松下圭一氏は、法政大学名誉教授、政治学者。私も所属する自治体学会の思想的バックボーンとも称すべき学者。
私の家の本棚には、「社会教育の終焉」(筑摩書房、1986年初版)、「日本の自治・分権」(岩波新書、1996年)、「政治・行政の考え方」(岩波新書、1998年)、「自治体は変わるか」(岩波新書、1999年)の4冊がある。ごく早期からの日本の地方分権推進の立役者のひとりである。
さて、この本は、今年2014年1月16日発行であるが、実は、単行本としては、1987年5月に刊行されている。今から27年前。私がちょうど30歳だったころ。「社会教育の終焉」の1年後だ。
ロックとは、イギリスの思想家ジョン・ロック。あの経験論のロック、「タブラ・ラサ」(白い紙)のロックである。
タブラ・ラサ、皆さんも聞いたことがあると思う。
人間は、生まれた時にはまっさらの白い紙のようなもので、さて、その後に、どんな経験をするか、文字や絵で書き込まれていく。そして人間が出来上がっていく。
どんな家に生まれたか、どんな親の子であったか、遺伝子やあるいは家柄で、生まれる前から人間は定まっているのだ、ということでなく、生まれた後の教育が大切なんだよとか、あるいは、自らの自由な選択が大切なんだよ、ということを主張しようとする文脈で使われる言葉だ。
書かれる文字や絵が、周囲の環境から書き込まれるのか、あるいは、自ら書いていくということに主眼を置くかで、良く考えると、この言葉も意味は変わって来るといえるな。
ただ、どちらにしろ、人間がその生まれですべて決まっている、もはや、変わりようがない、などということはないのだ、ということを言っていることは確かだ。
人間は、変わりうるのだ。そして、成長しうるのだ。教育は、意義があるのだ。そして個人の選択に意義はあるのだ。
こういうことは、当然のことである。現在の我々にとって、教育だとか、自由だとかいうことがとても大切なもので、ある意味では、空気や水のように、あたり前すぎることかもしれない。
人間が変わりうるものだとすれば、社会も変わりうる。世の中は、よりよくなることができるのだ、と信じることができる。
政治に参画することは、政治をよりよくすることを可能にするものであり、社会をよりよくすることを可能にするものだ。
この本は、次のように書き始められる。
「ジョン・ロック。すでにご承知のとおり、ロックはヨーロッパ〈近代〉を「理論」として成立させた啓蒙哲学の定礎者でした。ロックが〈近代〉を理論として定型化します。」(2ページ)
啓蒙とは、「蒙を啓く」、蒙とはくらいと読む。無知蒙昧(むちもうまい)ということばがある。曖昧でよくわからないこと、暗いことを開く、窓を開けて光を入れる。見えなかったものを見えるようにするということである。教育によって理性を開拓し社会を発展させようとする。
続けて
「ロックの主著『市民政府論』を読むことは、〈近代〉とは何か、をいま一度問いなおし、〈近代〉の起点をめぐって、一七世紀ヨーロッパにおける《工業化・民主化》の始動がになった世界史の画期を考えることになります。」
この《工業化・民主化》ということは、いま、現在の世界を覆っている社会のありようだということは言うまでもない。
「私たちが生活している〈現代〉は、この工業化・民主化の地球規模における展開、それも矛盾にみちた展開なのですが、今日の時点でロックを読むことは、「ヨーロッパ近代」の歴史的意義を見すかすという意味を持ちます。」
「ヨーロッパ近代」にこそ、現在の私たちの生活のひとつの源流があるのだ。東洋の日本における普通の生活も、ヨーロッパ近代にこそそのルーツがある。
日本国憲法の基本的な考え方も、国民主権だとか、基本的人権だとか、近代のヨーロッパに起源がある。そして、このジョン・ロックこそがその考え方を本としてきちんとまとめたひとである。そのロックの「市民政府論」こそが、まさしくその本である。
「もし、この事実が『日本国憲法』四〇年の今日も、日本で十分知られていないとするならば、ロックはますます読みなおされる必要があるということになります。」
四〇年。そうそう、この松下氏の本の単行本としての刊行は、一九八七年であった。
永遠に続くかと思われた自民党長期政権の真っ只中だ。反自民の細川護煕連立政権の誕生が一九九三年だから、もういい加減、自民党も終わりだ、みたいな空気が満ち満ちていながらも、まだ、盤石のごとく居座っていた。細川→羽田の短命政権が、建武の中興のごとく崩壊したあと、また、ながながと自民党政権は継続した。その後の経過は、みなさん、ご存知の通りだが、この本が、自民党安倍政権の今年、岩波現代文庫として復刊されたということは、意義のあることなのだろう。恐らく、編集者、出版社の意図は、明確にあるはずだ。
「官治・集権」を良しとせず「自治・分権」を求めるひとびとにとって、必読の書である。
「今日も、憲法学では、官僚主導の《国家統治論》が保守・革新ともに続き、政府の権限・財源は主権者市民からの『授権』という《政府信託論》は、いまだ育っていないことになります。」(42ページ)
この本の書かれたときからほぼ三〇年経過する今でも、この事態はほとんど変わっていない。
それで、あとは、あれだな。
個人と共同体。個人と国家。共同体と国家。
自由。社会的な自由。政治的な自由。経済的な自由。
グローバルとローカル。グローバルな市民とグローバルな資本。
国家と資本。自由と尊重と共助か。
グローバルな資本とローカルな生業、という対比?
これらのことばは、どう関係し、どう協調し、どう対立するのか。
さて、どういうふうに、日本の未来は構想されるべきなのか。
この本の末尾は以下のようなものである。2013年に書かれた現代文庫へのあとがきである。
「日本の社会は今日も、外国語流通、女性登用、また貿易の自由、あるいは外国人留学生・観光客受け入れなどをめぐって「閉鎖国家」状況にあり。地球規模での市民型公共感覚を築きえていない。しかも〈政権交代〉なき中進国状況に、いまだとどまることを確認したい。日本の市民の《成熟と洗練》をめぐって、私たち市民はきびしい「覚悟」という時点にたっている。」(293ページ)
この本を読み進め、ロックを、そして、松下圭一氏の行論を学び、深く共感しながら、この最後の文章を、どう受け止めるか?
まさに、いまの日本の問題が露呈しているのではないか?ここからこそ、私たちは、再び学びはじめ、議論を行わなければならないのではないか?
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