れたような感覚を覚えた。ああ、ここがあの遠野郷だ、山々に囲まれた遠野の盆地だ。空気が違う。現実世界に重なる、パラレルな異空間。

 それは、柳田の「遠野物語」を読んでいたからに間違いはない。この盆地だけ少しだけ酸素が薄い、窒素と酸素の比率が違う、あるいは、微量のおかしな気体元素が混じっているなどということはありえないことだ。

 柳田は、この本の、編集者であり、最後に筆を取ったアンカーマンではあるが、取材者でもまして創作者でもない。「遠野物語」の作者が、柳田国男であって佐々木喜善でないことに異議を唱える人はある。おっと、柄谷の本の紹介からは外れた脇道の話が長くなった。

 柳田国男が言う「常民」は、日本のそこいらにふつうに暮らしている庶民であり、その大方は、毎年土にまみれて稲作を行う農民で、被支配者である、支配者である武士ではないし、海に出て魚を獲る漁民でも、山で狩猟をする山民でもないというようにイメージされているに違いない。

 柄谷は、そうではないと言う。柳田の「常民」は、海民でもあり、山人でもあると。決して、農民オンリーではないのだと。

 もっと原理的な、幅の広い観方をとったひとであり、まさしく学問の基礎を打ち立てたひとであると、柄谷は評価しているようだ。

 さて、知識人は、一般大衆の上にいるのか横にいるのか。

 西洋や東洋の難しい学問を学んで、一般大衆を教化し指導するべきひとびと。もう一方で、他の地域を遊動して面白い情報をつかんで、定住者に伝える役割を果たすひとびと。

 これらは、ずいぶんと違うことのようでもあり、似たようなことの言い方を変えただけのようでもある。

 上であろうが、横であろうが、あるいは下であろうが、実は、そんなに違うことではない。何か、違う観方があるということが大切なことなのだろう。日常を生きる中に、日常を離れたものの見方を提示する。歴史的で、根源的なものの観方。

 「この時期(バブル期)には、集団や領域のなかに定住することを否定し、脱領域的、ノマド的な遊動性を称揚する「現代思想」が流行していた。」(同 4ページ)

 「ドゥールーズ&ガタリがいうノマドロジーは、遊牧民にもとづいている。それは脱領域的で闘争的である。それは、ラディカルに見えるが、資本・国家にとっても好ましいものである。したがって、それは九〇年代には、新自由主義のイデオロギーに取り込まれた。」

 柳田は、そういう遊牧民とは違うものを見ていたと、柄谷は言う。柳田の「山人」である。同じ遊動民(ノマド)ではあっても、遊牧民ではなく、遊動的狩猟採集民であるという。柳田の言う常民は、定住する農耕民のみを限定的にさすものではなく、山にいる「山人」を含むものであり、それは、遊動的狩猟採集民なのだと。

 遊牧民は、農耕定住の始まったあとに、定住者のいることを前提に、牧畜や商業を営んだ。それに対して、遊動的狩猟採集民というのは、農耕定住以前からのひとの在り様としての遊動なのだと。定住者という前提なしの遊動なのだと。

 最近流行りのノマドは、最近の新自由主義的な経済に馴染みやすい、新自由主義のイデオロギーに取り込まれたものなのだ。

 遊牧ではなく、もっと根源的な「遊動的狩猟採集民」に着目した柳田を読むことは、現在の競争的な経済社会の在り方を見直すこととなるわけだ。

 では、どんな見直しが行われるのか。

 70年代と80年代に書かれたこの本には、それほど明確な解答はないように見える。

 「柳田はしばしばこういっている。私たちの学問は、何々に答える学問ではなく、何かの問いを起こすという学問である。あるいは個々人の疑問を喚起し彼らが日常知らないでやっていることの意味を問いなおさせる学問である。柳田はほとんど答えを与えない。」(59ページ)

 「いわばアテネの街角でそういう声を発したソクラテスのように、柳田は世界を説明するわけでも教えるわけでもないが、つねにひとを、私は何を知っているかという『自問』のなかに立たせるのである。」(60ページ)

 問うこと。根源的な問いを立てること。安易に答えを出さないこと。問い続けること。

 しかし、この本の真ん中ほどに、ひとつの答えのようなものは提示される。

 「柳田にとって「作る」とは、あれこれと制度をいじったり、空想的な政策を立てることを意味しない。その逆であって、…(中略)…人間がなしうることは、人間が「自然」について知りうることだけだ。「自然」とは、柳田の場合でいえば、日本の歴史にほかならない。それを知らないで、どんなことを企てようと失敗するほかはない。」(130ページ)

 歴史が自然である、ということ。ここでいう自然はいわゆるネイチャーだけのことではない。人間の肉体が自然であることは言うまでもないことだが、それだけでなく精神的な在り様も含めて、日本の社会の中で自ずからなるように、自ずから然るように進んできた歴史、残されてきた記録や記億、それが自然であると、柳田は言う。もちろん、その中には、自然の森や海や稲などの農作物などというような自然の中での人間の営みが大きな位置を占めていることは当然のことである。

 自ずから然る様に進展していく。

 なるほど、ここに答えはある。

 しかし、これは、答えにならないような答えであるとも言える。このボタンを押せばすべてが解決するというような類いの答えではない。この思想がすべてを解決すると言う類いの思想ではない。問い続けること。よくよく観つづけ、問いかけること。

 それで、柄谷行人は、昨年1984年に「遊動論-山人と柳田国男」という本を文藝春秋から出しているようで、引き続き、その本を買って読まなければということになる。2013年11月付の「atプラス18 特集柳田国男と遊動性」(太田出版)という、柄谷行人の写真が表紙になっている雑誌は買ってあるので、そちらを先に読むべきかどうか。

 余談になるが、遠野の空気が違っていたという話の続き。

 その後、気仙沼に暮らし続けて、「山の遠野」の空気が他と違っているのと同様に、「海の気仙沼」、北上山地の支脈に囲まれ海を抱え込む気仙沼、気仙沼湾とさらにその中に大島を抱え込む気仙沼、この土地もやはり、他の土地とはまったく違う空気が流れているのではないか。別世界、ひとつの小宇宙を形成しているのではないか。

 遠野物語の遠野、さらに、また飛躍すれば、大江健三郎の小説に繰り返し登場する四国の山深い谷間、あるいは、宮沢賢治のイーハトーボ、そういうものと同じ種類の土地として、気仙沼がある、気仙沼の湾があるのではないか。

 そういう着想、そういう妄想が、私の人生のテーマであった、あり続けているということが言える。

 思想家柄谷行人が、柳田国男を論じた、そのことだけで、私としては、深いつながりを感じざるを得ない。なにか、私が読み、考えてきたことの、右と左の端がつながったというようにも思わされる。有難いことだ。

 しかし、この「柳田国男論」という本が、何を書いているか、ということは、そんなに分かりやすくはなかったかもしれないな。特に、私のこの文章は、読んでもよくわからない類いの文章だったかもしれない。明快な良き紹介にはなっていないかもしれない。悪文だったかもしれない。


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