ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

花二題

2014-05-03 18:09:52 | エッセイ

 先週あたりの写真二枚。

 先週、気仙沼も桜の花が満開だった。これはこれで、愛ずるべきこと疑いはない。しかし、半世紀以上生きてきてみると、ソメイヨシノは幕末に品種改良で生み出されたものというと、なんだ、たかだか一世紀半前のことに過ぎないなどと思えてしまう。

 戦前に、シニカルな小林秀雄が室町の頃もついこないだみたいなことを書いていたのだ、決して遠い昔のことではないみたいなことを言っているのだと、高校の国語教師が言っていたことが思い出される。室町は六〇〇年前で、それに比べれば、幕末は、なおさらついこないだ。

 ソメイヨシノは江戸近郊の染井村の植木屋がつくりだした吉野の桜のまがい物に過ぎない。この高台からあちこちに眺められる百本以上の満開の桜のほぼ100パーセントは切り取られた若枝が成長したクローンめいた生き物でしかない。そう考えると、それほど快適な気分とはいいかねることになる。

 本居宣長の 「「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」は、ソメイヨシノのことではないのは明らかだが、落合直文の「緋縅のよろひをつけて太刀はきてみはやとぞおもふ山さくら花」は、時代的にはソメイヨシノの可能性もあるが、品種としてのヤマザクラではないとしても、まあ違うのだと思いたい。

 とかいうときに、対岸に色鮮やかな黄色と濃いピンクの花が咲いているのが見えた。なんという花なのか知らない。自生しているわけではなく、誰かが植えた栽培種の花木であることに間違いはないだろう。

 震災前からあった花であることは確かだが、ここ数年、咲いていたかどうか?こんなに色鮮やかに咲いているのをみたのは、震災以降初めてではないか。あのあたりは、ぎりぎりまで水が上がって、対岸にも、また川の反対側もすぐ後ろまで水が押し流されてきていたところだが、いわゆる自然堤防というのか、若干高く盛り上がっていて、なんとか顔を出していたあたりだと思う。この三年間は花が咲いていなかったとしてもおかしくはないかもしれない。あるいは、単にぼくが、気付いていなかっただけの可能性もある。

 なんにしろ、あたりには、桜が満開で、散りはじめた中、この鮮やかな黄色と濃いピンクが新鮮だった。

 などという翌日に、もうほとんど葉桜となった図書館の裏庭の桜の下においた車の車体いっぱいに桜の花びらが散っていた。まさにソメイヨシノの花びらである。

 ソメイヨシノの花ではあっても、それにしても、と思わせるものは、やはりあるものだったかもしれない。幕末に人為的に作りだされた品種であっても。

 (それにしても、のあとは言葉が省略されていることは言うまでもない。「見事だ」とか、「美しい」とかでももちろんいいのだが、ここは「あはれ」と入れるのが正解となる。年若い読者のための蛇足)


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