ぼくは、気仙沼演劇塾うを座のスタッフとして、俳優・演出家壤晴彦さんの指導に立ちあうことが多い。常々、壤さんの、指導者としての卓越ぶりは、このひとこそ我が師と敬服している。何といっても、こういう師と巡り合えるということが、うを座塾生となる意義であることに間違いはない。
良き師は、ひとを成長させる。ある一日のレッスンの中で、良く育まれていくことを感じさせる。厳しいレッスンであっても、ひとを伸ばす。決して潰すという感覚を味あわせることがない。
これは、振付家の鎌田真由美さんらを含めてのことで、また、公演の際にお世話になる、舞台、音響、照明スタッフの皆さんも、演劇の世界で優れた専門家であるが、妙に権威ぶって威張るなどというひとは、ひとりもいない。
これも、壤さんの繋がりのなかでお出でいただいている皆さんで、良き師が良き人脈を呼び寄せているもの。有難いものである。
標記の「身体で考える」は、合気道の師範(で思想家)の内田樹と、ヨーガ行者にして指導者の成瀬雅春の対談である。ともにひとの師であるおふたりのことばは、壤さんと接してきたぼくにとって、腑に落ちるものであった。
成瀬 教える人は、それだけの懐の深さというかというか、間口の広さが絶対必要です。だから師を選ぶときには注意が必要で、選んだ師の存在だけでずいぶん上達の度合いが変わってきます。(…)
内田 レベルの低い先生というのは潰しにかかる傾向があるんですよね。技量の低い先生は、弟子がすぐにできるようになるので、自分がすぐに追い越されてしまう。そうなるのは困るわけです。/そのため、あれこれときびしく指導したりする。…どんなに努力しても、「ダメだ。ダメだ」というばかりで、精神的に追い込む先生は多いですね。(120~1ページ)
実は、先日お出での際、塾生に、新美南吉の掌編「飴だま」を素材に指導していただいたが、いわゆる「ダメだし」という演劇用語について、どうしてダメだしっていうんだろうね、ダメだダメだって言ってはよろしくないんだよね、という趣旨のことをおっしゃったばかりだった。「ダメだし」というのは、演出家が、役者のひとりひとりに、ひとことひとことごと、細かく演技指導をすること。
もちろん、口立てで指導をする場合、あ、それダメ、とか、ダメだな、とかつい言ってしまうし、ダメということば発言禁止などとはならないのだろうが、まあ、えてして、力のない指導者は、とにかく相手を否定にかかる場合が多いというのは、良く目にする光景と思う。指導者であったり、また、職場の管理者であったり。
ぼく自身、うを座において、子どもたちを指導する場合もあり、また、職場においてスタッフと接する場合も、良きところを認め、それを口に出すということを心掛けている。悪いところを指摘しということはできるだけしないように心掛けているし、指摘せざるを得ない時も、それで相手を潰すとか、こちらがそれで優位に立つなどということは決してないように心掛けている。
スタッフには、上司から指示を受けたからやっているのではなく、自分でやるべきだと思うから、自分からやった、というふうに思ってもらうのが最上策と思っている。それで仕事がうまく回るというのが理想。やるべきだし、やりたいし、さらには、やったから幸福だ、とまで思ってもらえれば、上策中の上策ということになる。ま、これは、ずいぶん、困難な課題だと思うが。
ぼく自身が良き師であるなどということはもちろんないのであるが、そういうものを目指すということはあってしかるべきで、内田樹師は、常々「師の師たる所以は、自ら師を持つことにあり。」という趣旨のことを述べられている。ぼくにとって、壤晴彦氏はまさしく師であり、また、読書において、内田樹氏も、師として仰ぐべき方と決めている。
この良き師に恵まれて、ぼくのこれからの生も、また良きものになる、という筋道ということになるな。
あ、ところで、演技指導の「ダメだし」において、時として人格否定にいたるようなダメだしというのはあって、でもそれが、いったん否定を通した後の大きな肯定に至るという場合もあって、それはそれで否定できない場合もあるのだろうと思う。このあたりは奥が深く、いうまでもなく、ぼくの手には負えないものだ。
もうひとつ蛇足。ぼくは、これからそんなに積極的に生き延びていこうというふうには思っていない。そろそろこんなものだろうか、と思うところもある。55歳といえば、ぼくが就職した頃は定年の年齢だ。諦念?ここで終わり、と宣告されたら、それはそれでいいのかもしれないと思ったりもする。これは妻には秘密。(言ってるけど。)
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