ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

石津ちひろ・詩 加藤久仁生・絵 ほんとうのじぶん 理論社

2014-06-21 18:35:13 | エッセイ

 石津さんは、これまでも、理論社から、「あしたのあたしはあたらしいあたし」、「ラブソング」と、それぞれ画家は違うが、小ぶりな可愛らしい体裁の絵本のような詩集を出されている。この詩集は、ことし5月の初版第一刷。

 ある日、帰宅したら、理論社から、小包が届いていて、開けてみると、この本だった。

 薄青い空の下に、子どもが3人並んでいる。地上に立っているようでもあり、雲の前に浮かんでいるようでもある。たぶん小学校高学年だろう。裏表紙には、また別の4人がいる。女の子は全部でふたり、男の子は5人。男が多い。なぜだろう?

 小ぶりで薄いハードカバーの詩集。生きているうちにこんな本が出せたら、どんなに幸福だろうか?自分なりには詩を書いている人間として、それは見果てぬ夢のようなものだ。

 

  うみをながめるうちに

 

 ざざざざ ざぶーん

 ざざざざ ざぶーん

 ひとりしずかに

 うみを

 ながめるうちに

 ぼくはふっと

 きがついた

 じぶんが

 ずっと

 うみにいだかれながら

 いきてきたのだ

 ということに

 

 ざざざざ ざぶーん

 ざざざざ ざぶーん

 ひとりしずかに

 うみと

 むきあううちに

 ぼくはふっと

 きがついた

 じぶんが

 いつも

 うみをいだきながら

 いきているのだ

 ということに

 

  (22ページ うみをながめるうちに全文)

 

 少年は、海辺にひとりでいる。家族は、家にいるのかもしれない。近くの浜辺に散歩に来たのかもしれない。あるいは、家族とともに海水浴に来て、ほど近くに家族はいるのかもしれない。

 しかし、少年は、ひとりで海を見ている。海に向き合っている。

 少年が、こういう海を発見することは、大切なことだろう。そしてかれは、すこしづつ成長していく。

 2014年のいま、三陸沿岸のまちに暮らす小学生が、このように海を発見したとすれば、それはなおさらとても深く、大切なことだろうと思う。

 

   あおいそら

 

  きーんと

  つきぬけるような

  あおいそらは

  ぼくのむねに

  つきささる

  まるで

  おおきすぎる

  よろこびのように

  おおきすぎる

  よろこびは

  どこか

  くるしみに

  にている

 

  (あおいそら 第一連 37ページ)

 

 第二連では、あおいそらはぼくのこころをつつみこむ。そして、やすらぎににている、という。

 

 56ページの「ひとりじめ」は、夕刻の「いわしぐも」をひとりじめにするというものだが、それは、声をかけて呼んだおかあさんも妹も、夕飯の準備やピアノのお稽古に忙しく、相手にされないので、しかたなくひとりぼっちで眺めつづける、それを「ひとりじめ」と語り直す詩だ。

 そうだな、この詩集は、小学生の男の子が(ああ、登場する子どもは、「ぼく」と自称している)、幼さから一歩脱けだして、すこしづつ大人のほうに向けて成長していく、そんな時期を切り取って描いている。そんな詩集だな。

 少し前までの私は、こういう詩集に出会うことができなかったかもしれない。石津さんと出会って、こういう詩集が読めるということは、私の人生にとって幸福なことだった。すこしづつでも、私も成長しているのかもしれない。


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