副題は、学者と作家の創造的対話。
木村草太は、気鋭の若手憲法学者、首都大学東京法学部教授であり、新城カズマは作家、架空言語設計家、京都造形大学客員教授とある。
新城氏は、初めてのお名前である。
木村氏はプロローグで、新城氏をこう紹介する。
「…新城さんは知的好奇心のかたまりのような人だ。文化人類学、歴史学、あるいは私の専門である法学に関わるようなテーマも、どんどん掘り下げて展開していく。作品中の文献引用がなんとも気の利いた感じで、自分の中の知的好奇心も刺激されていく。」(4ページ)
扉にこうある。
「AI、宇宙探査、独裁の再来、思想統制、核戦争の恐怖……現代世界で起こるあらゆる事象は、小説家やアーティストによる「フィクション」が先取りしてきた。同時に、学問研究や科学技術の進歩が、新たな創作への想像力を掻き立てる。まさに現実とフィクションは互いに触発し合い、発展していく。憲法学者とSF作家の稀有なコンビが、『1984』『指輪物語』『飛ぶ教室』などの名作を参照しながら政治、経済、科学を縦横に巡り、来るべき社会を構想する。」
と、まあ、そういう本である。
「現代世界で起こるあらゆる事象は、…「フィクション」が先取りしてきた」、同時に現実の進展が新たなフィクションの創造を促す。
そもそもフィクションと現実の相関関係は、まさしくそういうものである、と私は思う。
現実とフィクションとは、実はそうやすやすと切り分けられるものではない。いや、起こってしまった事実と、起こっていないことは、明確に区別しなければならないが、特に法学の分野では、その区別が決定的に大切であることはその通りなのであるが、そう簡単なことではない。
だから、新城氏が下記のように言うことは、私として半分肯じながら、半分は違和感が生じるところだ。
「新城 事実と非事実の混同という点からすると、非事実であるはずのフィクションが、人間にとって事実と同質の影響を与えてしまう、という点も気になるところです。/たとえば、村上春樹さんが北海道を舞台にした短編小説「ドライブ・マイ・カー」の中で、この町ではたばこのポイ捨てが普通のことなんだろう、みたいなことを書いたら、その現実の町から文句を言われた。それで、短編小説集として単行本にするときに、町の名前を架空のものに書き直したっていう話もあります。」(73ページ)
これは、あるまちが、良くないイメージを書かれたから文句を言うわけであるが、世の市役所の観光課は、すべからく、良き小説の良きイメージは、観光宣伝に活用しているはずである。横浜とか、函館とか、小樽とか、城崎とか、また、気仙沼だって例外ではない。(というか、現実の気仙沼は、まだ、熊谷達也氏の仙河海シリーズを、市観光課としては活用してはいないな。でも、いずれ、仙河海シリーズが古典化していくとすれば、活用していくはずである。小説ではないが、落合直文の短歌等は活用している。)
小説の良きイメージが、ひとびとに影響して、あるまちに興味関心を持ち、集客の増加という現実に結果していく。
これはいかにも普通のことである。
ただ、一般のひとびとが影響を受けるという話と、国家がそこに介入してくるというのは、また全然別の話で、ここでの新城氏は、国家の法律について語っているから、そういう議論になっているということだろう。
「新城 あらゆる登場人物のすべての言動に対して、作者にツッコミを入れるような時代になってしまったら、もう小説家は商売上がったりです。それこそ「日本という国でこんな事件が起きました」というミステリーを書いたら、日本国から「お前、ちょっと待て。日本がとんでもない国だと思われるからやめろ」って言われちゃう可能性がありますから。」(74ページ)
よく見ると第一部のタイトルは「法律は物語から生まれる」である。新城氏ご本人もこんなことを言っていると頭がこんがらがってくるともおっしゃっている。フィクションと現実の相関関係こそ、この本で議論されているテーマそのものであった。
第一部のⅤは「フィクションから社会へのヒント」。
「新城 私もSF短編書くときに、法人について自分で必死になって調べたことがあるんです。法人というのは結構最近になって出てきたもので、実に不思議なものなんだなぁということがわかって、すごいびっくりしたんですよね。」(100ページ)
最近の世の中は自然人としての個人より、法人、特に株式会社が主要なプレーヤーとみなされることが多いはずだが、法人というものの歴史は浅く、しかも、ずいぶんと変なものであるらしい。
その先に、自然人、法人に次ぐ第3の登場者として「架空人」とか、「AI人」とかの話も出てくるが、面白い議論である。ただ、いずれ、架空人にも生産や消費、収入支出を認めるということであれば、それは、法的に人格を持つものとして、一種の法人ということにはなるのだろう。
第2章のⅥは、法律にできること。
「木村 本来の法律の役割でないことを法律で何とかしようという動きは、他にもあります。私が気になっているのは、「『親子断絶防止法』を理念法として制定して、面会交流を促しましょう」という動きです。
確かに、夫婦が離婚しても、子どもの親であることに変わりないですから、できることなら良好な親子関係を続けられるほうがいい。でも法律で「親子の交流を続けなさい」って言われても、いまのままでは無理なんですよ。みんないろいろな事情があって、心理的・経済的な負担が重いことはわかったうえで、それでどうしようもなくて離婚しているんですから。
子どもの連れ去りのリスクや、子どもに危害が加えられるリスクがない面会場を誰でも利用できるようにして、面会交流で生じたストレスをケアできるような体制を整える。そういう支援体制を充実させなければ、どんなに立派な理念を掲げたところで、親のストレスを増やすだけです。子どもにとっても負担でしょう。」(234ページ)
「新城 なんで「法律に書けばそうなる」と思いたがっているのか、ほんとうに不思議です。
木村 道徳と法を区別していないんじゃないですかね。法律って、所詮、外形的行為しかコントロールできないんです。」(236ページ)
法律は内面を直接規制できない。「外形的行為しかコントロールできない」。
経済学という学問についても対話が進む。
「木村 そもそも「経済学とは成功した学問なのか」について疑問を感じるからです。」(285ページ)
いかなるエコノミストの予測も、必ず当たるということはないようである。予測は、当たるかもしれないし、当たらないかもしれない。経済学が考慮すべき現実の変数をどの範囲に取るか、によって推測は変わってくる。むしろ、当たらないと言いきってしまっていいほどである。
「木村 経済学を本気でやるなら、人間の感情まで計算に入れないといけない。しかし、そうなると学問としては、悪く言えば怪しい、良く言えば難しくて深くなる。
新城 そうだとしたら、経済学は、政治と直結しないと機能しない。
木村 政治とも直結するし、ひょっとしたら占い師とも連携しなきゃいけないかもしれないですよね。占い師に「ここでお金を使ったほうが良さそうですよ」と言わせることができれば、ひとの感情をコントロールできますから。」(287ページ)
第三部「SFが人類を救う」のなかに、「「国民の総意」はフィクションの典型」という小見出しのところで、下記のような会話がある。
「新城 (国民の)総意ってどうやって測るんですかね。
木村 フィクションですよね。「国民」は「ここにペンがある」というのと同じ意味で存在するわけではありませんから。憲法学的には、「この憲法を定めたのは国民ですね。ということは、憲法に書かれたことは国民の総意ですよね」という非常にシンプルな説明になります」(327ページ)
「国民の総意」というのは、ルソーの「一般意志」のことと言っていい。このルソーの「一般意志」というのも謎の言葉で、うえで木村氏が言うように、端的にいってしまえばフィクションに過ぎない。しかし、フィクションだからと言って意味のない無駄な言葉だということにはならない。現実はフィクションから造られるのである。
とまあ、引用したいところは多々あるわけであるが、この本はトールキンやケストナーなども引き合いに出しつつ、作家新城カズマ氏と、憲法学者木村草太氏が、物語と法律について縦横無尽に語り合った書、ということになる。
読んでなかなか刺激的な本ではあったが、この紹介を書くのにずいぶんと難儀した。なにかすっきりとした根幹を選びきれない、というのか。もういちど読みなおして書き換えて行く作業が必要なのかもしれないが、ここでは、いったん、このまま掲載することとする。
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